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粟原城2016改 鷲宮神社の神主が城主

粟原城





当時は、戦国時代の真っただ中にあり、相模国(さがみのくに)(神奈川県)の北条氏康(うじやす)・氏政(うじまさ)、甲斐国(かいのくに)(山梨県)の武田(たけだ)信玄(しんげん)、越後国(えちごのくに)(新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん)ら戦国大名が激しい抗争を繰り広げていました。元亀2年(1571)には、武田信玄が北条氏領国へ侵攻し、久喜周辺にも行軍しています。また、元亀3年(1572)から翌年にかけては、北条氏政が上杉側の羽生城(羽生市)、関宿城(千葉県野田市)等の拠点を攻撃し、救援のため出兵した上杉謙信と対峙しました。目沼郷や久喜市周辺地域は、これらの戦国大名が入り乱れて争う最前線だったのです。

「鷲宮町史 ふるさとガイド」(鷲宮町企画財政課 平成2年3月より

 鷲宮神社に残る古河公方(足利晴氏)の書状の中に、神主「細谷光朝(ほそがやみつとも)この時より古河公方左馬頭晴氏公の先陣と成る」との記録がみられ、鷲宮神社の神主は武将をかねた神官であったといえる。このころから粟原城はあったのだろうか。
    
 謙信による小田原攻めにあたって鷲宮神主細萱光仲(ほそがやみつなか)は、家臣八〇余名をひきいて小田原に籠城しており、上杉勢が城の包囲をといての帰りに、その家臣の木戸宮内少輔(きどくないしょうゆう)が一000余人をひきい、八月十八日に鷲宮の粟原城を焼きはらい、鷲宮に属する花崎城を攻めおとしたという。このとき、鷲宮「社領長」の針谷氏は、光仲の子泰秀(やすひで)や御局(おつぼね)をかくまい、光仲の叔父にあたる大乗院秀全にあずけたという。

 古河公方亡きあとも、鷲宮神主は、小田原の北条氏直と親密な関係で、年始祝いの贈答品のやりとりをつづけていた。このとき、鷲宮の粟原城には北条軍が駐留し、軍需物資を輸送する拠点とされていたようである。すなわち、北条氏は、鷲宮神主ならびに城の駐留軍に対し、「社中の木一本たりとも虎の印判(北条氏の許可)なくして刈りとるべからず、かりそめにも刈りとった者がいたときは、城中の奉行を罪科に処す」であろうと命令を発している。
 また、天正十三年八月の神主への書状には、「鷲宮に集めた荷物は、相違なく陣中に通すこと」との内容が記されている。したがって、鷲宮は、当時北条氏の軍需物資の集散拠点になっていたのは確かであろう。

 秀吉の小田原征伐にあたり、神主泰秀は、北条家より兵糧をあたえられ小田原に籠城したが、途中で鷲宮にもどったといわれる。

遺構を確認するには、かなり困難であると言って良いだろう・・・・明確な遺構は・・・・・。


主郭と言われる祠
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西側から見た粟原城、奥の林が鷲宮神社で手前の住宅地が粟原城
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