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星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Photo Movie で見る 城館をどうぞ( `ー´)ノ

古城巡り 写真館

PhotoMovieにて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・
城エクスポ2019

忍城 櫻はまだ・・・・・ 2019.3.25

・・・・・・忍城の桜は、まだでしたが暖かく良い天気、週末には咲くかな?
そうそう、先日のTV「お城総選挙2019」では忍城が27位!!基本天守が有り(復元・模擬も含む)一般的な知名度が有るですかね?・・・・途中で爆睡でした(゚Д゚≡゚д゚)エッ!?

武蔵武士の中から、現在の熊谷市上之を本拠地とする成田氏が台頭し、忍城を築城しました。
文明11年(1479)の古河公方足利成氏(あしかがしげうじ)の書状に「忍城」、「成田」とでてくることから、このころには築城されていたと考えられます。
当時の城主は成田顕泰(なりたあきやす)といい、以後親泰、長泰、氏長と四代にわたり、天正18年(1590)まで、約百年のあいだ成田氏が忍城主でした。
永正6年(1509)、忍城を訪れた連歌師の宗長は、城の四方は沼にかこまれていて、霜で枯れた葦が幾重にもかさなり、水鳥が多く見え、まことに水郷である、と日記に書いています。
忍城の築かれた場所は、北は利根川、南は荒川にはさまれた扇状地で、小さな川が乱流するとともに、伏流水が寄り集まって広大な沼地となっていました。そこに残る島や自然堤防をたくみに利用して、忍城が築かれました。






忍城 三階櫓

忍城 三階櫓 模擬(本来在った場所とは違います)




忍城 三階櫓 模擬





忍城 三階櫓3





忍城 大手門




2





忍城 城址碑
忍城 城址碑




忍城 説明板
忍城 説明板


天正18年(1590)年3月、豊臣秀吉は関東平定のため、そのころ関東を支配していた北条氏の拠点である小田原へ出陣しました。忍城主の成田氏は北条氏に属していたため、秀吉方の武将、石田三成によって攻められることになりました。
6月5日、三成は地形や季節を考えて水攻めを計画し、約1週間で延長28キロにもおよぶ堤を築き、利根川と荒川の水を引き入れるという大作戦をおこないました。
しかし、城が沈まなかったため、これを見た人々は城が沈まないのは浮くからだと考え、忍城は「浮き城」として、その名を轟かせました。現実には、忍城の地形がまわりよりも少し高かったため、沈まなかったと考えられます。
その後堤は切れてしまい、水攻めは失敗に終わりました。忍城の戦いは小田原城が7月6日に開城した後も続きましたが、最終的には開城して7月14日に豊臣軍に引き渡されました。





忍城の鐘 1
忍城の鐘




忍城の鐘 2





忍城の白壁





本丸土塁 1





本丸土塁 2





本丸土塁 説明板




天正18年(1590)徳川家康が関東に入ると、家康の四男松平忠吉が十万石で忍城に入城します。
以後江戸時代をつうじて、忍城には徳川の譜代や親藩の大名が城主として入りました。
寛永16年(1639)に幕府の老中であった阿部忠秋が五万石で城主となると、忍城と城下町の整備がはじめられました。
元禄7年(1694)、孫の阿部正武のときに十万石となり、元禄15年(1702)には御三階櫓が完成し、名実ともに忍藩十万石の城としてのかたちが整いました。
文政6年(1823)に阿部氏が福島県の白河へ移ると、忍城には三重県の桑名から松平忠堯(奥平松平氏)が入り、以後明治維新まで松平氏が城主でした。
現在の御三階櫓は昭和63年(1988)に再建されたものですが、江戸時代の忍城ゆかりの遺品として、時鐘があります。この鐘は、享保2年(1717)伊勢桑名藩主松平忠雅によって鋳造され、文政6年(1823)に松平氏が桑名から忍へ移封されるのにともなって、忍城へ移されたものです。もともとはお城の二ノ丸にあって、時の鐘として時刻を知らせていました。





蓋神





進修館 表門1
伝進修館 表門




進修館 表門説明板





進修館 表門2




忍城 本丸跡
忍城 本丸跡




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忍城の石垣の石






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