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古城巡り 写真館
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実相寺 西方氏・西方藩主墓所 栃木県栃木市

2020/01/21
武士の終焉~墓所&供養塔 0
実相寺 遠景
西暦1600年(慶長5年)2月の創建、開基は結城城主結城晴朝、開山国大佑和尚と伝えられています。




六地蔵と山門
六地蔵と山門




実相寺 本堂
実相寺 本堂




案内板
西方氏墓・西方藩主墓 案内板




藤田(小野)康邦(右衛門佐、泰邦)の次男といわれているが、康邦は天文24年(1555年)8月13日、つまり信吉が生まれる4年前に死去しており計算が合わない。このため、康邦の孫または甥ではないかと思われる。また、藤田泰邦の一族である用土業国(新三郎、新左衛門尉)の子息とする説もある。
兄の用土重連が藤田氏邦(康邦の養子)に謀殺されたことによりその跡を継いだ信吉は、はじめ用土氏・小野氏を名乗っていたが、天正8年(1580年)8月、旧知の間柄であったという武田家臣・真田昌幸の調略を受入れ北条氏から離反し、武田氏に沼田城を引き渡した。その後、上州攻略で武功を挙げ、沼須城主となり、武田勝頼から5700貫の所領を拝領する。さらに藤田氏に復して勝頼から武田氏の通字「信」字を与えられ藤田能登守信吉と名乗り、海野信親の娘を娶った。
天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡後、他の上州国人と同様に織田氏の重臣・滝川一益に仕える。同年6月の本能寺の変の後、上杉方の長尾伊賀守に通じ、5千の兵で滝川益重麾下4千の兵の守る沼田城を攻めたて水曲輪の一つを乗っ取るも、一益が小幡、安中、和田、倉賀野、由良、長尾(館林)、内藤を従え2万の兵で北上した為、信吉は沼田城攻略を諦め、6月13日夜、泣く泣く越後に落ちていったという。
上杉景勝から越後長島城を与えられた信吉は、以降上杉家中で数々の武功を挙げていく。特に新発田重家討伐戦では、新潟城・沼垂城を調略によって降し、赤谷城救援に駆けつけた金上盛備率いる蘆名軍を撃破し、さらには五十公野城を攻略するなど、その功績は抜群であった。天正17年(1589年)佐渡国の本間氏討伐にも従軍し、天正18年(1590年)の小田原征伐では上杉軍の先鋒を務め、上野・武蔵の北条方の諸城を次々と攻略した。慶長3年(1598年)に上杉氏が会津に移封されると、景勝から越後津川城代として1万5,000石の所領を与えられた。
慶長5年(1600年)、信吉は景勝の代理として新年の祝賀のために上洛する。この際、徳川家康は信吉に銀子や青江直次の刀等を贈るなどして好意的に接している。しかし景勝の後に越後に入封した堀秀治が、上杉に叛意有りと訴えたことで上杉と徳川の間で緊張が高まった。上洛して申し開きをせよと迫る家康に対し、上杉家の権臣・直江兼続は露骨に家康に敵対する姿勢を見せた(そもそも堀と上杉の対立は、上杉が越後から会津に転封された際に、新領主の為に残して置くべき分の年貢を兼続が全て持ち去ったことに起因する)。
信吉は景勝に安易に挑発に乗らぬよう諫言するとともに、自らは大坂に赴いて家康に対して懸命に弁明して避戦に努めた。ところが、兼続が信吉は家康に買収されて内通していると讒言したため、信吉や大森城代の栗田国時ら避戦派は上杉家からの出奔を余儀なくされ、江戸の徳川秀忠の許に逃れた(国時は兼続の追っ手により殺害された)。その後、信吉は京都の大徳寺に入って剃髪し、源心と号した。関ヶ原の戦いの後、信吉は家康に下野国西方に1万5,000石の所領を与えられたため、還俗して諱を重信と改めた。
慶長7年(1602年)、佐竹義宣が常陸国水戸から出羽国秋田へ減移封されたとき、水戸城の接収を担当している。大坂の陣にも従軍したが、慶長20年(1615年)の夏の陣後に改易された。理由は榊原康勝軍の軍監を務めていたときの失態、戦功に対する不満からの失言など諸々の理由を挙げられている。
元和2年(1616年)7月14日、信濃国奈良井宿で死去した。享年58。死因は病死説もあるが、近年では自殺説が有力となっている。
末裔として、黒前村議藤田源七、同藤田源次などがいる。



藤田信吉の墓 実相寺
藤田信吉墓所 実相寺





西方藩主墓 説明板
西方藩主(藤田信吉)墓所 説明板





西方遠江守景泰(とおとおみかげやす)は、永仁元年(1293)に宇都宮氏から分家して城を築き初代西方城主となった。爾来、足利氏旗下として、宗泰(むねやす)、綱泰(つなやす)、綱貞(つなさだ)、綱朝(つなとも)と続き6代目から西方太郎左衛門尉(さえもんのじょう)を名乗るようになった。6代目西方太郎左衛門尉綱定は、佐野唐沢城主や皆川山城主広照と数回激しい戦いを交えた。その一方、永禄年間に当山那智山実相寺を興した。7代目西方太郎左衛門尉綱吉(つなよし)は織田信長に仕えたが、その生害後は上杉景勝についたため、天正15年(1587)に落城の憂目(うきめ)を見る。ここに初代以来、290余年を以って城主の座を追われた。8代目西方太郎左衛門尉綱清(つなきよ)と養子の9代目西方太郎左衛門景英(かげひで)は、これまでの由緒を以て扶助される。10代目西方太郎左衛門尉景高(かげたか)の母は8代綱清の娘で、父は輝定の家臣遠藤六郎左衛門で、その次男としてうまれ綱清の養子となる。綱清の死以前に高崎城を出て牢人となり、西方の当寺に住むが正徳元年(1771)武芸修行のため江戸に出て野沢新助と改名する。しかし、修行半ば20才の正徳4年(1774)に西方郷阿久津勝右衛門の必死の看病も空しく江戸で病死してしまう。勝右衛門が当時に石塔、墓を建立したものである。10代目以降子孫、係累なく断絶となるは是非なきものである。
出典「西方記」 西方町教育委員会




西方氏の墓
西方氏後裔の墓




西方代四郎高之墓
西方氏後裔 西方代四郎景高之墓




西方代四郎景高の墓
西方代四郎景高の墓所




西方藩主後裔の墓 説明板
西方氏後裔の墓 説明板




[栃木県栃木市西方町元1739] 2020.01.20

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樋口山城守与六
Admin: 樋口山城守与六
関東を中心に、全国の城館をPhoto・PhotoMovieにて紹介します。近年(又は現在)の城館を紹介して行きます、以前は藪の中で在ったが現在は綺麗に整備された遺構を又は破壊、消滅された遺構も現在の在るままを紹介します,目に見える写真で城館を記録していきます又史跡、神社仏閣、自然を気ままに撮ります・・・・・・・・・・・・!!デジブックは2020年3月31日に閉鎖になりました、沢山の御視聴ありがとう御座いました。
今年初キャンプは・・・暴風雨・・・良く月は雪・・・雨・・・そして今日はどうかな!!
武士の終焉~墓所&供養塔