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星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Photo Movie で見る 城館をどうぞ( `ー´)ノ

古城巡り 写真館

PhotoMovieにて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・
城エクスポ2019

弘前市城館~青森県

大光寺城 石川城 堀越城 大浦城 三世寺館 古屋敷



大光寺城 
建保5年(1217)、平賀郡岩館に相州曾我氏一族平広忠が地頭代として入部、曾我氏を名乗る。その後曾我氏は大光寺の本家と岩館の分家に分かれた。しかし、大光寺の本家は北朝方、岩館の分家は南朝方につき、同族での争いが始まった。その後、戦国時代には、滝本重行が入った。しかし、弘前城築城の際破却された。又、平川市市内には、高畑城、沖館城をはじめとする出城(砦)の跡が多数ある。なお大光寺城は築城期によって大光寺古館・大光寺新城・大光寺五日市館に分かれる。なお、大光寺城は前文にて上げた3つをまとめて記述した文献が多いため、信憑性にかける部分もある


大光寺(古館)が南部氏の支配下に入ると北信愛が入り、その後滝本重行が城主となった。城下家数90軒、石高1万5,6千石(2万超とする文書もあり)を誇り、田舎館城、浅瀬石城、新屋城、尾崎城、高畑城、沖館城、乳井城、杉館、三ツ目内城を配下に置き津軽三大名の一つであった。その後信愛の子の北光愛が亡くなり、このとき、光愛の子、六郎と七郎は幼少の、重行が後見し大光寺に残った。天正3年夏、大浦(津軽)為信が4000人もの大軍を率いて攻めてきた。第一陣は、乳井建清、一町田信清ら700(館田口)、第二陣は小笠原信清、桜庭信正ら800(大光寺城東側)、森岡信元、兼平綱則ら旗本1000(館田林の本陣)、さらに千徳政氏、葛西治部(浪岡城、新屋城、尾崎城からの援護を遮断)を配置する大軍であった。しかし、城代滝本重行が700の手勢を率いて、本陣に切り込んだ。大浦為信は馬の足を泥田にとられるも、近習(桜田宇兵衛、または天童衛門四郎とも)の機転により辛くも窮地を脱し、堀越城に逃げ帰った。しかし、天正4年(1576年)正月元旦、新年の祝賀中を大浦為信に奇襲され、支城の尾崎城、新屋城などと共に落城し、滝本重行は南部に逐電した。光愛の子、六郎と七郎は比内に去し、天正7年(1579年)7月、滝本重行・北畠顕則らと共に1000人の兵で津軽に侵攻した。乳井茶臼館・乳井城を奪取・沖館城を攻撃したが、城方の反撃で敗れる。その間に大浦為信は兵を集め、六羽川流域で衝突し激戦を繰り広げた。一時は、為信本陣まで突入したが、六郎が討ち取られ、諸将は比内へ逐電した(六羽川合戦)。天正10年(1582年)には、乳井館主乳井建清が城主となる。慶長4年(1599)、津軽為信の娘婿津軽建広が城主となるが、翌年大光寺城を去る。慶長15年(1610年)、弘前城築城のため破壊され、建材が利用された。また、弘前城亀甲門は、大光寺城の追手門を移築したものであり、本丸御殿の欄間は弘前の専光院に使われた。大光寺から弘前に移転した弘前市新町誓願寺の鶴亀門も大光寺城のものを移転したとの伝承が残る(その形式から江戸中期との説が一般的だが、室町時代の手法も見られることからどちらが正しいのかさだかではない)。本丸・二の丸・北の郭・東郭・小館で構成されている。現在は、堀は埋まり、土居は崩され、宅地あるいは畑となっている。

大光寺城は、大光寺古舘、大光寺新城、大光寺五日市館の3つからなるとされる


周辺は宅地となり、遺構のだい部分は消滅をしている。
大光寺

石川城 
別名、大仏ヶ鼻城。周辺の館とあわせて石川十三楯(大仏ヶ鼻城、岡館、猿楽館、月館、坊館、八幡館、寺館、高田館、茂兵衛殿館、寺山館、孫兵衛館、小山館、新館)と呼ばれ、この13の城館の総称として石川城といわれた。

津軽の曽我宗家である平賀の曽我道性により建武元年(1334年)に築城されたと伝わる。曽我氏はその後南部氏に制圧され、天文2年(1533年)石川高信が石川城を居城としていた。だが元亀2年(1571年)5月5日未明、大浦為信(後の津軽為信)の急襲を受けて落城、石川高信は自害した。その後石川城は津軽氏の所有となり、津軽家臣である板垣将兼が守った。慶長16年(1611年)、弘前城築城に際し石川城は廃城となった。

大仏花城

堀越城 
堀越城は、津軽統一を果たした津軽藩藩祖、津軽(大浦)為信の居城でした。
この城は南北朝時代に曽我貞光によって築かれたとされ、16世紀の中頃には大浦氏の居城になったとされています。
為信は津軽統一の始まりとなった、元亀2年(1572)の大仏ヶ鼻城攻めにこの城より出陣し、統一後の文禄3年(1594)には本拠を大浦城より、ここ堀越城に移したとされますが、慶長16年(1611)に弘前城へ移転しました。

堀越

大浦城 
大浦光信が津軽進出の拠点として古館を改修、子の大浦盛信を置いたのが始まりで、その後、元和の一国一城令により廃城となった。現在は、弘前市立津軽中学校の敷地などになっている。

城の規模は、東西500メートル、南北250メートルほど。
文亀2年(1502年)、大浦光信により築かれる。大浦光信の子孫、大浦為則の婿養子である大浦為信の代になり、堀越城に本拠地が移ると、城番が置かれるだけになった。その後元和の一国一城令により廃城となったが、二の丸・本丸・西の丸の土塁は残された。弘前城の詰城としてその後も、西の丸には火薬庫などが建てられた。


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三世寺館 

鎌倉時代末期藤崎城安東氏の所領で別当熊野修験の館という。

三世寺館は標高28.4mの独立丘陵に築かれている。 山上は二段の曲輪があり、山頂には仁王堂が鎮座している。 主郭の南淵と下の曲輪の西から南側の淵には幅広の土壇があり、土塁跡と思われる。

三世時

古屋敷

久元年(1190年)平賀郡岩楯の地頭代となった曾我時広にはじまり、大光寺城の曾我氏の分家の岩楯曾我氏による館跡とみられている。西にある岩館集落の周辺には岩楯跡が確認されてておらず、この古屋敷館をそれとみるむきもある。

古屋敷館は周囲の水田よりわずかに高い長方形の曲輪で、現在畑に利用されている。 西側の一部が墓地になっており、ここに古屋敷の案内板が設置されている。

古屋敷

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