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星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Photo Movie で見る 城館をどうぞ( `ー´)ノ

古城巡り 写真館

PhotoMovieにて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・
城エクスポ2019

武田信義館~願成寺・武田氏の祖

武田信義館~願成寺



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 鳳凰山願成寺の創建は宝亀2年(771)、権大僧都心休了愚法印が京都祇園寺の末寺として開かれました。当初は草庵でしたが延長6年(928)、堂宇を建立し地蔵菩薩を安置、寺院として願成寺が成立しています。その後、衰退しましたが平安時代末期、この地の領主となった武田信義(源清光の次男、武田家4代当主)が中興し京都の仏師が製作した木造阿弥陀三尊を奉納、祈願所として庇護しています。周囲には信義の居館や詰城である白山城、崇敬社である武田八幡宮などの史跡が点在しています。武田信義は源平の合戦で活躍するものの源頼朝と不仲となり自刃(又は文治2年:1186年に病没)、戒名「願成寺殿俊照国公大禅定門」、庇護者を失った願成寺も衰退したと思われます。戦国時代に武田信虎の甥が住職となり天台宗から臨済宗に改宗すると再び武田家の庇護の下諸堂が再建され寺運も隆盛し永禄2年(1559)には曽雌定能(武川領主)が木造阿弥陀三尊を寄進しています。天正10年(1582)、織田信長の甲斐侵攻により武田家が滅びるとその兵火により多くの堂宇、寺宝、記録などが焼失、その後再建したものの慶長12年(1607)の火災により再び大きな被害を受けました。宝永15年(1638)、然重応廊和尚が曹洞宗に改宗し上条南割村の大公寺末寺となり、万治元年(1658)に赫山和尚が再興に着手し庫裏(寛永年間:1624~1645年)、本堂(元禄年間:1688~1704年)などを随時再建しています。寺宝である木造阿弥陀如来及び両脇侍像は武田信義が寄進しもので、平安時代末期(12世紀後半)に製作、阿弥陀如来座像:寄木造、像高146.1cm・観音菩薩立像:寄木造、像高169.7cm・勢至菩薩立像:寄木造、像高168.5cmいずれも定朝様の作風が感じられる貴重なものとして昭和14年(1939)に国指定重要文化財に指定されています。又、武田信義の墓と伝わる鎌倉時代初期の塔形を残す「五輪塔」、後白河法皇が命名し、馗安が揮毫したと伝わる願成寺の「山号額」、武田氏歴代の位牌堂の本尊として御霊殿に安置されている「阿弥陀三尊像」が韮崎市指定文化財にそれぞれ指定されています。斐百八霊場第77番札所。宗派:曹洞宗。本尊:阿弥陀如来。

武田八幡宮は、社記によれば、武田王を祀る宮社があったところへ、弘仁13年(822)2月に勅令によって、九州宇佐八幡宮を勧請し合祀したことから、武田八幡宮と称したといわれています。貞観年間(859~877)には京都岩清水八幡宮を勧請しています。

 甲斐源氏、新羅三郎義光のひ孫に当たる信義は本地に居館を置き(市指定文化財「武田信義館跡」)、武田太郎信義を名乗り、当社を氏神としました。韮崎市が甲斐武田氏発祥の地といわれるゆえんでもあります。

 天文10年(1542)には武田晴信(後の信玄)が本殿を再興しました。

甲斐源氏清光の子である源信義は、この地に居館を構えると、武田太郎と号して武田氏の祖となり、甲斐源氏一族を率いて強大な武力を誇った。
1180年(治承4)平家討滅の兵を起こし、信濃・駿河に転戦して武功を立て、駿河守護に補せられたが、やがて源頼朝に退けられ、1186年(文治2)失意の内に世を去った。
館址南東の願成寺境内には武田信義墓所がある。




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