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星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Photo Movie で見る 城館をどうぞ( `ー´)ノ

古城巡り 写真館

PhotoMovieにて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・
城エクスポ2019

春日山城2019


㊟主要郭のみを、巡りました。


春日山駅から見た春日山城
春日山駅から見た春日山城



築城の時期についてはよくわかっていませんが、南北朝時代(約600年前)には既に存在していたようです。ただ、現在見られるような広大な城に整備されるのは後のことで、上杉謙信公・景勝公と堀氏によるものと考えられています。
「城」という字が「土偏」に「成る」と書くように、春日山城はまさに「土の城」であり、複雑な自然の地形を巧みに利用した堅固な城塞は、難攻不落の天下の名城といわれました。
現在も、空堀(からぼり・尾根を掘って作る人工的な凹地)や土塁(どるい・土を盛って作った障壁)、大井戸など山城の特徴が残ります。屋敷や空堀が展開する山の裾野に、延長1.2kmにも及ぶ堀と土塁で総構(そうがまえ・防御のため外周を囲った日本の城郭構造)が築かれている点が大きな特徴です。
標高約180mにある本丸跡からは、日本海や頸城平野、それを取り巻く山並みをも一望できます。
また、春日山城跡の中腹には、昭和44年の大河ドラマ「天と地と」放映にあたり制作された、上杉謙信公の銅像があります。





直江山城守宅跡
直江山城守宅跡




不識院跡に建、毘沙門導
不識院跡に建、毘沙門堂




春日山城 主郭
春日山城 主郭




春日山城 城址碑
春日山城 本丸の城址碑




三ノ丸で上杉景虎屋敷跡
三ノ丸で上杉景虎宅跡(以前は杉の大木が有り苔むした良い感じでしたが、数年前に立木が伐採され明るくなりましたが・・・・果たして良いのだろうか・・・)





[新潟県上越市中屋敷1743]

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春日山林泉寺 新潟県上越市

林泉寺(りんせんじ)は、越後国守護代・長尾氏およびその後裔である上杉氏の菩提寺として知られる曹洞宗の寺院である。山号は春日山(かすがさん)。
長尾氏の居城・春日山城(現在の新潟県上越市)の山麓に建立された上越市の林泉寺。




春日山林泉寺 総門
春日山林泉寺 総門 春日山城の搦手門と云われる(数年前に改修され、茅葺から銅葺になっていました)




春日山林泉寺 山門
春日山林泉寺 山門




山門の第一義
山門の第一義



林泉寺境内
林泉寺境内




林泉寺本堂林泉寺本堂





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墓所案内図
墓所案内図




堀氏墓所
堀氏墓所




川中島合戦戦死者供養塔
川中島合戦戦死者供養塔




謙信公の父及び祖父墓所
謙信公の父及び祖父墓所




上杉謙信公墓所2
上杉謙信公墓所




上杉謙信公墓所1
上杉謙信公墓所




上杉謙信公墓所3
上杉謙信公墓所




榊原氏墓所
榊原氏墓所




松平氏墓所1松平氏墓所1
松平氏墓所1



松平氏墓所2
松平氏墓所2



謙信公座像
謙信公座像



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[新潟県上越市中門前1丁目1−1]

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福島正則霊廟 岩松院 上高井郡小布施町

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本堂裏の石段を上ったところには、賤ヶ岳七本槍のひとりに数えられ、寛永元年(1624年)に没した福島正則(ふくしままさのり)の霊廟が建立されています。
霊廟には、遺骨が埋葬され、左遷状や太閤葬儀行列張などが納められています。
福島正則は、元和5年(1619年)、台風による水害で破壊された広島城の本丸・二の丸・三の丸の石垣の修築を幕府に無断で行なったとして、安芸・備後50万石は没収、信濃国川中島四郡中の高井郡と越後国魚沼郡の4万5000石(高井野藩)に減転封されていました。
寛永元年(1624年)、高井野(長野県高山村)で死去、岩松院に葬られています





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岩松寺




岩松寺 本堂
岩松院 本堂



福島正則霊廟 標柱




福島正則霊廟
福島正則霊廟



蛙合戦の池の畔には、たった1ヶ月足らずで他界してしまった小林一茶の初児、千太郎への励ましの句でもある「痩せ蛙まけるな一茶これにあり」という句が記された句碑があります。



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「痩せ蛙まけるな一茶これにあり」という句が記された句碑」



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蛙合戦の池





[長野県上高井郡小布施町雁田615]

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福島正則屋敷 長野県上高井郡高山村

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福島正則屋敷、現在は中央に高井山高井寺となる




元和5年(1619年)、安芸・備後両国の大名福島正則が広島城の無断普請を理由に領地を没収され、この地に転封を命じられて居住した所である。高井野藩4万5千石(後に2万5千石を返上)の藩庁が置かれた。

屋敷は103m×70mの方形単郭の平城であったが、東北隅に高さ5mの土塁が残存するのみで、屋敷跡の中央には高井山高井寺(たかいさんこうせいじ)が建っている。[1]
現存する石垣は、安政年間(1854-1860)に高井寺が土塁や空堀を壊して修築の手を加えたものであり、往時の面影はない。
高井寺には、福島正則の遺品として肖像画、槍先、仏舎利、掛軸(正則の高井野での功績をたたえた絵伝)が伝えられている。



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[長野県上高井郡高山村高井197]

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福島正則荼毘所跡(屋敷跡から北西約500mの田の中に在ります)
病死した正則の死骸は7月の暑い盛りであったため、幕府の検死が済む前に荼毘に付したために、家禄は没収された。正則の威徳を偲んで、当時の住民により、この荼毘所跡に1本の杉が植えられ、以来300数十年、いつしかその地は「一本杉」と村民に呼ばれていた。一本杉は「傷をつけると血が噴出す」と長い間村人の間に伝承され、大切にされてきた。高さ30メートル、周囲9メートルの大木となっていたが、昭和9年の室戸台風で倒壊した。




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榊原康政の墓 善導寺 群馬県館林市

【県史跡指定】

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善導寺は館林駅前に隣接していたことから、館林駅前広場整備計画により現在の地に移転しそれにに伴い、榊原家の墓も移転しました。



榊原康政は、天文17年(1548年)三河国上野(現在の愛知県豊田市)に生まれ、幼名を亀、のちに小平太と名乗り12才で徳川家康の家臣となりました。
初陣は、永禄6年(1563年)上野の合戦で、この時手柄をたて家康から一時を賜り家政と名乗りました。以後、姉川、三方ヶ原、長篠、小牧、長久手などの合戦を戦歴し、徳川幕府の功臣として、後に井伊直政、本多忠勝、酒井忠次とともに徳川四天王の一人に数えられています。
天正18年(1590年)家康の関東入国に際し、10万石を領し館林城主となりました。館林での業績は、城の拡張、城下町の整備、利根川・渡良瀬川の築堤をはじめ、日光脇往還を新設するなど、土木事業において顕著で郷土館林の礎を築きました。
康政は慶長11年(1606年)に没し、法名は養林院殿上誉見向大禅定門。、墓の高さは5.46メートルの宝篋印塔です。墓所には康政を含め榊原家関係者5基の墓石が並んでいます。





善導寺 縁起





善導寺 本堂
善導寺 本堂




榊原家墓所
榊原家墓所




榊原康政墓所
榊原康政の墓 善導寺 県指定史跡(館林市)






[群馬県館林市楠町3692]

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祥室院殿の墓(館林城主榊原忠次の母) 善長寺 群馬県館林市

市指定史跡

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善長寺 群馬県館林市




館林城主榊原忠次の母「祥室院」は、下総国関宿(現在の千葉県野田市(旧東葛飾郡関宿町))城主松平因幡守家元(徳川家康の異父弟)の娘で、榊原康政の長子 遠江国横須賀(現静岡県掛川市)城主の大須賀忠政に嫁ぎ忠次を生みました。
忠政が慶長12年(1607年)に病没すると、徳川家康の命により伊勢国長島(現在の三重県桑名市長島町)城主菅沼定芳に再嫁し、元和9年(1623年)に近江国膳所(現在の滋賀県大津市)で病没しました。この時忠次は館林城主であったため、母の墓から遠く、菅沼家に分骨を請い善長寺に墓石を建立したといいます。
宝篋印塔は高さが4メートル89センチ程あり、宝珠下端から塔身にかけて「祖師西来意」、塔身に「瑞峰窓嘉元和九昭陽大淵歳南呂初九日」(元和九年八月九日)と刻まれています。瑞峰窓嘉は館林城主榊原(松平)忠次の母の法名。




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善長寺鐘楼堂




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館林城主榊原忠次の母 祥室院殿の墓 市指定史跡(館林市)




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[群馬県館林市当郷町1975]

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館林城 総構 群馬県館林市







築城については、江戸時代になって書かれたもののなかに、赤井照光によって築かれたとするものがあり、「狐の尾曳伝説」として知られているが、現在確認されている館林城について書かれた最古の古文書は、文明3年(1471年)に上杉軍が赤井文六、文三の居城である「立林(館林)城」を攻略したという記録である。
「狐の尾曳伝説」とは、赤井照光が子ぎつねを助けたところお稲荷様の化身の白きつねが現れ、尾を曳いて城の配置を教えてくれたというもの。






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越後の上杉氏や甲斐の武田氏、相模の北条氏による三つ巴の攻防のなかで長尾氏、北条氏などが館林城を支配するようになったが、天正18年(1590年)の徳川家康の関東入封に伴って、徳川四天王の一人榊原康政が10万石で城主となった。

江戸時代に入ると、館林は利根川を押さえる東北方面への要所として、また、徳川綱吉が五代将軍になってからは将軍を輩出した地として重視され、最後の城主秋元氏まで江戸幕府の重鎮を務めた七家の居城として栄えた。
かつては総構があり、本丸には三層の天守と二重櫓が一基、御厩曲輪(再築後の南曲輪)にも二基の二重櫓があり威容を誇っていたが、天和3年(1683年)に徳川徳松が急死すると廃藩となり廃城となった。
宝永4年(1707年)松平清武が入封すると館林城は規模を縮小して再築され、本丸に天守代用の二重櫓が、南曲輪と三ノ丸にも二重櫓が一基ずつ上げられた。






館林城城址碑
館林城城址碑




稲荷郭 尾曳神社
稲荷郭 尾曳神社




土橋門(復元)
土橋門(復元)




城下北西の土塁
城下北西の土塁




八幡郭 秋元氏別邸
八幡郭 秋元氏別邸





[群馬県館林市城町1−3]

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