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星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Photo Movie で見る 城館をどうぞ( `ー´)ノ

古城巡り 写真館

PhotoMovieにて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・
城エクスポ2019

古河城 茨城県古河市






_DSC6034 (2)
現地説明板より





室町時代後期から戦国時代にかけては、古河公方の本拠となる。
享徳の乱において、第5代鎌倉公方足利成氏は関東管領上杉氏と争い、享徳4年(1455年)、今川範忠に鎌倉を占拠されると、下総古河に本拠を移した。「古河公方」の成立である。成氏の勢力範囲は、当時の渡良瀬川・利根川の東側にあった下総国・常陸国・下野国・上総国・安房国(栃木県・茨城県・千葉県)であり、山内上杉家および扇谷上杉家の勢力範囲は、反対側の上野国・武蔵国・相模国・伊豆国(群馬県・埼玉県・東京都・神奈川県など)だった。さらに京都の室町幕府も上杉氏を支持、新たな鎌倉公方として足利政知(堀越公方)が東下して、30年近く両勢力は争い続ける。
古河を本拠に選んだ理由は、前面の利根川や渡良瀬川が上杉氏に対する天然の堀となり守りやすいこと、小山氏や結城氏等、成氏を支持する諸将の根拠地が近いこと、鎌倉公方家の御料所があり経済的な基盤となったことが挙げられる。成氏は当初、古河の鴻巣にあった古河公方館を居館とし、立崎の古河城を整備した後に移動した。このころ、扇谷上杉家の家宰である太田道灌は、古河城に対抗する前線上に江戸城・岩付城・河越城を築き、拠点とした。
古河公方は代々およそ130年間引き継がれ、古河は室町後期および戦国時代の関東の中心の一つとなる。永禄年間(1558年 - 1570年)には、上杉謙信と北条氏康が公方擁立争いのために本城を奪い合い、謙信を支援する関白・近衛前久が滞在した。その後、後北条氏の関東支配が確定的になると、古河公方も次第にその支配体制の一部に組み込まれ、城も後北条氏の管理下におかれた。 永禄10年(1567年)から天正年間(1573-1592年)にかけては、佐竹氏や結城氏らに対抗するため、北条氏照のもとで城の整備・拡充が進められる。なお天正18年(1590年)、小田原合戦時の「毛利文書」には、後北条氏の持城として栗橋城・関宿城がみえるが、古河城はみえないことから、最後の古河公方・足利義氏が死去したのちの氏姫期にも、完全には支城化されず、古河足利氏の本拠として別扱いされていたことが分かる。








古河公方史跡と近世古河城図
古河公方史跡と近世古河城図(現地説明板より)




古河城本丸石碑
古河城本丸石碑




現在の古河城跡
現在の古河城跡
明治末に、度重なる渡良瀬川の洪水対策を目的として、16年間の大規模な河川改修事業が始まる。このときに主要な曲輪は削平され、堀は埋め立てられて、堤防や河川敷などに変わり、城跡のほとんどが消滅した。建設機械が発達していない時代に、このように大きな城跡を徹底して破壊した例は珍しく、改修事業の規模の大きさが分かる。



獅子ヶ崎
獅子ヶ崎 土塁が残る




天正18年(1590年)、豊臣秀吉が後北条氏を滅ぼした後には、徳川家康に従って小笠原秀政が入部し、古河城の修復・拡張を行った。以後、江戸時代には古河藩の藩庁がおかれ、歴代藩主の居城となった。また、古河公方時代とは逆に、東北方面をにらみ、江戸防衛の一端を担った。
城主は幕府の要職を務めることが多く、大老の土井利勝・堀田正俊、老中の永井尚政・松平信之・本多忠良・土井利厚・土井利位などを数える。
城下には日光街道の宿場町である古河宿が展開するとともに、渡良瀬川による河川水運も発達して、交通・物流の要所となった。 徳川将軍による日光社参では、岩槻城・古河城・宇都宮城に宿泊した後、日光に入ることを恒例とし、将軍の宿城の一つとしても重視された。






古河城 追手門跡
古河城 追手門跡




お万の方 ゆかりの寺
お万の方 ゆかりの寺(境内に墓が有ります)




[茨城県古河市古河484−4]

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稲荷山城 長野県佐久市

稲荷山 公園の展望台
稲荷山公園の展望台 此方側の城山は公園及び宅地化により遺構は、ほぼ無と思われる!!



稲荷山城は武田信玄が信濃へ侵攻する際に宿城として利用していた城です。1582年(天正10年)に起きた「本能寺の変」の際、徳川家康は佐久地方の制圧に乗り出し、その際に軍事拠点として松平家忠に城の改修を命じています。また翌年に徳川軍が「第一次上田合戦」で真田昌幸に敗れた際にはこの城まで退却したと伝えられます。その後は小諸城主・松平康国が利用しましたが、徳川家康の関東移封に伴い廃城となりました。現在城址は「稲荷山公園」として整備されていますが、造成時に改変されており遺構は不明瞭です。




稲荷山 公園説明板





稲荷山 名前の由来の神社
稲荷山城の北側の稲荷社、こ北側が城の面影と思える!!




稲荷山 扇岡
稲荷山城 扇岡(本丸及び肥前郭等の写真は撮れていません)




_DSC6014.jpg





稲荷山城 公園から見た展望
公園から見た展望



[長野県佐久市勝間108−1]

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虚空蔵山狼煙台 長野県佐久市

改虚空蔵山狼煙台 遠景
道の駅「ヘルシ-レラス佐久南」から見た遠景、ハイキングコ-スが整備されています



佐久を制圧した武田氏がは村上氏を追って小県から川中島に進出し越後(新潟県)の上杉氏と対峙する一方、佐久を中継基地として上州(群馬県)に軍を進めていた。
本国との迅速な連絡の為に築かれた狼煙台である、山頂には狼煙の炊かれた痕跡は見られないが背後は土塁と堀切で固められ、堀切後方尾根上は幅5m長さ1000mにも及ぶ平らな削平地が有り、地元では直線馬場と呼んでいる。





[長野県佐久市根岸311]

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宝生寺山砦 長野県佐久市

改 寶生寺山砦遠景
道の駅「ヘルシ-テラス佐久南」から見た遠



前山城の北の守りの為に築かれた砦であろう。伴野庄の地頭となった小笠原長清の子時長は伴野庄に土着し伴野氏を称する。
時長は伴野館に住んだがその子長朝が前山を築城したとされる。やがて本城は前山城へと移され、戦国時代に入り強化される。
その頃に物見の砦と共に宝生寺山砦も築城されたと思われる。

小山上に、櫓台とも見える方形の台地を頂点に、南側には削平地を作りこれを取り巻き、東から西にかけて二段の腰郭が造られている。現在宝生寺は廃寺となり砦全体は藪化が進んでいるが削平された郭は確認できる。





[長野県佐久市伴野672]

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内山城 長野県佐久市






改 内山城 イメ-ジ図

㊟イメ-ジ図になります(-ω-)/




完 志賀城との位置関係2019





内山城は、永正年間に大井美作入道玄岑が築城したといわれている。戦国時代の城主は信濃国衆・岩村田大井氏。
甲斐国の武田晴信(信玄)は天文10年から信濃侵攻を開始し、『高白斎記』によれば天文12年(1543年)には信濃長窪城主・大井貞隆は武田方に捕縛された。貞隆の子息・貞清が内山城において抵抗し、天文15(1546年)には武田氏は佐久郡へ侵攻し、同年5月3日には内山城攻めを行う。『高白斎記』によれば、同年5月21日に貞清は降伏し、野沢(佐久市)へ退いた。『高白斎記』によれば、貞清は翌天文16年に武田氏に臣従した。
内山城代には一時大井貞清に任されるが、同年7月18日に武田家臣の上原伊賀守(小山田備中守、虎満)が城代となり(『高白斎記』)、虎満は死去まで佐久郡の郡代を務めている。天文17年(1548年)2月14日には、小県郡上田原における上田原の戦いにおいて武田方を撃退した村上義清は内山城を攻めたが、晴信は諏訪上原城から佐久へ出馬しこれを退けた。
天正10年(1582年)に武田氏が滅亡した後、天正11年(1583年)に徳川家康の麾下依田信蕃らによって攻略され廃城になった。






ここからが登城口
衣笠神社脇から内山城へ




内山城の主郭
内山城の主郭




南尾根の馬場の平
南尾根の馬場の平




水の手の井戸
水の手の井戸





西尾根 2本目の堀切
西尾根 2本目の堀切





園城寺の本堂
園城寺の本堂



[長野県佐久市内山5795]

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五本松城 長野県佐久市







五本松城@ヤマシロ
㊟イメ-ジ図になります(-ω-)/


詳細不明。内山城と志賀城との間にあり烽火台とも伝えられる。
文亀・永正年間(1501年~1521年)頃に内山美作守の城であったものが、大永年間(1521年~1528年)に笠原氏によって攻め落とされたとも伝えられる。





完 志賀城との位置関係2019
志賀城との位置関係




志賀城から見た五本松城
志賀城から見た五本松城




西城の巨石
西城の巨石




五本松城の主郭
五本松城の主郭




五本松城主郭の看板
五本松城主郭の看板




東端の堀切
東端の堀切



西城手前の熊さん 20190721
西城手前の熊さん 20190721



[長野県佐久市志賀2376−1]*今回は志賀側からの登城しました。

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内山古城(長沢城) 長野県佐久市

完 志賀城との位置関係2019
志賀城との位置関係





内山古城@ヤマシロ
㊟イメ-ジ図になります(-ω-)/




五本松からの郭3
五本松城から来た際の、最初の細長い郭?






この城へは幾つかのル-トがあるが、今回は五本松城側のル-トで登城しました。
(内山城側からのル-トも有ります)
詳細不明。 「信濃の山城と館」によれば、地元では天文15年(1546年)に武田氏の攻撃を受けて落城した内山城がこの内山古城と考えられているようである。







郭3の先の郭
削平された郭が現れる(上から見た所)





内山古城 郭1
郭1 三方を土塁で囲まれる




郭1方面
郭1背後の土塁



_DSC5742.jpg
郭2 この城では広い削平地




内山古城の倒木
内山古城の倒木、五本松城から来るとこのような倒木が沢山有ります!!




_DSC5735.jpg
郭2背後の土塁にいた蝮さんの幼蛇




[長野県佐久市内山4822−1]

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津久井城 神奈川県相模原市

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津久井城 縄張り図
*津久井城公式hpより






パ-クセンタ-・・陣屋跡
隣接する津久井湖はダム湖で、当時には無いことを理解する必要がある。城山に築かれた山城。南北の根小屋が残っており根小屋式城郭の端緒・典型とされている。ただし、最近の調査・研究の結果、山頂付近にも物見櫓や兵士駐屯のための建物が配置された形成も発見されており、落城前には、相応の防御能力があった山城であることが伺えるようになってきた。




津久井城 ジオラマ
津久井城 ジオラマ



鎌倉時代に三浦党の筑井氏が築城したと言われている。大江(毛利)氏の津久井三郎の居館として現在地の詰めの城と、同八幡社の行政舎が整備されたと言われる。本格的に城と使われ始めたのは戦国時代の後北条氏の時であった。この地は甲斐と小田原を結ぶ要所であるため武田軍と後北条軍が鎬を削ったところである。後北条氏は武田軍にそなえて、津久井城主の内藤氏らを中心に津久井衆と呼び守らせたが実際は「敵半地」と呼ばれ、半分は奥三保(現在の裏丹沢)などの武田氏の勢力下(小山田氏を盟主とする郡内衆)だった。
1569年(永禄12年)の三増峠の戦いの時は、武田側の加藤丹後によって押さえられて出陣できなかった。
1590年(天正18年)の小田原征伐の時には城主内藤景豊は小田原城にいたので、老臣等が守っていたが、徳川家康の武将平岩親吉らによる攻撃により6月25日に開城した。その後城は廃城となり徳川直轄領。近くに陣屋を置き八木家などの代官がこの地を統括した。




御屋敷跡
御屋敷跡 発掘調査後埋め戻されています




現在津久井城には、家老屋敷跡や宝ヶ池、堀切などが残っている。また、発掘調査が行われた根本・城坂の「御屋敷跡」では掘立柱建物や空堀、土塁、焔硝蔵などが検出されている。現在は主要部分が神奈川県立津久井湖城山公園となっており、ハイキングコースも整備されている。





家老屋敷の石積
家老屋敷の石積 主要郭にはこのような石積が在ったのだろうか・・・・・??




津久井城主郭
津久井城本城郭




不思議な場所の城址碑
不思議な場所の城址碑





大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )[神奈川県相模原市緑区根小屋127−5]

小松城 神奈川県相模原市

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小松城@樋口山城守与六
㊟イメ-ジ図になります(-ω-)/




小松城は永井大膳大夫広秀の居城であったと伝えられる城です。片倉城の支城であったとされ、永井氏は片倉城主・長井氏の一族と考えられています。戦国時代には北条氏の支配下になり、津久井城の支城として、武田氏の侵攻に備えて整備されました。現在、館跡に建てられた宝泉寺の裏山が城址で、墓地から階段がのぼれるようになっています。
竪堀に堀切が良好に残るが郭は藪化しています又主郭の西側に説明板が有ります。





小松城遠景
小松城遠景、手前の寶泉寺が居館跡




小松城城址碑
小松城址碑




小松城 祠の在る郭2
祠の在る郭2、後方が主郭




小松城 主郭北側1本目の堀切
主郭北側1本目の堀切




[神奈川県相模原市緑区川尻4551−3]

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上の山城 神奈川県相模原市

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山の上城@ヤマシロ
㊟イメ-ジ図です(´・Д・)」




城址は比高20mほどの独立した台地である。この城についての歴史的詳細は不明である。



上の山城の入り口
上の山城の入り口




上の山城の探索道
上の山城の探索道




上の山城の主郭
上の山城の主郭*今回は雨天の為、主郭から、南側の遺構は見ていません。




上の山城 紫陽花




[神奈川県相模原市緑区寸沢嵐1852]

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