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古城巡り 写真館
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鴫山城 福島県南会津町

2017/06/04
福島県 0
鴫山城







鴫山城 絵図 現地説明板より
鴫山城 絵図 現地説明板より


鴫山城の築城年代は不明であるが、『塔寺八幡宮長帳』には、長禄4年(1459年)に山内越中と白川氏が「南山しき山の城」を攻め落としたことが記載されており、この頃にはすでに存在していたことは確実である。鴫山城一帯(「南山」と称されている)は、長沼氏が支配しており、鴫山城を築城したのも長沼氏と推定できる。16世紀初頭、長沼氏は長沼政義の代に蘆名氏の蘆名盛高とともに下野国まで勢力を拡大し、最盛期を迎えたが、永正6年(1509年)、宇都宮城主・宇都宮成綱との争いに敗れ下野国の領土をすべて失った(片角軍萱の戦い)。永正18年(1521年)、長沼氏は黒川城主・蘆名氏と戦い、鴫山城を落とされたという。その後も長沼氏は蘆名氏と戦い、一時は南山を取り返すなど勢力を巻き返したが、16世紀半ばに長沼氏は蘆名盛氏に臣従することとなった。天正17年(1589年)の摺上原の戦いで蘆名氏が滅亡すると、鴫山城主・長沼盛秀は伊達政宗に臣従し、伊達勢とともに河原田盛次が守る久川城を攻撃している。天正18年(1590年)の奥州仕置によって長沼氏は伊達氏に従って南山を去り、鴫山城には蒲生氏郷家臣・小倉行春が6,300石で入城する。その後、上杉氏時代は直江兼続(上杉景勝の執政)の弟・大国実頼が城代となり、関ヶ原の戦い後に蒲生秀行が会津領主となると、再び小倉行春が城代となった。その後、寛永4年(1627年)に加藤嘉明が会津領主となった際に廃城となった。


鴫山城 大門石垣
鴫山城 大門石垣



鴫山城 上千畳
鴫山城 上千畳

鴫山城は標高750mの愛宕山北辺部に築かれた典型的な山城である。城全体の全長は南北に700mで、山頂部の350mは急斜面、山麓部の350mは緩斜面である。山頂から山麓にかけて、尾根や谷間などの自然地形を利用して、土塁や門、堀などが構築されている。愛宕山山頂には現在、愛宕神社が祀られているが、戦国時代(長沼氏時代)はここが城の本丸であり、本丸の北東と西方向に削平して階段上になった曲輪群が上から下へ続いている。本丸から北東部の曲輪群をやや下がると、主水曲輪、御茶屋場と呼ばれる比較的広い平場が現れるが、山頂部から御茶屋場一帯あたりまでが長沼氏時代の城郭跡と推定される。山麓部には愛宕神社参道に沿って、侍屋敷跡、大門跡、御平庭、上千畳(本丸跡)、下千畳(二の丸跡)、空堀などの遺構が見られ、大門跡に石垣が復元されているほか、御平庭は公園化されている。これら山麓部は、蒲生時代以降の城の中心部と見られている。上千畳は1979年(昭和54年)に発掘調査され、書院建築の礎石群や庭園状の遺構が検出され、蒲生氏・上杉氏時代の本丸跡と推定できる。



鴫山城 主水曲輪
鴫山城 主水曲輪



鴫山城 主水曲輪北面の野面積石垣
鴫山城 主水曲輪北面の野面積石垣



鴫山城 愛宕山山頂 社殿は近年焼失したようです
鴫山城 愛宕山山頂 社殿は近年焼失したようです



鴫山城 外郭遺構 東城塁
鴫山城 外郭遺構 東城塁




鴫山城 東城塁 二重土塁
鴫山城 東城塁 二重土塁



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樋口山城守与六
Admin: 樋口山城守与六
関東を中心に、全国の城館をPhoto・PhotoMovieにて紹介します。近年(又は現在)の城館を紹介して行きます、以前は藪の中で在ったが現在は綺麗に整備された遺構を又は破壊、消滅された遺構も現在の在るままを紹介します,目に見える写真で城館を記録していきます・・・・・・・・・・・・!!デジブックは2020年3月31日に閉鎖になりました、沢山の御視聴ありがとう御座いました。
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