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尼子経久

2020/02/20
武将伝 0
尼子経久騎馬像
尼子経久騎馬像 島根県安来市



戦国時代の武将。京極氏の出雲・隠岐両国守護代清定の子。母は馬木上野介の娘。はじめ又四郎。民部少輔,伊予守を称す。文明16(1484)年,寺社本所領・段銭などを押領して室町幕府から追放されたが,まもなく勢力を回復。以後急速に戦国大名への地歩を固めていった。そのひとつの契機となったのは,永正5(1508)年守護京極政経が,後事を託して出雲に没したこと。これにより経久は,正当な守護職権の継承者として領国支配を有利に展開することが可能となった。翌6年,それまで自立性の強い国人層の地域的結集の拠点であった,鰐淵寺を強力に統制する掟書を定め,寺院建築様式に基づく一宮杵築大社の造営にも着手。これらを通じて国人層および一宮の掌握に努めた。また守護京極氏の家臣団をそのまま継承し,これを直臣団(富田衆)中心に編成し直すことによって強力な奉行人制を早期に実現し得たことも領国支配の安定につながった。 戦国大名へと飛躍することになったいまひとつの契機は,出雲西部に大きな勢力を誇っていた伝統的豪族塩冶氏を,同15年以前に3男興久を送り込むことによって掌握し,さらには天文1(1532)年の塩冶興久の乱を機にこれを討滅して,出雲全域におよぶ領国支配権を確立したことである。これより先,永正10年以前から伯耆国守護山名澄之,同14年には前石見国守護山名氏への助力を口実に,それぞれ伯耆西部,石見東部に版図を拡大。また同14年から,備後をはじめとする山陽方面に軍勢を進め,国人層の掌握を通してこの方面への影響力を拡大,「十一カ国太守」とも称された。しかし,大永2(1522)年には大内氏と安芸で戦い,また同5年,配下の毛利元就が大内氏に属したのちは毛利氏とも戦いを交えることとなった。天文6年に隠退して以降は孫詮久(晴久)を後見。詮久が毛利氏を安芸に攻めて大敗北を喫した同10年,富田城に没した
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樋口山城守与六
Admin: 樋口山城守与六
関東を中心に、全国の城館をPhoto・PhotoMovieにて紹介します。近年(又は現在)の城館を紹介して行きます、以前は藪の中で在ったが現在は綺麗に整備された遺構を又は破壊、消滅された遺構も現在の在るままを紹介します,目に見える写真で城館を記録していきます又史跡、神社仏閣、自然を気ままに撮ります・・・・・・・・・・・・城巡り・カメラからのキャンプ覚醒!!
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