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古城巡り 写真館
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薩摩 霧島 鹿児島 姶良市城館~薩摩

2015/10/11
鹿児島・沖縄県 0
桑幡氏館 舞鶴城 加治木城 加治木館 富隈城 鶴丸城 横川城 松尾城



桑幡氏館 鹿児島県隼人町神宮2
桑幡氏館
神仏混淆であった大隅正八幡宮には、別当寺も含め多くの神官・神人・僧侶が係わっている。「四社 家」、「十家」又は「一家」、「衆徒十五坊」、「殿守十二家」、「四十七家」「隼人十八家」など 百十家があり、中でも世襲の四社家は、それらを統括する立場にあった。

 桑幡氏は、息長姓をもち現在の当主で76代目となる。中世には「社家の筆頭」とされる。長く大隅正八 幡宮の四社家として、留守・沢・最勝寺氏とともに神宮の繁栄を支えてきた。桑幡氏は、「火闌降命よ り出、欽明天皇御宇息長姓を賜う」とあり、隼人の子孫であるともいわれ、また、大分県の宇佐から来 たともいわれる。平安~鎌倉時代には助清・清道親子152・53代)が活躍した。『平家物語長門本』に第 53代息長清道が登場し、平清盛と親交があったことが記されている。

 平成12年度から宅地造成やマンション建設・保存整備目的等でこれまで6回調査された。第1・2次 調査では、館を取り囲む堀や池状遺構などを検出。堀は底面が狭くなる薬研堀を呈し、幅約4m、深さ 3mの規模である、その後に検出された堀や現存する土塁からみて、南北方向は90m、東西100mの区 画をもつ。

 発掘調査で発見されたものは、弥勒院跡と同様、海外の陶磁器や土師器などが多量に出土。中国製青 磁・白磁,高麗青磁、タイ・ベトナム産陶器、国内産中世陶器、近世陶磁器など。国内産の中世陶器に は、東播系、東海系、備前系など。近世では、肥前系や在地系のサツマ焼も多量に出土。この他に、滑 石製品,瓦,鉄釘,煙管,古銭,砥石,硯など。注目されるものとして,畿内産の楠葉・和泉型瓦器圷 や土製鍋、15世紀頃の風炉などがある。

 出土した多量の土師器は、この館内で行われた様々な儀式とも深く関係していると思われる。『上井 覚兼日記』には、この館内で式三献の儀式が行われていることが記録されている。

 大宰府編年C期から遺物が多くなることから、桑幡氏は11世紀後半頃には、ここに居住していること が考えられる。

 島津氏が南九州を治める前は、この周辺でも激しい戦いが行われている。16世紀前半の「隅州の乱」 では、本田薫親による正八幡攻めによって、周辺が戦火に巻き込まれ、桑幡氏は櫛間に逃れ、留守氏は 25,6年もの間、宮内を離れざるを得なかったこともあったという。また、16世紀後半に活躍した正八幡 司官の留守式部大輔藤景なる人物は、天正12(1584)年の肥前の有馬氏の合戦に参陣している。戦国期の 体制に組み込まれている神官の姿がそこには看て取れよう。

舞鶴城 鹿児島県霧島市国分中央2
舞鶴朱門
舞鶴城は、国分小学校と国分高校の運動場のある一帯にありました。南側の道路に面して、高さ3メートル、長さ200メートルの石垣とその前の堀、そして2つの石橋が昔の面影をわずかに残しています。島津義久が富隈城(隼人町)から舞鶴城に移居したのは、慶長9年(1604年)のことで、7年間居城されました。館造りとともに城下町(現在の市街地)もこの頃造られました

富隈城 鹿児島県隼人町住吉
富隈城
島津義久が文禄4年(1595)から慶長9年(1604)まで、足掛け10年居住した城です。秀吉の島津征伐に敗れた義久が、上をはばかって謹慎の意を表した隠居城といわれています。長浜城のような山を利用した城と違って、平野に築いた城(平城(ひらじろ))です。

江夏友賢が設計に携わり、石垣は肥後(熊本)八代の石工が積んだものと見られています。石垣の南東隅には、加藤清正寄進と伝えられる清正石という巨石があります。


加治木城 鹿児島県加治木町反土
加治木城
地元の豪族である大蔵氏によって築かれたと伝えられるが、正確な築城年月日や当時の規模などの詳細は全く不明である。

平安時代中期の大蔵氏当主・大蔵良長には男子が無く、やむを得ず娘に婿養子を迎えた。その婿養子が関白・藤原頼忠の三男・藤原経平と伝えられている。経平はそのままこの地に土着し、「加治木氏」を名乗るようになる。

鎌倉時代には御家人として元寇の撃退にも貢献した加治木氏は、このときに絶頂期を迎えたと思われる。その後南北朝時代には一族が足利尊氏方、足利直義方に分裂し混乱する。室町時代には当地の守護大名であった島津氏の配下にあった。

このころの加治木城の実体は不明である。

加治木氏は後に島津季久三男・満久を養子として迎えたが、この満久の息子・久平は突如島津氏に対して反乱を起こし、明応4年(1495年)6月に島津氏家臣の川上氏のいた帖佐(現・鹿児島県姶良市)を攻撃した。これに激怒した島津忠昌は翌年加治木氏を攻撃する。このときに加治木氏は加治木城に立てこもったが、ついに敗れ、阿多(現在の鹿児島県南さつま市金峰町)に異動させられた。

その後加治木城は大隅国の国人である伊地知氏が領していたが、後に肝付氏の分家が加治木城主となる。その子孫である肝付兼演 は島津貴久についたために、貴久と敵対していた菱刈隆秋、蒲生範清らの猛攻撃を受けることとなる。兼演は加治木城に籠城してこの 攻撃に耐え、また貴久も息子の義久、忠平(後の義弘)らに菱刈・蒲生氏側に付いていた祁答院氏の城・岩剣城を攻略させたため、菱 刈・蒲生氏らの撃退に成功する。

日本で初めて、鉄砲(銃)を実戦に用いたことで知られる。天文18年(1549)年5月、種子島の領主・種子島時尭から贈られた鉄砲を使っ て、島津の家臣、伊集院忠朗が大隅国の加治木を攻めたもの。(この他、天文二十三年(1554)の岩剣城・城攻め説。天正6年(1578)、羽柴秀吉が播磨国の上月城攻めに銃を用いられたのが日本での銃の初使用と伝えられる場合もある。)これがのち、鉄砲の噂は次第 に広まり、どうにかして銃を手に入れようと種子島を訪れた者もいた。大坂の堺商人もこの噂を聞きつけ、やがて堺で銃を大する ようになった。次第に諸国の大名の間に銃は広まっていった。島津氏に降伏した肝付氏は、その後、島津氏の重臣となり加治木城を発 展させたが、文禄4年の太閤検地により所替えをさせられ、喜入へと移住していった。秀吉の九州平定後、加治木は豊臣秀吉の蔵入地となる。このころの加治木城の状況は明らかではない。

慶長4年(1599年)、加治木は泗川の戦いの恩賞として島津氏に返還される。それから8年たった慶長12年(1607年)、義弘は突然10年居 住した帖佐から平松(現・鹿児島県姶良市)、そしてこの加治木城へ移転するのである。義弘が「加治木銭」鋳造所もある財力と、秀吉蔵 入地があったという鹿児島には珍しい肥沃な土地に目を付けたのは確かだが、関ヶ原の戦いから7年もたったこの時期になって移住を 決めた理由は未だに謎である。

義弘は当初加治木城を大規模に改築して住むつもりであったが、結局その麓に館を築いて住むことになった。山の上の加治木城があまりに不便であった為とも、この時期の築城が江戸幕府に嫌疑を掛けられたためともいわれている。その後の加治木城はこの館の「後詰 めの城」となり、実質的にこのとき廃城となった。
その後、義弘は「中の丸」「東の丸」という2区画からなる館を築き、元和5年にここで生涯を終えた。


加治木島津屋敷 鹿児島県加治木町仮屋町
加治木島津屋敷
島津義弘は、帖佐、そして平松城から加治木に移られる時、最初、反土の加治木城に引っ越す予定でしたが、諸事情からその計画を変更し、今の加治木高校、柁城(だじょう)小学校、加治木郷土館から於里(昔は御里と書いた)の裏通りまでの区域(約526アール)を選び、慶長12(1607)年、ここに移り住むことになりました。
この場所を城に選び、家臣の屋敷を整然と周辺に配置し、空堀や城壁を造り城域を区画したのは易学者の江夏友賢といわれます。
城は、回りに城壁をめぐらし、厳然とした一都城で、その後、梶井島津家代々の殿様の屋形として、明治の初めまで続いたといわれています。
城中には、東の丸、中の丸、西の丸の3つの御殿があり、東の丸(今の加治木高校)には義弘が住み、義弘公死去の地碑は、御門の跡といわれています。
元和5(1619)年、島津義弘が亡くなった後には、島津家久が起居することになり、家久は別殿を新たに今の柁城小学校の場所に建て、これを西の丸と呼び、別名「中納言御殿」ともいって、近代まで残っていたといわれています。
明治10(1877)年には西南の役により鹿児島が荒廃したため、鹿児島県庁が1年間ここに置かれました。
また、このとき庁舎となった茅葺きで書院造りの御対面所は、加治木島津氏9代の領主島津久長が安政年間に自分の居所として建てられてたものといわれ、明治になってからは、第七郷校、仮県庁、郡役所となった後、昭和20(1945)年まで加治木町役場になっていました。残念ながら昭和20(1945)年8月11日、戦災で焼失しました。
現在は、小学校に残る古い井戸と仮屋馬場沿いの石垣が島津屋形の面影を偲ばせます。
(現地説明板より)


鶴丸城 鹿児島県城山町
鶴丸城
島津家18代家久が慶長7年(1602)に築いた本丸の跡。天守閣をもたない珍しい造りは、「鹿児島は城をもって城とせず、人をもって城となす」の精神からだとか。現在残っているのは石垣のみで、本丸跡の黎明館に隣接する鹿児島県立図書館は、二之丸跡。黎明館前庭には篤姫の像が立っている

横川城 鹿児島県横川町中の城山
横川城
鎌倉時代の初期、承久元年(1219)、横川藤内兵衛尉時信(とうないひょうえのじょうときのぶ)が城山に築城したもので、別名長尾城ともよば れています。城は横川院の領主の居城で、室町時代の頃から真幸院の領主北原氏の支城となりましたが、永禄5年(1562)北原伊勢守・新助の父子が島津氏に反抗したため、島津義弘・歳久等の攻撃を受け、落城しました。
 その後、城は菱刈大和守重猛に与えられましたが、永禄10年重猛の弟隆秋が島津にそむいたため、攻撃を受けました。横川城は島津占 領の後廃城となりました。旧横川町は横川城の全容を探索するため昭和61年10月21日から11月29日まで本丸と思われる城跡の発掘調査 を実施しました。出土品は横川郷土館に保管されています。

松尾城 鹿児島県湧水町木場
松尾城大手門
天正15年(1587年)島津氏によって築かれたと云われる。天正18年(1590年)島津義弘は日向国飯野城より移って居城とした。
義弘は朝鮮の役にはここから出陣し、帰国後文禄4年(1595年)に帖佐館を築いて移り、城代として川上三河守が在城したという

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樋口山城守与六
Admin: 樋口山城守与六
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