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古城巡り 写真館
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春日山林泉寺 2019 山形県米沢市

2020/02/15
神社仏閣 0
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林泉寺は、今から約500年前の明応5年(1496)、越後国高田(現・上越市)に建立された曹洞宗の寺です。長尾景虎(上杉謙信)の祖父長尾能景が、亡父重景の菩提を弔うため建立したもので、寺名は重景の法名林泉寺院殿からとったものです。
 景虎が7歳の折、当寺に預けられ天室光育(七世)の指導を受け仏道に励みました。さらに、景虎は長じて八世益翁宗謙の下に参禅し、禅の「達磨不識(だるまふしき)」の境地を悟り、不識庵謙信(ふしきあんけんしん)を号するようになりました。
 また、景虎は永禄四年(1561・川中島合戦のあつた年)に関東管領上杉家を相続、林泉寺は上杉家の菩提寺にもなりました。山号の春日山は、上杉家(藤原氏)の氏神である春日明神を勧請したことによります。

謙信を継いだ上杉景勝は、慶長3年(1598)に越後から会津120万石に移封となり、同6年には米沢30万石に削封、菩提寺の林泉寺もこれに伴って米沢に移りました。なお、高田にも林泉寺が残りました。
 米沢藩時代の林泉寺は、藩主菩提寺として厚く信仰され、領内の曹洞宗寺院を統括する触頭(ふれがしら)に命じられ、元和5年(1619)に現在地に壮大な伽藍が建てられました。この伽藍は享保17年(1731)の火災で焼失、その後再建されたのが現在の本堂になります。





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この門は、竹俣家の屋敷門を移築されています




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この伽藍は享保17年(1731)の火災で焼失、その後再建されたのが現在の本堂になります。




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上杉家奥方の廟所




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直江兼続とお船方の墓
直江山城守兼続
初め樋口与六。永禄3年、越後魚沼郡上田庄坂戸城に生れました。
父は同城主長尾政景の長臣樋口惣右工門兼豊で、母は山東郡与板の城主で直江大和守親綱の娘です。天正9年(1581年)に直江家を継いで山城守兼続と称しました。

兼続は幼少より才気群を技き、上杉謙信・景勝の信任が厚く、数十年の間藩政を一身に続括しました。
慶長3年に主景勝公が会津120万石を領した時、兼続は米沢6万石を領し、公界諸侯としての待遇を受けました。

慶長5年、世に天下分け目といわれる関ケ原の戦いで西軍が敗れ、東軍 徳川家康の天下となります。これにより、同6年上杉家は120万石から米沢30万石に移封となりました。



兼続は風采堂々、躯幹長大、弁舌爽やか、かつ博学多識で、殊に文を好んで詩歌をよく詠み、天文地理・軍学・経済学等、皆達しないものはなく、米沢における学問は兼続に発したといわれる程です。しかも、その居常は極めて筒親で、身を保つことも謹厳でした。
また、その才略は実に雄大で、米沢城市の建設、荒蕪地の開拓、さらには水利の疏通、産業の開発、学問の興隆等 まさに直江は米沢開拓の大恩人です。

元和5年12月19日、江戸鱗屋敷において60才にて逝去しました。
法名 達三全智居士

時の将軍秀忠より香奠として銀七十枚を賜わりました。
享保4年、百回忌にあたり、英豼院殿(えいひいんでん)と追溢されました。


お船の方
越後与板の城主、直江大和守景綱の娘。
初め与兵衛信綱に嫁しましたが、信綱の逝去後、兼続に再嫁します。その人となりは、賢明にして胆力がありました。
63才の時、夫と死別し薙髪して貞心尼と号しました。
以後禄3千石を受け、寛永14年1月4日江戸鱗屋敷において81才にて逝去しました。
法名 宝林院殿月桂貞心大姉





[山形県米沢市林泉寺1丁目2−3]2019.5

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樋口山城守与六
Admin: 樋口山城守与六
関東を中心に、全国の城館をPhoto・PhotoMovieにて紹介します。近年(又は現在)の城館を紹介して行きます、以前は藪の中で在ったが現在は綺麗に整備された遺構を又は破壊、消滅された遺構も現在の在るままを紹介します,目に見える写真で城館を記録していきます又史跡、神社仏閣、自然を気ままに撮ります・・・・・・・・・・・・城巡り・カメラからのキャンプ覚醒!!
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