改 平戸城 長崎県平戸市
平戸島の北部、平戸市街の東部に位置する。平戸港を見下ろし、対岸の九州本土を望む平戸瀬戸に突き出た丘陵上にある。 三方を海に囲まれ天然の堀としている。丘陵の頭頂部に本丸が築かれ、その南側に二の丸、東側に三の丸が配された梯郭式の平山城である。 最初は安土桃山時代の末期に松浦鎮信(法印)によって築かれたが破却され、江戸時代中期になって再建された。再建にあたっては山鹿素行の軍学に沿って縄張りがなされたという...
羽黒城 愛知県犬山市
築城年代は定かではないが建仁年間(1201年~1204年)に梶原景親によって築かれたと云われる。 梶原景親は源頼朝に仕えた鎌倉幕府の重臣梶原景時の二男景高の子である。梶原氏は正治2年(1200年)鎌倉を追われ上洛するさなか、駿河国清見関での戦いに敗れて一族の多くが討死した。そのうち景高の子豊丸が乳母に連れられて羽黒へ落ちのび、長じて景親と名乗り現在の興禅寺に館を構えた。梶原氏は羽黒一帯に勢力を持ち、信長に仕えた梶原...
竹中半兵衛 垂井駅前
美濃菩提山城主竹中重元の子。半兵衛というのは通称。名は,はじめ重虎といったが,のち重治と改めた。稲葉山城主斎藤竜興に仕えていた永禄7(1564)年2月,竜興の寵臣政治にたまりかね,わずか十数名で稲葉山城を乗っ取ったことはよく知られている。その後,城は竜興に返したがそのまま蟄居し,同10年,織田信長が斎藤氏を滅ぼすと,豊臣秀吉の誘いによって信長方となり,元亀1(1570)年の姉川の戦のころから秀吉の与力につけられた。居城の菩...
小里城 岐阜県瑞浪市
小里光忠が天文3年(1534年)に小里川南岸の城山に築いた。それ以前は付近の小里氏の菩提寺である興徳寺の西に小里新城があり、土岐氏や小里氏の居城だったとされる。小里氏は土岐元頼ないしその子の頼連から始まったとされ、元頼の戦死後は諸国を放浪したが、越前国の朝倉氏の後援を得て土岐、恵那両郡の旧領・約3,600石余を取戻した。ただし、築城者の光忠が土岐氏の系譜を引くかは不明とされる。 光忠は織田信長に従ったが元亀...
明智城 岐阜県恵那市
明智城絵図 説明板より㊟表題の可児市は恵那市の間違えです恵那郡明知は、北は岩村・恵那、東は信濃国伊那郡飯田、西は土岐郡、南は三河国賀茂郡足助・額田郡岡崎に街道が通じる、交通の要衝の地である。遠山氏祖の遠山景朝の父親である、源頼朝の重臣の加藤景廉が明知を含む遠山荘の地頭に任ぜられ、それ以降、明知遠山氏累代の土地であった。 戦国時代の後期には、岩村・阿照・明知・串原・苗木・安木と並んで遠山七頭と呼ばれ...
石田神社 滋賀県長浜市
石田町上雑附に鎮座し、古代の古墳上にある。石田三成先祖の邸趾で、三成の尊崇を受けたといわれる。江戸時代に文書類は煙滅した。 境内には石田三成供養塔及び一族の墓石がある石田神社が鎮座する。 関ヶ原の戦い後、石田三成の敗戦を知った石田郷の人々は 徳川方からの追及を逃れるために石田三成の先祖の墓を八幡神社の裏の地中に埋めて隠す。 時を経て昭和16年に発掘で発見され、30年の月日を経てこの供養塔が整備されるに至る...
石田屋敷 滋賀県長浜市
石田三成公は永禄三年(1560年)にこの石田町に誕生されました。その当時の石田家の屋敷はこの付近一帯にわたり、約一町四反歩位あったものと思われます。現在地は屋敷の南端に当たり、ここから北へ現在のバス停付近まで屋敷があったようで、この地域の小字名は「治部」と称し、俗称「ごいで」とも言われています。隣接地に「的場」「御畑」「堀端」などの小字名から当時の豪族らしい構えが伺われます。左手の池は「堀端」また...
佐和山城2013改 滋賀県彦根市
㊟城巡りを始めた頃の為、見落とし多数あり坂田郡および直近の犬上郡のみならず、織豊政権下において畿内と東国を結ぶ要衝として、軍事的にも政治的にも重要な拠点であり、16世紀の末には織田信長の配下の丹羽長秀、豊臣秀吉の奉行石田三成が居城とし、関ヶ原の合戦後は井伊家が一時的に入城したことでも知られる鎌倉時代、近江守護職・佐々木荘地頭であった佐々木定綱の六男・佐保時綱が築いた砦が始まりとされ、建久年間(...