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古城巡り 写真館
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大葉沢城2018改 新潟県村上市

2018/04/23
新潟県 0
大葉沢城2018改 











村上城と本庄城の本庄氏と同族です。
いつ頃から宗家である本庄氏とわかれたのかはわかりませんが、同じく本庄家から分かれた同族の色部氏(平林城)と同じ位の時代(建永元年=1206)以降に早くも分家したものと考えられています。

この鮎川氏は、初めはそれほど力を持っていたわけではなく、一種の土豪としてこの地に根を張った立場であっただろうと思われます。

鮎川氏が台頭してくるのは、鮎川清長という城主の戦国時代になってからです。
戦国時代にもなると鮎川氏の勢力も宗家である本庄氏と肩を並べるほどのものに成長してきて、宗家である本庄氏とも度々争い、鮎川清長は本庄房長(本庄繁長の父親)の留守中に村上城=本庄城を奪うという行為もしています。

また、長尾為景(上杉謙信の父親)が越後守護職である、上杉房能(ふさよし)を武力によって追放した時は、反為景派として宗家の本庄氏ら、揚北衆と手を組んで為景を一時期越中に追いやり対抗もしましたが、結局は為景軍の逆襲にあい、敗れてしまいました。
長尾為景には屈服しましたが、為景の跡継ぎである長男の晴景になるとその大将たる器量に絶望し、またまた反旗を翻します。
しかしこの抵抗も、晴景の弟である長尾景虎(上杉謙信)が新たに越後守護代になったことによって抑えられました。

永禄十一年(1568)になると今度は宗家である本庄繁長が、甲斐の武田信玄に調略されて上杉謙信に叛きました。
しかしこの時は宗家である本庄繁長には味方せず、鮎川盛長(清長の子)は上杉謙信に味方をして本庄繁長を攻めましたが、逆に繁長に攻められて大葉沢城は落城してしまいました。
大葉沢城は落城こそしてしまいましたが、本庄繁長もまた上杉謙信に攻め立てられて繁長は降伏しました。
その後の鮎川盛長は終始謙信に仕えていました。

謙信死後に起こった御館の乱では謙信の養子である上杉景虎に味方をして、上杉景勝に対抗しています。
御館の乱は上杉景勝の勝利で終わりましたが、景虎の味方をしていた鮎川氏がどのような手段で生き延びていたのかは不明です。
また存続した鮎川盛長は御館の乱後に勃発した新発田重家の反乱(新発田合戦)では、新発田重家・上杉景勝のどちにも味方せず、中立を保っていました。


慶長三年(1598)の上杉景勝が会津に移封されると、鮎川氏も景勝と共に同行。
その移動の際に、鮎川氏の居城である大葉沢城は廃城にされたと言われています。






大葉沢城へ
大葉沢城へ




大葉沢 東ごぼう峰側の虎口
東ごぼう峰側の虎口




大葉沢 最西端の堀切
最西端の堀切




大葉沢 畝状竪堀
畝状竪堀




大葉沢城 畝状竪堀
畝状竪堀




大葉沢城 主郭
大葉沢城 主郭






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樋口山城守与六
Admin: 樋口山城守与六
関東を中心に、全国の城館をPhoto・PhotoMovieにて紹介します。近年(又は現在)の城館を紹介して行きます、以前は藪の中で在ったが現在は綺麗に整備された遺構を又は破壊、消滅された遺構も現在の在るままを紹介します,目に見える写真で城館を記録していきます又史跡、神社仏閣、自然を気ままに撮ります・・・・・・・・・・・・城巡り・カメラからのキャンプ覚醒!!
今年初キャンは・・・暴風雨(@_@)・・・翌月は雪(>_<)・・・雨((+_+))・・・そして今日梅雨明けの快晴(*ノωノ)!!
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