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星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Photo Movie で見る 城館をどうぞ( `ー´)ノ

古城巡り 写真館

PhotoMovieにて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・
城エクスポ2019

東條城 茨城県稲敷市

_DSC0204奥の台地が城址
奥の台地が城址・・・・・・・おや( ゚Д゚)市の史跡指定の看板が有りません??

現在は立入禁止!!
やはり・・・・現在は立入禁止!!"中に有志が建てた城址碑が有りました!!

常陸大掾平国香から6代後の平直幹には長男義幹・4男弘幹・5男忠幹・6男長幹の4男あり。次男・3男は早世と見られ、直幹は平安後期に長男を除く3子へ順次常陸国内の領地を割譲。東条五郷と呼ばれるこの一帯は5男忠幹に譲渡した。忠幹は、この地に東条城を築いて東条五郎左衞門尉忠幹と名乗り東条氏祖となる。
治承から文治の源平争乱では坂東諸平氏の多くが頼朝に与する中にあって非協力的な態度を貫き、寿永2年(1183)の志太義広の反乱では義広に与して一時的とはいえ敵対したため鎌倉幕府から冷遇され、佐竹氏・小田氏・北条氏らから圧迫された東条氏は、領地へ東条高田氏・東条大沼氏・東条社氏など複数の分家を配置して嫡流を不明確にし、幕府御家人国井氏・中郡氏・那珂氏らと姻戚関係を構築し、加えて康元元年(1256)8月以前に東条の地を熊野新宮速玉社へ寄進・立荘する等の対策を講じて所領確保に努め鎌倉期を乗り切る。
南北朝内乱初期の東条荘は全盛期を迎えた東条氏の統治が確立していたが、延元元年(北朝建武3年)(1336)1月、北朝方足利尊氏が東条五郷の一つ高田を佐佐木定宗に宛行。高田郷を没収された東条氏は南朝へ靡き、備えとして神宮寺城を築く。
延元2年(北朝建武4年)(1337)7月、常陸南朝勢が東条城に挙兵。早くも同月、東条城は北朝方烟田時幹に攻められる。
延元3年(北朝暦応元年)(1338)、南朝の准后北畠親房は勢力立直しのため500艘の大船団で陸奧へ向け伊勢を出航するも同年9月9日、遠州灘で台風に遭い四散。親房主従は同年同月11日、再度の烈風で信太郡東条浦(桜川地区)へ漂着。ときの地頭東条氏(能登守か)の案内で神宮寺城へ入る。
同年10月5日、北朝方佐竹義篤が大掾高幹、鹿行の鹿島幹寛・烟田時幹・宮崎幹顕ら北朝勢力を糾合して霞ヶ浦を渡り神宮寺城へ来攻。程なく落城。親房一行は近傍の阿波崎城へ移り、救援の小田治久により小田城へ入る。
興国2年(北朝暦応4年)(1341)9月17日、北朝方屋代彦七信経・別府幸実ら北朝勢が東条城を含む南朝方の城を攻略。同年10月5日、東条氏は余力を残して降伏する。
一方、嘉慶元年(北朝元中4年)(1387)頃、美濃国守護土岐氏庶流の原刑部少輔秀成が関東管領山内上杉憲方の被官として江戸崎へ移住し信太庄惣政所を開設。土岐原氏を名乗り江戸崎土岐氏祖となる。江戸崎城を築いて本拠とする土岐原氏は明応6年(1497)5月17日、4代景成が嗣子なく没したため内紛が発生。永正7年(1510)頃、江戸崎城は土岐原氏一部家臣の内通により小田成治に横領された可能性あり。永正年中(1504~1520)、土岐原氏家臣が美濃国守護である本家土岐政房の3男治頼を養子として迎え江戸崎土岐氏5代当主とする。
大永3年(1523)3月9日の屋代城合戦で、土岐原治頼・近藤勝秀・臼田河内守ら山内上杉氏方が、信太氏・多賀谷氏・真壁氏・小弓公方ら小田政治勢に勝利。これを機に土岐原治頼が信太・東条・河内の旧領奪回を開始。江戸崎城を奪還した治頼は、勢力挽回策の一つとして天文22年(1553)までに東条氏と姻戚関係を結び麾下に組み入れて東条城は土岐氏の支城となる。
天文11年(1542)、土岐原治頼の兄美濃国守護土岐頼芸が守護代斉藤道三から最初の攻撃を受ける。頼芸は土岐原治頼の子治英へ系図と鷲の絵を贈る。天文12年(1543)、頼芸は治頼に家牒を譲り土岐家総領たることを許す。治頼は、子の治英の代から土岐氏に復すことを決断したとされる。天文21年(1552)、頼芸は斉藤道三から三度目の攻撃を受け美濃を逐われる。
小田氏との抗争を続ける土岐氏は佐竹氏の南下政策に対抗するため後北条氏と同盟したことから豊臣秀吉の小田原征伐に伴う常陸国の合戦に於いて秀吉方佐竹義宣の弟芦名盛重配下の神野覚助に攻められる。このとき東条城最後の城主土岐頼英は幼少のため父治綱の江戸崎城に詰めていたと見られ、僅かな守備隊が守る東条城は天正18年(1590)3月25日に東条弾正が討たれ落城。東条氏族の生き残った者は各地へ敗走。江戸崎城は同年5月20日に開城。土岐治綱・頼英父子は家臣と共に帰農して命脈を保つ。秀吉が江戸崎土岐氏を許したのは、治綱を高田須に留め置く間に家康が本能寺の変に於ける命の恩人である土岐氏の存続を主張したためではないか。この推測は、後に徳川家康が土岐頼英と誼を通じたり、土岐氏、明智氏関連の人物を男女ともに厚遇した事実を以て補強される。一方、家康は江戸崎落城以前にこの地域に於いて佐竹氏を牽制する動きを開始している。
「常陸平氏系「太田氏」さんより」
2017.5.6現在は敷地内がソ-ラ-システムとなり、立入禁止となっています。




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