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古城巡り 写真館
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法楽寺 足利義氏墓所 栃木県足利市

2020/02/14
神社仏閣 0
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両崖山を主峯として南端の機神山まで・・・北から南に連なる高さ100メートル前後の山丘の一つ、鏡山の山ふところにいだかれた山麓にあり、寺の山門は東面している。即ち、西が高く、東が低くなる山麓の斜面に墓地が作られている。
一段下がった境内の南部に鐘楼、東端に山門が建ち、山門から石階を下りて直線状に参道がつづき、寺の入口の北隅に石標が建っています。

1860年(万延元年)に境内木小屋からの火災により、大門をのこし本堂、庫裡、土蔵までを消失。
1868年(明治元年)に再建 (住僧天忠和尚)現在の本堂は1983年(昭和58年)に建立 










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足利義氏(1189年~1254年):鎌倉期の武将。足利氏第三代当主。
八幡太郎義家-義国-義康-義兼と続く源氏の正流の血筋で、足利義兼の三男。母は北条時政の娘時子。 通称 上総三郎。
鎌倉時代初期(義氏の幼少期)は、源頼朝の完全な独裁政治が行われていた。頼朝政権の強みは在地の武士領主層=軍事力を
持った領主、名主階級を御家人に組織していることにあった。御家人は頼朝から領地の領有権や新恩給付などを受けた。
義氏 十一歳の時、父義兼が亡くなり(1199年) また、同じ年に頼朝が死亡。頼朝の死後、御家人達は互いの権勢と領地を巡って争った。








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二代将軍頼家は北条氏の策謀により、伊豆修善寺に幽閉されて殺され、北条氏と他の御家人達との流血の斗争が渦巻いた。梶原景時、比企能員、畠山重忠、和田義盛、三浦康時らは一族共々次々と滅ぼされた。
頼家のあとの三代将軍実朝も、頼家の遺子公暁に殺されたが、その張本人は北条氏であったといわれる。こうして頼朝の子孫は絶え、尼将軍といわれた政子と、その生家の北条氏が幕府の実権をにぎった。
有力御家人による評定衆など、合議制を採用し、貞永式目などをきめ、執権政治をゆるぎないものとした。
北条氏は絶対の頼朝に従いながら、その同族である名門足利氏と婿を通じてこれを巧みに懐柔、索制し、足利氏の権門と勢力を味方にしながら、次々と政敵を倒し、野望を実現した。義氏は、頼朝を扶けた幕府創業期の功臣、実力者たちが北条氏の策謀にかかって滅亡していくなかで、あえて北条側につき、その大きな戦力となった。







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祖父義康から父義兼の代になった頃は、足利庄は現在のほぼ足利市全域から佐野市、館林の一部を含んだ広さになっていた。
そして義兼が源平合戦の功業によって本領のほかに、各地に所領をえた。
ついで義氏は、和田合戦で恩賞をえたほか、承久の変では美作国の数か所を加賜され、三浦合戦でも上総権介平秀胤の所領を
与えられるなど、さらに北条氏から譲られたもの、諸氏から寄進を受けたものなど、多くの所領をえた。所領の経営は地頭代職や郷司職を設け、年貢収納、勧農、開拓などを掌握していた。
建長二年(1250年)幕府から閑院内裏の造営を御家人が割当てられたなかで、その小御所を義氏が単独で負担しているが、事実当時このように本領はじめ多くの所領を有し、強大な経済力を保有していた。 左馬頭、正四位下となり、関東の宿老とよばれ、
その所領は十七か国に及ぶ広大なものとなった。




[栃木県足利市本城3丁目2067]2013.11

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樋口山城守与六
Admin: 樋口山城守与六
関東を中心に、全国の城館をPhoto・PhotoMovieにて紹介します。近年(又は現在)の城館を紹介して行きます、以前は藪の中で在ったが現在は綺麗に整備された遺構を又は破壊、消滅された遺構も現在の在るままを紹介します,目に見える写真で城館を記録していきます又史跡、神社仏閣、自然を気ままに撮ります・・・・・・・・・・・・!!デジブックは2020年3月31日に閉鎖になりました、沢山の御視聴ありがとう御座いました。
今年初キャンプは・・・暴風雨・・・良く月は雪・・・雨・・・そして今日はどうかな!!
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