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北関東を中心に、城館をPhotoMovieにて紹介します
近年(又は現在)の城館を紹介して行きます。

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谷村城・谷村陣屋・勝山城

谷村城・谷村陣屋・勝山城



山梨県都留市
谷村城
 (市役所及び小学校一帯)

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谷村は県東部、郡内地方の中央部に位置する狭隘な平野部に位置し、谷村城は蟻山と桂川に挟まれた平坦地に立地する。標高は490メートル付近。谷村には、近世に確立する甲州街道から分岐し吉田地方(富士吉田市)へ至る富士道が南北に通る交通の要所にあたる。

郡内地方では戦国時代に小山田氏が郡内領主として出現し、小山田信有(越中守)期に大幡川左岸の中津森館(都留市金井)を居館としていたことが確認されている。戦国期に甲斐国中地方では守護武田信虎と有力国人勢力の抗争が行われており、信有も武田信虎と抗争していたが和睦し、『勝山記』に拠れば永正18年(1521年)に甲斐を統一した武田信虎が中津森館に信有を訪ねていることが記されている。

信虎は甲斐を統一すると甲府を本拠として城下町(武田城下町)を建設するが、小山田氏も同時期に谷村への本拠移転を行っている。『勝山記』に拠れば享禄3年(1530年)には中津森館は焼失し、享禄5年(1532年)には谷村館が落成し信虎をはじめ甲斐国人が参集したという。以来、谷村館は越中守信有、弥三郎信有、信茂時代に至る小山田氏4代の居館として用いられている。詰城は勝山城で、近世の城下絵図では双方を繋ぐ二本の橋が描かれている。

小山田氏は小山田信茂期の天正10年(1582年)2月に織田・徳川連合軍による武田攻めに伴い誅殺され滅亡し、徳川氏・後北条氏の間で武田遺領を争奪する天正壬午の乱を経て甲斐一国を徳川氏が領すると、徳川家康は家臣の鳥居元忠を都留郡支配のため谷村城に配した。徳川氏は豊臣政権下で天正18年に関東へ移封されるが、『甲斐国志』によれば谷村城の改築はこの間に行われたという。

武田氏滅亡後も谷村は郡内地方の支配拠点として用いられ、豊臣系大名時代の加藤氏や浅野氏、徳川氏再領時代には鳥居氏が本拠とした。江戸時代には秋元氏が入府し、谷村藩が成立すると谷村城を中心に城下町(谷村城下町)として発展する。宝永元年(1704年)には秋元喬知が川越藩に移封されると城は廃城となり、郡内領は代官支配となり谷村は町場へ移行する。


谷村陣屋(甲府地方検察庁一帯)

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宝永元年12月、秋元喬朝が武州川越へ転封となり、宝永2年(1705)都留郡は御料所となり、谷村に代官所が置かれた。宝永元年12月に川越より柳沢吉保が甲府へ入封し、同3年7月に都留郡は柳沢氏の預り地となり20年の長期に及んだ。
 享保9年(1724)3月、柳沢吉里が大和郡山へ転封した後は、甲府勤番支配と代官支配による一国の地方行政が行なわれ、明治元年まで144年間にわたり天領としての期間がつづき、ときには石和・甲府・伊豆韮山の代官に預けられて出張陣屋ともなり郡内地区の行政が行なわれた。
谷村陣屋(旧高山甚五兵衛宅) 代官所は勘定奉行の支配下に属し、数年で交替される代官のもとに手付、手代が置かれ、陣屋に勤務する者と、江戸詰めの者に分かれた。
 また、公事方(主として訴訟)・地方(主として年貢取立て)・書役(庶務会計)の各役職がおかれ、治安・税務・訴訟などの政治が行なわれた。
 村役のつとめは、輪番か入札(いりふだ)によって選ばれた名主の家が村役所となり、長百姓は補佐役、百姓側の代弁者を百姓代といい、これを「三役」と呼ばれ、村内の納税、その他の義務を行ない村を治めた。 (城下町から天領へ)

勝山城(谷村城後方の城山)

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戦国期に甲斐国では甲府盆地において守護武田氏と有力国衆・後北条氏ら対外勢力との抗争で乱国状態となり、郡内において台頭した小山田氏も武田氏と抗争している。小山田氏は明応年間には活動が見られ、大永7年(1527年)には中津森館を本拠としていることが確認される。小山田信有(越中守信有)期には武田氏に臣従し家臣団となり、天文元年(1532年)には火災による焼失を機に居館を谷村館へ移転し、新城下町を形成している(『勝山記』)。谷村の城下町形成に伴い、勝山城は岩殿城に代わる詰城として整備されたと考えられているが、考古・文献両面からは確認されていない。

天文13年(1544年)には武田氏は後北条氏と甲相同盟を結び、小山田氏は後北条氏との取次を務める。さらに武田と駿河今川氏、後北条氏と今川氏も相互に同盟を結び郡内は政治的に安定するが、信玄後期の永禄11年から元亀3年の間、勝頼期の天正6年(1578年)以降には甲相同盟が解消され郡内も政治的緊張状態にあったと考えられている。

天正10年(1582年)3月、織田・徳川連合軍による甲斐侵攻では武田氏は滅亡し、小山田氏は織田氏に臣従するが粛清され滅亡する。さらに同年6月の本能寺の変において甲斐・郡内を含む武田遺領がく空域化すると徳川氏、相模後北条氏、越後国上杉氏の三者で遺領を巡る天正壬午の乱が発生する。

谷村は一時後北条氏により占拠されており、この際に勝山城も改修を受けている可能性が考えられている。甲斐一国を徳川氏が領すると郡内には徳川家臣の鳥居氏が入り勝山城は要害として利用されたと考えられているが、文禄3年には浅野氏家老の浅野氏重が入り、このときに勝山城跡に所在していた八幡神社が現在地に移転されたとされ、浅野氏時代に縄張りが行われたと考えられている。

谷村館や勝山城は相模の後北条氏や徳川氏が領し修築を施された。豊臣系大名時代には浅野知近(左衛門佐)による修築が施されており、『甲斐国志』では勝山城の築城者を浅野知近とし、従来は谷村館の詰城はさらに北方にある桂川沿いの岩殿山に築かれた岩殿城(大月市賑岡町岩殿)であると考えられていたが、現在では戦国期の本城と詰城との位置関係から、距離のある岩殿城よりも勝山城が詰城であったと考えられている。
勝山城の城域は東西約580メートル、南北約640メートル、周囲約2キロメートルで、面積は25万立方メートル。山頂に削平された平坦地があり、中央に本丸・ニの丸・三の丸が所在する。

周辺には北尾根・東尾根・南尾根にそれぞれ曲輪群が存在し、本丸西側には内堀が存在する。城山の南から東・北側は桂川が天然の堀となっており、南から西側は一部人工的な開削による外堀も確認される。

発掘調査により本丸には構造物の存在を示す柱穴跡のほか南西隅には櫓台遺構、西側には織豊期の特徴を示す高石垣が確認され、甲斐国においては甲府城が総石垣の城郭であるが、勝山城も浅野氏時代に石垣が修築されたと考えられている。絵図類においては石垣は北側においても描かれているが、確認されていない。櫓台遺構は石垣を用いない土盛で、瓦類は検出されていない(櫓台遺構は山梨県では勝山城跡のほか躑躅ヶ崎館跡と瓦類を伴出する石垣構造と櫓台遺構を備える甲府城跡のみにおいて確認されている)。ほか、土塁、堀切の一部も確認される。
「Wikipedia:ウィキペディア」より
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