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古城巡り 写真館
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桐生城・梅原館

2015/08/30
群馬県 0
桐生城・梅原館

桐生城 群馬県桐生市
市街地の北側5キロ、桐生川上流に添った形で聳える城山頂上に築かれていた日本の城。典型的な実戦型の山城であり、現在では幾つかの曲輪が遺構として残っているに過ぎない。本廓は公園として整備されている。

歴史・沿革
1350年 藤原姓足利系佐野氏一族の桐生国綱によって築かれたとされる。
1351年 渡良瀬川の水を桐生川へと落とす下瀞(しもとろ)堀を構築する。(長さ約2500メートル。現在は埋め立てられていて、一部がコロンバス通りとなっている。)
1440年 結城合戦に桐生正綱の弟正俊が出陣。
1455年 享徳の乱に谷近綱が出陣し戦死。
戦国期は、北条氏・上杉氏らに従いつつ、新田金山城の由良氏と抗争。
桐生真綱の代に後桐生氏の全盛期を迎える。
1560年 桐生助綱は関東管領として北条氏を討伐に向かう長尾景虎に従う。
1570年 助綱が死去し、佐野昌綱の子桐生親綱が桐生氏の養子として後を継ぐ。
このころ、渡良瀬川・桐生川の灌漑用水を巡り、桐生氏と由良氏の対立が表面化。小競り合いが繰り返されるようになる。
里見上総介勝広をよく思わない家臣による諫言を桐生親綱が誤解し彼を切腹させる。桐生氏弱体化。
1572年3月 太田金山の由良成繁が柄杓山城を攻め、親綱は佐野に逃走する。
由良成繁、新田金山城を子に譲り、本拠を柄杓山城に移す。
1578年 由良成繁の死去に乗じて桐生親綱が柄杓山城奪回を図るが、失敗。
1590年 後北条氏の滅亡により由良氏が牛久に領地代えされ、廃城
「Wikipedia:ウィキペディア」より

梅原館 群馬県桐生市
梅原館跡は平安時代に桐生を所領した、足利俊綱の家臣である桐生六郎(前桐生氏)の居館であったといわれている。
 室町期になり桐生国綱(後桐生氏)によって桧杓山城が築かれ、領主の居住地が城山の麓である居館に移ったことによって、この梅原館跡は下屋敷となり、ここを基点とした町屋づくりが行われたものと推考される。現在でも西・南側の一部と北側には土塁が残され、その外側には掘跡の痕跡が認められる。また、南方約500メートルにわたっては、町屋跡と考えられる古い町割りが残っている。
 昭和63年度と平成元年度に館跡内と掘跡の一部が発掘調査された。
 その結果、館跡内からは多数の柱穴跡が発見され、継続的な建築物があったことが明らかとなり前桐生氏の時期である12世紀代の遺物を認めることができた。また、堀跡の発掘調査では、上幅7メートル、探さ2メートル、底幅3メートルほどの丸堀であったことが判明した。さらに、堀は14世紀後半から16世紀にかけて遺存したことが確認され、ここ梅原館跡は桧杓山城が築城された後桐生氏の時代になっても、城館としての機能を有していたことが裏付けられた。
 発掘調査によって得られた出土遺物は、土器類のほか中国製の青磁を含む陶磁器片である。そのほか特筆されるものとしては、堀跡から中世の漆器としては出土例の数少ない、赤漆塗の木製椀が発見されたことである
桐生市hpより

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樋口山城守与六
Admin: 樋口山城守与六
関東を中心に、全国の城館をPhoto・PhotoMovieにて紹介します。近年(又は現在)の城館を紹介して行きます、以前は藪の中で在ったが現在は綺麗に整備された遺構を又は破壊、消滅された遺構も現在の在るままを紹介します,目に見える写真で城館を記録していきます又史跡、神社仏閣、自然を気ままに撮ります・・・・・・・・・・・・!!デジブックは2020年3月31日に閉鎖になりました、沢山の御視聴ありがとう御座いました。
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