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古城巡り 写真館

PhotoMovieにて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・
城エクスポ2019

岩崎城 長篠城~愛知

岩崎城 長篠城



岩崎城 
岩崎城は日進市の戦国時代の様子を今に伝える貴重な城址です。本丸跡には六世紀の古墳の遺構も残しており、当地の有力者に古くから注目されていた場所でした。
 室町時代末に始まると考えられているこの城は尾張国の東端にあたり、国境付近を守る織田信秀(信長の父)の支城でした。岩崎は尾張、三河間を往来する街道の要衝地であり、城下は「市場」の地名を残すことからも交易の場として栄えたものと思われます。
 築城年代ははっきりしていませんが、織田信秀により築城され、属将・荒川頼宗が守備していたとされます。享禄二(1529)年三河国・松平清康(家康の祖父)に尾張攻略の足がかりとして攻め落とされましたが、清康は世に言う「守山崩れ」によって死去し尾張攻略が後退することとなります。
「表忠義」碑が見える.  その後、岩崎城は両勢力が対立した状態のまま、天文年間から当地方の土豪であった丹羽氏清が修繕し四代(約60年間)の居城となりました。 天正十二年(1584)、羽柴(のちの豊臣)秀吉と徳川家康・織田信雄おだのぶかつ・信長の三男の連合軍が戦った小牧・長久手の戦いでは、丹羽氏は後者に属し、犬山方面から岡崎を目指した羽柴方の行軍を阻止しようとして落城する「岩崎城の戦い」など一族を犠牲にしながらも戦功をたて、徳川氏に認められていきました。

第一次調査部分の遺構が見える。  慶長五年(1600)、関ヶ原の戦い参戦後、丹羽氏は地方の土豪階級から一万石の大名へと昇格し、城も三河国伊保(現豊田市内)へと移ります。
 これによって岩崎城は廃城となり、以降城跡は竹やぶなど雑林に覆われたため比較的その遺構を良く保つことになります。昭和六十二年地元住民の寄付により岩崎城が建設・城祉公園として整備され現在に至っています。

井戸跡
直径2.4メートルの素堀の井戸。 周囲に見られる柱穴は、
井戸の覆い屋根のものと推測される。
 岩崎城は、中世城郭の特徴である土塁や空堀を良く残しており、日進市付近一帯を勢力範囲としていた土豪・丹羽氏の歴史を今に伝えるとともに日本史上重要な出来事として記憶される小牧・長久手の戦いにおいてはその勝敗を左右する戦略地点としての役割を果たしたという事績を残すなど日進市にとって大切な歴史的遺産であるといえます
岩崎城hpより

w300h300岩崎城


長篠城
この地域の交通の要衝の地にあった[2]。寒狭川(現在「豊川」と呼ばれているもの)と大野川(現在の宇連川)が合流する場所に突き出した断崖絶壁の上にあり、(南や東西方向については)二つの川と断崖絶壁に守られた天然の要塞であった[2]。

(▽状に)突き出した断崖の近く(やや西側、寒狭川寄り)に本丸を置いている。

長篠の戦いのころの構造について言うと、本丸のすぐ北側には堀が掘られ、その北側に二の丸、そのすぐ北側にまた堀が掘られていた。二の丸外側に三の丸、弾正曲輪などがあり、本丸の西側に服部曲輪があり、野牛曲輪なども築かれ、城域を北側を囲むように木柵が作られていた。川と断崖のおかげで南と東西の守りは堅かったが、北側は(台地状に)平地が広がっておりそのままでは守りが弱かったので、そちらにはしっかりとした堀が掘られていたのである[2]。

南や東西から見れば断崖絶壁上の城であるが、北側から見た姿をもってして「平城」に分類されることもある。
戦国時代
永正5年(1508年)今川氏親に誼を通じた菅沼元成が築城。元成と、その子孫・長篠菅沼氏が居城とする。

その後、徳川家康に服属するようになった。元亀2年(1571年)、武田信玄による三河侵攻の一端として、天野景貫によって攻められる。攻守双方の払った犠牲は大きかったが、陥落だけは免れた。その後、菅沼総領家・田峯菅沼氏から遣わされた使者の説得を受け、城主であった元成の直系玄孫・菅沼正貞は、心ならずも武田軍の圧力に屈した。

元亀4年(1573年)、武田家の当主であった武田信玄の病が悪化したことにより、前年末から続いていた武田軍の西上作戦が春には切り上げられ、武田軍は本国へ撤退。その途中で信玄は死去。その間隙に徳川家康によって攻められる。城主・正貞は天正元年8月(1573年)には開城退去、城に返り咲くことはなかった。以後、武田軍の再侵攻に備えて、家康により城が拡張される。(現在残る本丸の大規模な土塁などはこの時のものと考えられている。)

天正3年5月21日(1575年6月29日)、父・信玄の跡を継ぐことになった四男・武田勝頼が持てる兵力の大半1万5千の兵を率いて[2]、奥平信昌が約五百の手勢で守る長篠城を攻め囲み、長篠の戦いが始まる。

天正4年(1576年)前年の長篠城の攻防戦で城が大きく損壊したこともあり、奥平信昌は新城城を築城し、長篠城は廃城となった。

現代

1929年(昭和4年)、当時の史蹟名勝天然紀念物保存法により、城跡一帯が国の史跡に指定された。 その後、帯曲輪跡には新城市立長篠城址史蹟保存館が建設され、長篠の戦いの理解を助ける展示がされるようになった。

2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(46番)に選定された。
Wikipedia:ウィキペディアより

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