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古城巡り 写真館

PhotoMovieにて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・
城エクスポ2019

二本松城 幕末・・・もう一つの悲劇の地!!2016.7.2改

二本松城 1



二本松城 2




二本松城跡は、中世から近世にかけて同じ場所で存続した東北では稀有な城跡です。
築城は畠山満泰が応永21年(1414)にこの地に居を構えたとされます。天正14年(1586)に伊達政宗により畠山氏が滅ぼされると、豊臣秀吉の奥州仕置以後は会津領に組み入れられ、蒲生・上杉の支城として城代が置かれました。その後松下・加藤氏を経て、寛永20年(1643)に丹羽光重が10万700石で入封し、以後、二本松藩の居城として明治維新に至りました。このように中世から近世にかけて奥州の要としての位置を占めた二本松城跡は、中世から近世への築城技術の変遷を知ることができる重要な城跡として、平成19年7月26日、国史跡に指定されています

築城は、古く畠山満泰が応永21年(1414)に塩沢の田地ケ岡よりこの白旗ケ峯に居を移し、二本松城と号したとされています。天正14年(1586)に伊達政宗が畠山氏を滅ぼして二本松城は伊達の支城となりましたが、豊臣秀吉の奥州仕置以後、二本松は蒲生・上杉の支城として城代が置かれました。その後松下・加藤氏を経て、寛永20年(1643)に丹羽光重が10万700石で入封、城内の石垣等の修築を行うとともに城下町整備を行い、二本松藩の居城として明治維新に至りました。現在の二本松市街地の原型はこの近世二本松藩成立期の丹羽氏により形成されたもので、基本的には現況の町割と大きな差はありません。このように中世から近世にかけて奥州の要としての位置を占めた二本松城跡は、戊辰戦争においても重要な役割を果たしましたが、慶応4(1868)年7月、二本松少年隊の悲話を残して落城しました。その後、城跡には二本松製糸会社(後に双松舘)が明治6年に建設され、当地域における近代化に大きな役割を果たしました。


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