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星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Photo Movie で見る 城館をどうぞ( `ー´)ノ

古城巡り 写真館

PhotoMovieにて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・
城エクスポ2019

三春城 福島県三春町

三春城







三春城がいつ頃築城されたのかはわからない。史料上はっきりしていることは、永正年間(16世紀初頭)に田村義顕が守山城(現在の福島県郡山市)より三春城に本拠を移したという。田村氏は田村郡全域を支配していた豪族で、系図上は坂上田村麻呂の子孫となっているがその点は疑問符が付く。田村氏は義顕の後、田村隆顕、田村清顕と続く。隆顕と清顕の時代、田村郡のある仙道地域(現在の福島県中通り)は、会津黒川城の蘆名氏、小高城の相馬氏、岩城郡の岩城氏、出羽米沢城の伊達氏、常陸の佐竹氏などの周辺各地の有力豪族がその勢力拡大のため進出してきていた。それらの豪族より力の劣る田村氏は、各有力豪族と血縁関係を結び、それら豪族の利害関係を利用して、領地を保つ状況であった。
例えば、永禄元年(1568年)の蘆名盛氏の仙道侵攻に対しては、隆顕は自分の正室(伊達稙宗の娘)の実家・伊達氏を後盾にこれに対抗し、また、天正元年(1573年)の佐竹氏の仙道進出には、一転蘆名氏と連合を組んでこれを撃退している。しかし、翌年に蘆名氏と佐竹氏の同盟が成立、さらに同じ仙道地域の小豪族である二本松城の二本松義継や小浜城の大内定綱らもそれに呼応して反田村氏となったため、田村氏は四方を敵に囲まれることとなった。
このような危機的状況の中、田村氏は隆顕から義顕に代替わりした。清顕の正室は相馬顕胤の娘であったので、相馬氏とは友好関係が保たれてはいたが、さらに清顕の一人娘・愛姫を伊達輝宗の嫡男・政宗に嫁がせて、伊達氏とも同盟関係を結ぶことにした。しかしこのころ、相馬氏と伊達氏は伊具郡(宮城県丸森町)を巡って対立を深めており、相馬氏は佐竹氏・蘆名氏等と手を組むこととなる。



三春城 大手の桜
お城坂の枝垂れ櫻


天正12年(1584年)に伊達政宗が伊達氏家督を相続すると、政宗は積極的に仙道進出を繰り返す。このため、田村氏を除く仙道地域の諸豪族は佐竹・蘆名・岩城・相馬などと連合を組み、伊達氏に対抗した。しかし政宗は、父・輝宗が二本松城主二本松義継に謀殺されるなどの試練を乗り越え、天正13年(1585年)冬、人取橋の戦いにおいて伊達・田村軍は数的に圧倒的不利な状況で佐竹氏・蘆名氏等の連合軍の仙道制覇を阻むことに成功する。その後、形勢は逆転し、政宗の南奥羽制覇につながっていくのだが、その過程において、天正14年(1586年)に清顕が死去し、清顕に男子がいなかったため田村氏家督が不在となる状況が生じた。そのため、清顕夫人(相馬顕胤の娘)が三春城主となったが、このとき、田村家中60数名が一致団結を約した誓書(血判状)をしたためている。しかし、血判状とは裏腹に田村家中は清顕夫人の縁に頼って相馬氏と同盟を組むべしと主張する一派(相馬派)とこれまでどおり伊達氏との同盟を継続すべしと主張する一派(伊達派)に分裂した。
このような家中の状況の中、天正16年(1588年)に相馬派は家中掌握のため相馬義胤を三春城に入城させようとする。義胤は三春まで進出するが、伊達派の田村月斎等の反撃にあい、撤退を余儀なくされた。その後、その年の8月に政宗は三春城に入城し、1ヶ月半程滞在して田村領の仕置を行い、家中から相馬派は一掃され、清顕の甥の田村宗顕を三春城主とした。この時をもって、田村氏は実質的に伊達氏に従属したといってよい。なお、田村氏は小田原征伐に参陣しなかった(政宗の指示による)ために豊臣秀吉の奥州仕置によって改易となった。
田村家中はその後、伊達氏に仕えた者、新領主蒲生氏に仕えた者、帰農した者など、それぞれの道を歩むこととなった。宗顕は流浪した後、政宗の死後に愛姫のとりなしによって白石城主・片倉重長に仕えた。



愛姫誕生の地
愛姫誕生の地




三春城 城址碑
三春城 城址碑




三春城 本丸跡
三春城 本丸跡



奥州仕置によって、三春城は蒲生領となる。その後は上杉領、再び蒲生領、さらには加藤領となるが、三春城主には一族や重臣が配され、石高も5万石前後と一般大名なみの所領を与えられていた。寛永5年(1628年)松下長綱が三春3万石に封じられ、入城する。この松下氏時代に三春城は改修され、それまでの戦国城館的なものから近世城郭として生まれ変わった。




隊長2




現在の三春城の構造は、この松下氏時代の城郭を基本としているものである。ただし、この時点ではまだ山城であり、近世的な平山城になるには次の秋田氏時代を待たなければいけない。長綱は寛永21年(1644年)に改易となり、翌年、常陸国宍戸から秋田俊季が5万5千石の領主として三春城へ封じられた。秋田氏は中世に十三湊で一大隆盛を誇った安東氏の末裔である。
その後、秋田氏は幕末まで三春藩主として君臨した。なお、幕末の戊辰戦争の際、官軍(薩摩藩・長州藩・土佐藩迅衝隊など)が隣藩の棚倉城を落とすと、断金隊隊長の美正貫一郎の尽力や河野広中らの働きによって秘かに板垣退助らと会談して三春藩は奥羽越列藩同盟を脱退、官軍に無血降伏した。そのため、三春城は周辺諸藩と違い、逆賊のそしりを受けずに済み落城を免れた。



三春城概念図@ヤマシロ
㊟イメ-ジ図になります(*ノωノ)





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