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古城巡り写真館へ、ようこそ!!
北関東を中心に、城館をPhotoMovieにて紹介します
近年(又は現在)の城館を紹介して行きます。

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黒石市 平川市 田舎館村城館 青森県

黒石市 平川市 田舎館村城館 青森県








w300h300尾崎城・本丸の城址碑
尾崎城・本丸の城址碑


尾崎城は、周辺の城郭同様集落のほぼ全体が城址である。戦国時代には、大光寺城の支城として機能していた。平城ではあるが堅固である為、隣村の新屋城と共に、浅瀬石城、浪岡城など諸城と協力する事によって、本城、大光寺城を守るのに力を発揮する。現在はほとんど宅地化しているが、堀や切岸が比較的良好に残されている。城は本郭(大館)と外郭(小館、尾崎出丸、勘助出丸、木戸口出丸)で構成されている。



w300h300新屋城の支柱
新屋城の標柱


築城年は不明。鎌倉時代に新屋氏によって築城された。新屋氏は清和源氏南部氏流七戸氏の庶流である。

戦国時代の城主は、新屋源次郎であり、千九百石の領主であった。大光寺城南部氏の支配下にあった。隣村である尾崎村尾崎城主の尾崎氏と同盟を結んでいた。藩史によると天正4(1576年)、もしくは天正2年(一統志)、11年(津軽年代記)に尾崎城主尾崎喜蔵と共に大浦為信家臣となった。一説には、大光寺城主滝本重行の攻撃により、新屋城が落城し、浪岡城に逃れた後、津軽家家臣となったという。

新屋城には、落城後も弘前城完成までは代官所が置かれていた。

津軽家家臣となった新屋氏は津軽為信より、百石を与えられ弘前藩士となった。新屋源次郎より十三代目の新屋茂樹は、近衛文麿の秘書を務め、茂樹の死後、新屋家より新屋八幡宮(新屋城址にある)に甲冑、太刀、陣羽織、陣笠などが奉納されている。





w300h300天内館・館東端に祀られている保食神社
天内館・館東端に祀られている保食神社


天内館は台地の北端部に築かれており、三郭で構成されかつては土塁と空堀が残っていたというが、現在は田畑や宅地となっている。 天内館の標柱の建つ畑地の所は、切岸加工のような地形が残り、それとなく館跡の雰囲気は残っている。



w300h300五日市館・周辺は田畑となっている
五日市館・周辺は田畑となっている
大光寺曽我氏滅亡後、延元3年(1338)に藤崎城城主の安東秀光が拠点としていた十三湊が大津波に襲われたため、安東次郎左衛門秀光は大光寺の五日市館に築城し大光寺氏を名乗ったと伝えます。





w300h300堂野前館
堂野前館
堂野前館は浅瀬石川の北岸にある堂野前集落に築かれていた。 本館と東館の二郭で構成されていたという。東館部分は果樹園、本館部分は宅地となっている。
  




w300h300諏訪堂館・東部付近の稲荷神社
諏訪堂館・東部付近の稲荷神社
諏訪堂館の館主・沿革は不明である。恐らくは大光寺城の安東氏の支城であったものと思われる。





w300h300垂柳館・三郭の神明神社
垂柳館
詳細については不明である
「垂柳」とは、浪岡城主である北畠氏四天王の 垂柳(すいやなぎ)氏から来ているとされるが、詳細は不明である。 天正年間(1573? 93)の頃には鹿内但馬守が館主であったと伝えられ、この鹿内氏と垂柳氏は同一と思われる
館は、西から主郭、二郭、三郭と連郭式となっている三郭は垂柳神社から集落在ったとされ二郭は集落西側に小さな郭である
主郭と二郭は現在果樹園となる






w300h300田舎館城本丸の土塁跡
田舎館城
田舎館村役場の東側にポツンと残る「ヤマコ」と呼ばれる林が城跡です。
「ヤマコ」には画像の解説板の他に石碑&標柱があり、「ヤマコ」自体も土塁跡になっています。
また、標柱脇に植えられたサイカチの木は、天正13年(1585年)の落城の際、330余名の城兵を埋葬した時の供養樹とも云われています。





w300h300黒石城・城址碑
黒石城
天和4年の境松村絵図によれば、黒石城は外広市館・内広市館と東西に並び、南の花館とあわせて三郭で構成されていたようである。
現在の境松集落の部分よりやや低地の所に、外広市館・内広市館部分が残っており宅地になっているようである。南にあったとされる花館は残っていない。
解りずらいが、城址碑は橋を渡る手前にある






w300h300黒石陣屋・城址碑
黒石陣屋
陣屋は明暦2年(1656年)交代寄合旗本であった津軽信英により築かれ、8代領主親足の代の文化6年(1809年)加増により1万石を領し、諸侯に列し、黒石藩として立藩した。十一代承叙の代に明治維新を迎えている。明治4年7月の廃藩置県と黒石県の成立、9月の弘前県への吸収合併により、存在意義を失い、廃城となった。
南側には浅瀬石川が流れ、陣屋との間には宇和堰があり、地形的にも自然の要塞を呈していた。大手門近くには、町令所や太鼓櫓があった。さらに、中門、無常門、御制札場などが北側にあった。西側には馬場、南東には津軽信英を祀った御廟があり、南側には蝦夷館(えぞだて)と呼ばれる地が置かれている。御門内に入るためには、大手門か西門を通過しなければならないが、これらは典型的な枡形門となっていた。陣屋の東側には、空堀があったが、明治の初め埋め立てられている。陣屋内には、御殿、台所、御蔵、焔廠蔵が配されていた。浅瀬石川に臨む段丘は比高13mの高さがあり陣屋地では唯一の要害である。
陣屋跡は、明治6年8月28日黒石小学校が建設された(後に現在地に移転)。市民文化会館や中央スポーツ館の敷地などとなり、馬場跡が黒石公園(後に御幸公園)となった。
㊟2013年7月に登城
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