景徳院 武田勝頼公廟所 山梨県甲州市
2017/07/17
景徳院 武田勝頼公廟所
天正10年3月11日徳川・織田の連合軍に攻められた武田勝頼一族郎党約50名が自害した田野の地である。
武田勝頼は、天正元年父信玄の跡をついで武田氏の当主となった。
宿敵織田信長・徳川家康と、長篠において戦ったが利あらず敗退した。
その後新府城を築き再挙を計ったが、天正10年3月再度織田・徳川軍に侵攻され、小山田氏の岩殿城に走ったがそむかれたので、ついに日川をさかのぼり田野に至って力つき、主従はここに自害して果てたのである。
その後家康入国し、勝頼等一族の菩提を弔うため僧拈橋を開山として田野寺(現景徳院)を建立した。
現在本境内には県指定の勝頼主従の墓とその位牌をまつる甲将殿がある。
この地で、戦国の雄甲斐武田家は終焉を迎えたのである(しかし、支流の武田家は残っています)


景徳院 山門 武田勝頼廟所

景徳院 本堂

甲将殿 勝頼、夫人、信勝の像や、武田氏ゆかりの遺品などが保存されている

武田勝頼公、北条夫人、信勝公の廟所(甲将殿の裏側)

没頭地蔵 三人の亡骸が埋葬された場所
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天正10年3月11日徳川・織田の連合軍に攻められた武田勝頼一族郎党約50名が自害した田野の地である。
武田勝頼は、天正元年父信玄の跡をついで武田氏の当主となった。
宿敵織田信長・徳川家康と、長篠において戦ったが利あらず敗退した。
その後新府城を築き再挙を計ったが、天正10年3月再度織田・徳川軍に侵攻され、小山田氏の岩殿城に走ったがそむかれたので、ついに日川をさかのぼり田野に至って力つき、主従はここに自害して果てたのである。
その後家康入国し、勝頼等一族の菩提を弔うため僧拈橋を開山として田野寺(現景徳院)を建立した。
現在本境内には県指定の勝頼主従の墓とその位牌をまつる甲将殿がある。
この地で、戦国の雄甲斐武田家は終焉を迎えたのである(しかし、支流の武田家は残っています)


景徳院 山門 武田勝頼廟所

景徳院 本堂

甲将殿 勝頼、夫人、信勝の像や、武田氏ゆかりの遺品などが保存されている

武田勝頼公、北条夫人、信勝公の廟所(甲将殿の裏側)

没頭地蔵 三人の亡骸が埋葬された場所
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