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星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・PhotoMovieで見る 城館をどうぞ!!

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古城巡り写真館へ、ようこそ!!
北関東を中心に、城館をPhotoMovieにて紹介します
近年(又は現在)の城館を紹介して行きます。

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青森市城館 ➀ 青森県

青森市城館 ➀ 青森県







w300h300浅瀬石城
浅瀬石城
城は北へ突き出た舌状台地の先端にある。城址は、現在リンゴ園となっており、堀跡は、農園内の作道となっている。近くには、浅瀬石川が流れている。城の構造は東方・北方に浅瀬石川が流れているが、西方・南方の城下があった高賀野方面は平地である為、田舎館・大光寺方面との連携が必要である。

仁治元年(1240年)、千徳氏の祖である一戸行重が築城したとされるが、その根拠とされる『黒石星田家文書』の千徳系図は不審な点が多く、詳細は不明である。
戦国時代、城主の千徳政氏が南部氏を裏切って津軽為信と同盟を結んだ。すると、南部信直は激怒して東政勝を攻手として天正13年(1585年)4月、3000の軍勢で浅瀬石城を攻撃してきたものの撃退した(宇杭野の合戦)。しかし、この合戦で為信が援軍を出さなかった事により後の不和の原因となったといわれている。
慶長2年(1597年)2月、千徳政康の代に津軽氏との同盟が破綻し、寝返った重臣木村越後らが本丸を急襲、敵将森岡金吾などの津軽軍2500人の攻撃を受け、2000の城兵は奮戦したが落城、政康は自害したため、廃城となった




w300h300高田城
高田城
建築時期は不明である。戦国時代には土岐則基の居城であった。則基は高田村、荒川村を領して、800石で南部氏に仕え、津軽関門の守備を担っていた。天正6(1578)年、大浦為信が浪岡城を攻略、則基と嫡男の則重が戦死した。次男則忠・三男則吉は南部高信次男政信の娘を奉じ、三戸に逃亡し、則忠は三十石を賜った。それにより、廃城となったと思われる。土岐氏は、慶長年間に政信の娘が、七戸城主七戸直時に嫁ぐと、付き人として、直時に仕えて、二十三石切米五駄を賜った。後に直時の命で「高田」に改姓すると、七戸城番頭筆頭四家の一つとして栄えた。




w300h300横内城
横内城
現在の本丸部分からは横内城は東西80m、南北160mの平城であったと推測される。比高は8mと言われる。円形であったといわれるが、現在はっきりしている範囲では楕円形である。ただし、二の丸、三の丸があったとも言われ、それを含めると東西167mに及び、ほぼ円形になるといわれる。現在は堀はほぼ空堀となっているが、かつては横内川に面した崖になっている東側を除き水堀が存在した。南北の堀は幅10mから15m、深さ7mから8mである。西側の堀は幅8m、深さ2mであるが、これは合子沢川が天然の堀をなしていたため、それほど深い堀は不要と考えられたためであると考えられている。遺跡の発掘がさほど行われていない上、当時の資料にも曖昧な点が多く、今なお不明な点が多い城郭である。現在横内城本丸と呼ばれているのは常福院のある場所であるが、その場所は城代が置かれた後に盛土がされた痕跡があり、戦国時代当時からそうであったのかははっきりしない



w300h300築木館
槻木館・詳細については不明





w300h300蝦夷館
蝦夷館・詳細については不明
㊟2013年7月に登城
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