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古城巡り 写真館
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周防源氏武田氏館 山口県岩国市

2017/09/14
山口県 0
安芸武田氏の 武田光和 は正妻(八重女)との間に嫡子がないまま、天文9年(1540) 33歳の若さで病没した。
後継者として、光和 の甥 信重 (光和の妹婿 繁清の子<繁清=伴城主、別名 伴五郎>)と若狭の 武田信実 の案があったが、結局、 尼子氏や重臣たちの推挙した 信実 を養子に迎え家督を継いだ。が、その時、重臣 品川氏らの「毛利・熊谷氏に対し直ちに”元繁”光和” の弔い合戦をすべし」という強硬派に対し、八木城 主香川光景らは「一旦 毛利氏と和睦し時を見て合戦をすべき」と主張したが、受け 入れられず、重臣間に決定的な亀裂が生じた。その結果、香川光景は武田と袂を別ち、毛利よりの行動をとることになる。
 その香川光景 は、光和の愛妾との間に生まれた小三郎を安芸武田氏の後継にし、銀山城主となるよう 毛利元就 に助勢を求めた。 助勢の約束した元就は天文9年(1540) 一旦、小三郎と八重女を「玖珂」に住まわせ、翌年の天文10年(1541)、元就 は銀山城を落城させ た(香川光景は毛利方として参戦)。 信実は尼子氏を頼って敗走し、再び安芸に戻ることは無く、ここに安芸武田氏は滅亡した。
 しかし、小三郎を城主に迎える約束は果されなかった。その後、成人した小三郎は元就に仕え身辺の護りや戦の案内役なに勤めた。 やがて小三郎は入道して「宗慶」と名乗り周防武田氏の祖となった。
 時代は過ぎ、文政元年(1818)12代 「武田宗左衛門」は、文武両道の 「稽古屋敷」 を設け、郷士の子弟などに文武を教えた。 これが明治時代の、「中野小学校」の前身となる。
 周防武田家は、小三郎以来、玖珂の武田屋敷に376年間居住し、江戸、明治、大正と、町の教育の振興に力を尽くされた。
 その後、大正6年、16代 「武田甲斐人」氏のとき、広島県呉市に移住して、現在の「呉武田学園」の前身「大正中学校」を創設し、 稽古屋敷創設以来、今日まで代々190年間も育英事業にあたっておられる。
現地説明板より





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舘跡入り口




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現地説明板・・・・・・何やら門までが、草が!!




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武田氏館門




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門を入ると右側に、「 文政元年 稽古屋敷創設之地 創立者武田宗左衛門 」 と書かれた石碑や井戸がある。




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屋敷の奥は武田氏の墓所になります、、「武田信宗」、「光和」 の墓をはじめ、比較的新しい現代までの代々の武 田家の墓が並んでいる。さらに奥に進み緩やかな裏山の墓所に、「小三郎」、「八重女」、「光信」 などの墓がある。 





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樋口山城守与六
Admin: 樋口山城守与六
関東を中心に、全国の城館をPhoto・PhotoMovieにて紹介します。近年(又は現在)の城館を紹介して行きます、以前は藪の中で在ったが現在は綺麗に整備された遺構を又は破壊、消滅された遺構も現在の在るままを紹介します,目に見える写真で城館を記録していきます又史跡、神社仏閣、自然を気ままに撮ります・・・・・・・・・・・・!!デジブックは2020年3月31日に閉鎖になりました、沢山の御視聴ありがとう御座いました。
今年初キャンプは・・・暴風雨・・・良く月は雪・・・雨・・・そして今日はどうかな!!
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