宮城県城館~仙台市・多賀城市・利府市・亘理市
宮城県城館~仙台市・多賀城市・利府市・亘理市
若林城 仙台市

17世紀前半に日本の仙台藩領・陸奥国宮城郡若林城下町の小泉にあった平城である。西側に隣接する仙台城下町には本城である仙台城があったが、同城とは別に1628年(寛永5年)に伊達政宗のために造られ、1636年に彼の死とともに廃された。江戸時代には若林薬園となり、薬草が栽培された。現在の仙台市若林区古城にあり、堀跡と土塁を残したまま、土塁の上に高い塀をめぐらせ宮城刑務所として用いられている。
岩切城 仙台市

室町時代初期(南北朝時代)から戦国時代にかけての山城(やまじろ)。国指定史跡。戦国時代の留守氏の居城として知られ、東西約500m、南北約400mの規模で、標高106mの高森山の峻険な尾根を利用して曲輪(くるわ)や掘割を設けていた。郭、堀、井戸跡、土塁が現存している
多賀城 多賀城市

奈良・平安時代に陸奥国の国府がおかれたところで、古代東北の政治・軍事の中心地としての役割を果たしました。そして、多賀城跡は、奈 良の平城宮跡、九州の大宰府跡とならんで、特別史跡になっています。
利府城 利府市

松島丘陵の丘陵地帯の中にあり標高約90メートルの自然の山を利用した峻険な城郭となっている。山頂付近から3段もしくは5段にわたる曲輪が作られており現在でも曲輪跡の平地を見ることが出来る。
利府城は鎌倉時代の奥州探題である留守氏の家臣村岡氏によって築かれたと考えられている。その後も村岡氏の居城であったと考えられるが、長い間歴史の表舞台には出てこなかった
亘理城 亘理市

この地に居を構えた亘理氏が天正19年(1591)に涌谷に移った後、片倉小十郎景綱(かたくらこじゅうろうかげつな)がここに入りました。慶長7年(1602)、片倉氏は白石城に移り、居城を受け継いだ伊達成実は亘理要害の改修や城下町を作り、亘理郡と相馬郡の一部を治めていました。
臥牛城の名前の由来はここの地形が牛が伏せた形ににていることからついたと言われています。また亘理伊達氏の歴代の墓は、町内にある大雄寺にあります。

にほんブログ村
若林城 仙台市

17世紀前半に日本の仙台藩領・陸奥国宮城郡若林城下町の小泉にあった平城である。西側に隣接する仙台城下町には本城である仙台城があったが、同城とは別に1628年(寛永5年)に伊達政宗のために造られ、1636年に彼の死とともに廃された。江戸時代には若林薬園となり、薬草が栽培された。現在の仙台市若林区古城にあり、堀跡と土塁を残したまま、土塁の上に高い塀をめぐらせ宮城刑務所として用いられている。
岩切城 仙台市

室町時代初期(南北朝時代)から戦国時代にかけての山城(やまじろ)。国指定史跡。戦国時代の留守氏の居城として知られ、東西約500m、南北約400mの規模で、標高106mの高森山の峻険な尾根を利用して曲輪(くるわ)や掘割を設けていた。郭、堀、井戸跡、土塁が現存している
多賀城 多賀城市

奈良・平安時代に陸奥国の国府がおかれたところで、古代東北の政治・軍事の中心地としての役割を果たしました。そして、多賀城跡は、奈 良の平城宮跡、九州の大宰府跡とならんで、特別史跡になっています。
利府城 利府市

松島丘陵の丘陵地帯の中にあり標高約90メートルの自然の山を利用した峻険な城郭となっている。山頂付近から3段もしくは5段にわたる曲輪が作られており現在でも曲輪跡の平地を見ることが出来る。
利府城は鎌倉時代の奥州探題である留守氏の家臣村岡氏によって築かれたと考えられている。その後も村岡氏の居城であったと考えられるが、長い間歴史の表舞台には出てこなかった
亘理城 亘理市

この地に居を構えた亘理氏が天正19年(1591)に涌谷に移った後、片倉小十郎景綱(かたくらこじゅうろうかげつな)がここに入りました。慶長7年(1602)、片倉氏は白石城に移り、居城を受け継いだ伊達成実は亘理要害の改修や城下町を作り、亘理郡と相馬郡の一部を治めていました。
臥牛城の名前の由来はここの地形が牛が伏せた形ににていることからついたと言われています。また亘理伊達氏の歴代の墓は、町内にある大雄寺にあります。

にほんブログ村
- 関連記事
-
-
茂ヶ崎城~中世の城 2015/10/06
-
仙台城・青葉城 宮城県仙台市 2015/10/04
-
宮城県城館~仙台市・多賀城市・利府市・亘理市 2015/09/03
-
宮城県城館~涌谷町・大崎市 2015/09/03
-
宮城県城館~大郷町・大崎市・加味町 2015/09/03
-
スポンサーサイト