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星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Photo Movie で見る 城館をどうぞ( `ー´)ノ

古城巡り 写真館

PhotoMovieにて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・
城エクスポ2019

三岳城~井伊氏の詰城

三岳城







三岳城の歴史は深く、古い記録によると、暦応2年から3年(1339-40)に、井伊の谷を領する井伊道政が、南朝方の後醍醐天皇の皇子である宗良(むなよし)親王とともに立て籠もった山城とされています。当時、浜名湖北岸の南朝方の山城としては三岳城をはじめ、千頭峯城、奥山城、天山城、井伊谷城、大平城が、平城として鴨江城が知られています。このうち鴨江城は現在の鴨江寺で、奥山城も現在の奥山方広寺の前進寺院と見られ、大平城でも出土した遺物から城内に山岳寺院が存在していたことが分かっているなど、これら南朝方の城と中世寺院とが密接に係わっていたと見られています。三岳城においても、本曲輪で13世紀から16世紀の陶磁器が採集されていて、現在は山腹にある三岳神社の関連施設が山頂にあって、それを山城として利用したと見られています。つまり、自然の要害を活かしたのが南北朝期の山城の姿で、堀切や曲輪の造成は、戦国期の遺構と考えられています。
城の構造は、本曲輪・二の曲輪群と東の曲輪群に分けられます。前者は最高所の本曲輪を中心に帯曲輪と狭いニの曲輪があり、西側の尾根筋を遮断するための二重堀切が配置されています。いずれの曲輪もあまり広さはなく、大きな兵力を駐屯させるためではなく、西側の尾根筋からの攻撃への備えと、眼下の街道の監視所としての用途が考えられます。
一方の東の曲輪群は、本曲輪群よりも低い尾根筋にあり、土塁によって分断された二つの広い曲輪を中心しています。自然地形を巧みに活かしていて、造成度はあまり高くありません。その広さから、兵力の主体の駐屯が目的だったことは明らかです。ここは東からの尾根筋を遮断する幅約10mの堀切に守られ、その外側には土塁が盛られ、さらに防御性を高めています。こうした工夫は、類似したものが大平城にも見られ、共通の築城者が関与していたと思われます。
戦国期後半の三岳城の城主については不明ですが、現在確認できる城跡は、永禄年間末期に始まり天正4年まで続く徳川氏対武田氏による遠江攻防戦の時の姿を留めていると見られています。特に、本曲輪西側の二番堀切からは、永禄末年に武田氏の影響のものと、在地勢力による改修があり、その後に徳川氏の改修によって東の曲輪が設けられたと考えられます。



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