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古城巡り 写真館
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勝栄寺土塁 教訓状発祥の地 山口県周南市

2017/09/17
山口県 0
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勝栄寺は、陶弘政を開基とする時宗寺院(現在は浄土宗)です。創建されたのは、陶氏が富田保へ移住して間もない時期(1350〜80年)と考えられています。
 この時代の時宗は、布教と併せて北朝方の動静をさぐり、南朝方の連絡をすることにあったとみられており、富田保が大内惣領家の橋頭堡的位置を占めていたことからして、勝栄寺の政治的・軍事的性格は強まらざるを得ませんでした。
 勝栄寺は、江戸時代の「防長寺社由来」絵図に土塁と濠が描かれており、土塁の北・西部は今日まで残存し、濠も近年まで蓮田としてその面影をとどめていました。
 南北朝動乱期の陶氏が置かれた厳しい立場からみて、この時期に防御施設として、土塁や環濠が設けられたのではないかと考えられています。
 繁栄した中世の富田保や富田津の歴史だけでなく、めまぐるしい動きをみせた中世防長史の舞台として、現存する数少ない貴重な史跡です。




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現地説明板より




1557年(弘治3年)11月25日に周防富田(現・山口県周南市)の勝栄寺で書いた元就の自筆書状。60歳を越えていた元就が、3人の息子たちに(他の子どもたちを含めて)一致協力して毛利宗家を末永く盛り立てていくように後述の14条に渡って諭している。
1546年(天文15年)に元就は隠居を表明して、長男の隆元が家督相続をしていたが、これは形式的なものであり、実質的な毛利家当主は引き続き元就が務めていた。そして、防長経略で周防国・長門国を勝ち得た1557年には毛利家の実権を隆元に譲ろうとしたものの、隆元が「防長まで拡大した領国を治めるには、父の後見が必要」として元就の隠居に強く反対して翻意を促し続けた。やがて、同年11月初旬に周防で大内残党が挙兵したため、隠居を思いとどまった元就は、隆元を後見して親子で防長に出陣。元就らが周防に到着した頃には、大内残党の蜂起は既に内藤隆春らの働きでほぼ鎮圧されていたものの、大内氏残党のみならず尼子氏や大友氏との戦いが続くであろう毛利家の今後を案じた元就は、陣中で教訓状をまとめた。
この教訓状は、文字通り3人の息子たち宛てに書かれたものではあるが、「兄弟が結束して毛利家の維持に努めていくことの必要性を説き、元就の政治構想を息子たちに伝えた意見書であり、単なる教訓とは異なる」「毛利家の公式文書としての色合いが強い」とされる。そのため、教訓状の続きとなる短い書状(毛利家文書406号)が隆元宛てに書かれている。この書状では、「当家のことをよかれ思うものは、他国はもとより、当国にもいない」「毛利家中にも(中略)当家をよく思わない者もいる」「兄弟の仲が悪くなれば(毛利家は)滅亡すると思うように」などと書かれている。





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勝栄寺の山門




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勝栄寺の本堂




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現地説明板




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勝栄寺の板碑





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樋口山城守与六
Admin: 樋口山城守与六
関東を中心に、全国の城館をPhoto・PhotoMovieにて紹介します。近年(又は現在)の城館を紹介して行きます、以前は藪の中で在ったが現在は綺麗に整備された遺構を又は破壊、消滅された遺構も現在の在るままを紹介します,目に見える写真で城館を記録していきます又史跡、神社仏閣、自然を気ままに撮ります・・・・・・・・・・・・!!デジブックは2020年3月31日に閉鎖になりました、沢山の御視聴ありがとう御座いました。
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