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星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Photo Movie で見る 城館をどうぞ( `ー´)ノ

古城巡り 写真館

PhotoMovieにて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・
城エクスポ2019

潜竜院跡・郷原城~武田家再起の・・・・・

潜竜院跡・郷原城






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潜龍院跡
織田・徳川連合軍による甲州征伐時、真田昌幸様が主君・武田勝頼公に退却を進め、名門武田の家運を挽回しようとしたのが「岩櫃城」。結果、勝頼公は岩櫃には入らず、天目山で自害してしまうが、昌幸様が勝頼公を迎えるために3日間で建てたといわれる館城が、古谷御殿。そこに潜龍院(せんりゅういん)という寺があったため、この地を「潜龍院跡」と呼んでいる(東吾妻町郷原古谷地区)。絶壁の岩櫃山の眼下に開けた不思議な空間で、山の中に開けた庭園のよう。


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郷原城
この要害の規模は柳沢城(岩鼓の要害)より更に小さく、用途としては岩櫃牙城の支城であり切沢方面の防護と、岩櫃山間道を抜けて岩櫃牙城を攻められないように配置した物、または敵に攻められたときの狼煙の中継点に使われた物と思われます。

 真田に攻められたときに、柳沢城では三百騎配置されましたが此処は更に少なく、十数人~数十人程度の配置で手一杯だったでしょう。城の広さからすると、物見の砦程度の遺構です。

 斎藤氏時代の記録がないところを見ると、あるいは真田昌幸の時代に潜竜院と共に築城されたのかもしれません。詳細は、全く記録にも残っていませんので全くわかりません。

 この城は、吾妻川側に展開していて堅壕で三つに切られていたと思います。本城域は四つの郭でなっていて表側に梯郭式で本郭、二の郭、三の郭と展開して堅壕で先端の細長い郭と大堀きりで区切られていたような作りとなっています。



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