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古城巡り 写真館
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本多忠勝

2020/02/21
武将伝 0
本多忠勝




安土桃山・江戸時代初期の武将,大名。幼名鍋之助,のち平八郎,中務大輔と称した。本多忠高の長男。母は植村新六郎氏義の娘。三河国(愛知県)に生まれ,父と同じく徳川家康に仕え,永禄3(1560)年に13歳で尾張国大高城の攻略戦に初陣。そののち三河一向一揆,姉川の戦,三方ケ原の戦,長篠の戦,高天神の戦など家康一代の間の主要な戦いにおいて抜群の戦功をあげ,酒井忠次,榊原康政,井伊直政とならんで徳川四天王のひとりと称された。天正10(1582)年の本能寺の変に際しては,堺方面を遊歴していて進退に迷う家康に進言して岡崎帰城を勧め,伊賀越えの危地を切り抜けて無事帰還させた。同18(1590)年の関東入部のおりには上総国(千葉県)大多喜10万石を給される。慶長5(1600)年の関ケ原の戦では,本多家の本隊は嫡子の忠政が率いて徳川秀忠のもとで真田昌幸の守る信州上田城の攻撃に向かい,忠勝は東海道方面の東軍の軍目付として小姓の者400名余を引き連れて同合戦に臨んだ。この戦で忠勝ははじめ家康の本陣近くにあって作戦に参画していたが,戦況が東軍に不利となるや自ら前線に赴いて全軍の進退を指揮し,また供の兵と共に敵陣に数度切り込んで獅子奮迅の働きをなした。東軍の福島正則が合戦後に,忠勝の用兵の妙を絶賛したことが伝えられている。翌6年に東海道の要地である伊勢国桑名に10万石のままで所替えとなり,忠勝に従って同合戦で働いた次男忠朝に大多喜5万石が新規に給され,そののちの本多一族の繁栄の基を形成した。忠勝は初陣以来57回の戦を経験しながら,身に傷跡をとどめなかったと伝えられているが,彼こそ古今無双の勇士の名に恥じない武将であった。桑名において卒去。歳63。




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樋口山城守与六
Admin: 樋口山城守与六
関東を中心に、全国の城館をPhoto・PhotoMovieにて紹介します。近年(又は現在)の城館を紹介して行きます、以前は藪の中で在ったが現在は綺麗に整備された遺構を又は破壊、消滅された遺構も現在の在るままを紹介します,目に見える写真で城館を記録していきます又史跡、神社仏閣、自然を気ままに撮ります・・・・・・・・・・・・城巡り・カメラからのキャンプ覚醒!!
今年初キャンは・・・暴風雨(@_@)・・・翌月は雪(>_<)・・・雨((+_+))・・・そして今日梅雨明けの快晴(*ノωノ)!!
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