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星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Photo Movie で見る 城館をどうぞ( `ー´)ノ

古城巡り 写真館

PhotoMovieにて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・
城エクスポ2019

四日市市城館~伊勢

伊坂城 保々西城 萱生城 市場城



伊坂城 

イサカ


四日市市北東端の丘陵地に、自然地形を生かして築かれた平山城。位置的には、後世の東海道と伊勢街道の中間にあり、交通を扼する城のように思える。主郭は3方向を急斜面で守られ、傾斜の緩やかな残り1方向は、階段状に設けられた曲輪と家臣の屋敷で縦深に防御する。

15世紀後半~16世紀前半に、春日部氏により築城された城だが、例によって、織田信長に落城させられた。
竹林、藪の中に見事な堀切と土塁が残ります。

保々西城 

保々西


康正年間(1455~1457年)、朝明川北岸の標高60mの
丘陵地に築かれた朝倉備前守詮真の城で、4代兵部までの居城であった。1568年信長の北伊勢侵攻の際、滝川一益の攻撃で茂福城、中野城と共に落城となる。北勢中央公園野球場の南に位置し、現在は曲輪、土塁、空堀、井戸跡、家臣団の館跡が残る。

萱生城 

萱生


萱生(加用)という所は、ふるくは訓覇(くるべ)郷に属し、粟・大豆・薪などを産物としましたが、この地を統治したのは、春日部家で、その拠城を萱生城といゝました。私たちは城というとすぐ、三層、五層の天守閣をそなえた後世の城郭を思いますが、それはむしろ天下が平和になってから強大な勢力をもった戦国大名が、城とともに都市を建設するよようになった時期のもので、史上このような城を中心にして、殷賑をきわめた町を城下町といゝ、織田信長の築いた安土城とその周辺の町を最初としています。それまでの城は、敵に対する防備のため、天嶮を利用し、攻めるに難く、防ぐに易い地理上の要害を選んで築かれたものですから、だいたいが山上にある、いわゆる山城と称せられるものでした。

春日部氏が築いた萱生城もまた山城の一種ですから、嶮しい山や渡りにくい川を利用し、外敵の攻めるのを一目瞭然探知することの出来る処に築城されていました。「伊勢軍記」という古書にはこの城のことを、此城ノ要害ハ、北ハ朝明ノ大河ヨリ下、セキ上ケ水ヲ湛ヘタル城辺ハ恰モ湖水ノ如ク滔々タリ。西南ハ嶮岨ノ山ナレバ中々人馬ノ通ル事難得、僅力東一方ハ平地ナレドモ、両方ハ深田ニテ而モ一騎打ノ細道ナリ。

とも、西南ハ山続キナレドモ、谷深ク切レテ万仗岩角スルナリ。北ハ朝明ノ河 城ノ腰ヲ廻リテ水滔々トシテ浅深ヲ知ラズ。東一方ハ平地ナレドモ、深沢ニシテ馬ノ蹄ヲ労スル。

といっています。

しかし、城としては、きわめて小城で、周囲五町とも、二町真角だったとも書かれています。ここに城主の舘を中心として、一朝外敵の侵攻にあったときは、完璧な防禦の出来る準備が整えられていました。この城は戦国時代二回の攻撃を受けながら、二回ともよく防戦することが出来ましたが、結局、信長輩下唯一の戦略家だった滝川一益のため、兵糧攻で落城したのでした。いま、戦国動乱の世にあって、この城のたどったありさまをながめてみましょう。


市場城

市場


市場城は朝明川北岸の河岸丘陵の南岸に築かれている。 市場集落の南の丘陵沿いに方形に近い単郭の主郭が残る。また保々西城と同様市場集落には屋敷跡とみられる土塁が残る。

主郭は南を除く三方に土塁と空堀が巡り、北中央と南東隅に虎口が開く。北の虎口には土橋が架かる。東の空堀には屈折が見られる。

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