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星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・PhotoMovieで見る 城館をどうぞ!!

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古城巡り写真館へ、ようこそ!!
北関東を中心に、城館をPhotoMovieにて紹介します
近年(又は現在)の城館を紹介して行きます。

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須影八幡神社 埼玉県羽生市

須影八幡神社





 この八幡神社は。「新編武蔵風土記稿」に「村の鎮守なり、慶安二年八月二十四日、社領十九石五斗余を賜う、」と記されており、別当(寺院が神社を管理していたこともある)として蓮華寺の名前も見えます。その最後の住職であった潮元が、安政四年(1857年)から慶応元年(1865年)まで現在の本殿と拝殿を造営したものです。
 本殿の壁面には西、北、東の3面に彫刻が2つずつ残されています。西側は「七福神」、北側は「神功皇后縁起」、東側は「大蛇退治」と「八幡宮地形つき」を主題としています。「地形つき」は、本殿の建設工事の様子を表したもので、写実的に精巧に作られており、そこに出ている人は、本人に非常によく似ていたといわれています。
 棟札によりますと、拝殿は安政五年(1858年)に再造され、棟梁として当所の清水仙松や三村若狭正利の名前が見えます。三村家は市内本川俣で代々宮大工を世襲しており、市内常木の雷電神社や板倉町の雷電神社の造営に携わるなど著名です。彫工のなかには、市内下岩瀬の入江文治郎茂弘の名前も記されています。
 おのおのの彫刻の大きさは、縦1メートル、横2.1メートルです』
現地説明板より






八幡神社 拝殿
八幡神社 拝殿




須影八幡神社の彫刻1
須影八幡神社の彫刻1
彫刻は羽生市指定文化財になっています



須影八幡神社の彫刻2
須影八幡神社の彫刻2




かつて境内に「頼朝旗掛けの松」と伝承されていた樹があった。源頼  朝が奥州征伐(文治5年)の途中、軍を休ませ、この社に戦勝を誓った  折に、旗を掛けたと言われている。文治5年(118  9)には、神社が存在していたとともに源頼朝をこの神社に誘導した有力  者がこの近在にいたものと思える。
 「頼朝旗掛けの松」は病気にかかり、やむなく伐採されてしまいましたが、その切り株は羽生市立図書館・資料館に常時展示されています。
この松は“源頼朝旗掛けの松”と言い、頼朝が奥州征伐の際、八幡社に戦勝祈願をし旗を掛けたことからその呼び名がつけられたそうです。

かつて、羽生市の西部地域及び加須市の一部は葛浜郷と呼ばれており、その葛浜に、平安時代末期、大河戸下総権守行方の4男である四郎  行平が居し、「葛浜」を姓としたとあり、また、治承5年(1181)には源 頼朝に仕えたとある。


羽生市須影に鎌倉時代の遺跡としての葛瀬氏館跡がある。この葛瀬氏と葛浜氏が同一氏だとすれば、四郎行平が居したのは葛浜郷の今の須影の地となる。
  奥州征伐(1189)の折、源頼朝を須影の古社へ誘導したのは、頼朝に仕え、御家人として活躍し、その上、須影に館を構えていた葛浜四郎行平と思われる。
かつては、神社に所属してその経済を支えた民を「神戸(かんべ)」といい、その神社に祖・庸・調を納めることにより、神社の経済が運営されていた。中世後期、特に戦国時代となるとその社領も次第に浸食され、ついには太閤検地により没収され、代わりにいくばくかの社領が与えられた。あとを受けた江戸幕府は、それを追認しつつ、新しく配分するという形で将軍の名において「社領安堵の証明書」、いわゆる朱印状を交付した。
須影八幡宮も、慶安2年(1649)に、徳川家光から19石5斗余の朱印地を賜った。
明治3年、江戸幕府の神仏混淆政策により、社職より上位に立った僧職に管理されていた須影八幡宮も、神社管理者となっていた別当、社僧(神社を司る僧)は廃するとの神仏分離令の発布により、別当寺であった蓮華寺(寛永年間創立)も廃寺となってしまった。
それ以後、須影八幡宮においても、神主により神事が行われるようになり、祭神も八幡大菩薩から誉田別命(八幡大神)に代わっていった。










[埼玉県羽生市須影648]

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1 Comments

桑崎堀の内城兵の末裔  

神戸の地名

南羽生駅の周辺に神戸(ごうど)の地名が在ります。
直接の繋がりか判りませんが、興味が湧きますね。

2019/09/23 (Mon) 14:59 | EDIT | REPLY |   

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