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星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Photo Movie で見る 城館をどうぞ( `ー´)ノ

古城巡り 写真館

PhotoMovieにて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・
城エクスポ2019

箕輪城を歩く2019

箕輪城を歩く2019




*箕輪城のダイジェスト版になります♪(/・ω・)/ ♪


箕輪城@ヤマシロ
㊟イメ-ジ図になります(-ω-)/

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箕輪城 群馬県高崎市

箕輪城@ヤマシロ
㊟イメ-ジ図になります(-ω-)/




大手門跡から観音口迄





埋門跡からニノ丸迄






本丸から完





箕輪城は榛名山東南麓の丘陵上を中心に、北東と南西の平地部を含んだ戦国時代の平山城(ひらやまじろ)です。東西約500メートル、南北約1,100メートル、面積約36ヘクタール(史跡面積=約19ヘクタール)におよぶ西上野(にしこうずけ)の中核的な城郭です。北西から南東方向にのびる尾根上に主要な曲輪(くるわ)を直線的に配置し、さらにこれを核にして多数の曲輪を線対称状に配置しています。これらの曲輪を区画しているのは、本丸周囲を巡る最大幅40メートル、深さ10メートルに代表されるような広大な堀です。
西暦1500年前後に長野氏が築城し、その後4代にわたって長野氏の本拠でした。武田氏の西上野侵攻に際して、長野氏はこの箕輪城を本拠にして最後まで抵抗しました。永禄9年(1566)に武田信玄に落とされるとその後は、武田氏(1566~1582年)、織田氏(1582年)、北条氏(1582~1590年)、徳川氏(1590~1598年)と次々と主(あるじ)を変えましたが、その度に各大名の有力家臣が城主として配置されています。特に最後の城主井伊直政(いいなおまさ)は、徳川家康の家臣のなかでは最大石高の12万石で封じられています。その8年後の慶長3年(1598)、井伊直政は城を高崎に移し、箕輪城は廃城になりました。





箕輪 大手門跡
大手門跡




三ノ丸の石垣
三ノ丸の石垣




郭馬出門
郭馬出



大堀切
大堀切、井伊氏時代の改修か?




箕輪 本丸跡
箕輪城 本丸跡









[群馬県高崎市箕郷町東明屋676]

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群馬県渋川市赤城町城館 ダイジェスト

群馬県渋川市赤城町城館 ダイジェスト




棚下の砦、津久田城、猫城、猫寄居、勝保沢城、不動山城のダイジェスト版です



改 棚下の砦





完成 津久田城@樋口山城守与六





完成 猫城@ヤマシロ





不動山城@樋口山城守与六





@樋口山城守与六勝保沢城

勝保沢城 群馬県渋川市

勝保沢城





@樋口山城守与六勝保沢城
㊟イメ-ジ図になります(-ω-)/




赤城歴史資料館~宗玄寺一帯が城域である、しかし、大部分の遺構は消滅している・・・・・・・
勝保沢城主斉藤加賀守安清は、狩野筑前守安元とともに武州勝沼より一旅を挙げてこの地域の保護警備に移住し、北条氏の家臣となりて各地の合戦に参加して武功を立てた。加賀の妻は狩野安元の娘で斉藤加賀の武名は高く、関東一の勇者と称された。天正10年(1590)に浪人となり、城地の方一町を寄進して曹洞宗宗玄寺を開いた。







宗玄寺本堂
宗玄寺本堂




勝保沢城 主郭
主郭(歴史資料館裏手)




勝保沢城 主郭の堀
主郭の堀




勝保沢城 南の堀
主郭の南側、竹林側の堀




勝保沢城遠景
勝保沢城遠景



[群馬県渋川市赤城町勝保沢110−9]

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不動山城(見立城) 群馬県渋川市

不動山城





台地の西端に東西約50メートル、幅約30メートルの本丸を設け、東に二の丸、三の丸と続けた東西約250メートル、幅約100メートルの並郭式崖端城で、今も腰郭・空壕などまでよく残っています。
築城年代は、古文書や城の構造から永禄元年から永禄12年(1558から1569)頃と推測されます。
天正8年(1580)真田氏の大侵攻の時、先陣の海野中務大輔が700騎を率いて攻めますが、攻めあぐんでいると大将真田昌幸から不甲斐ないと叱られ、全騎下馬して突撃しようやく陥した、と「加沢記」に記されるほど難攻不落の城でした。






不動山城改@ヤマシロ
㊟イメ-ジ図になります(現地説明板を参考にしました)




大手側の堀
大手側の堀




不動山城説明板
不動山城説明板




郭3と郭4間の堀
郭3と郭4間の堀




不動山城主郭
不動山城主郭




不動山城遠景
不動山城遠景 南側から

猫寄居 群馬県渋川市

現状では明確な城郭遺構はなくなってしまっているが、街道に面しているうえに天然の切岸や川に囲まれたまとまった空間となっており、城館を置くのにはふさわしい位置である。


猫寄居 遠景
猫寄居 遠景




猫寄居 2
現在は農地と宅地となっている




猫寄居 1






猫寄居 旧欄干
寄居橋の旧欄干




[群馬県渋川市赤城町敷島397]

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津久田城 群馬県渋川市

完成 津久田城@樋口山城守与六

㊟イメ-ジ図になります。





北は沼尾川、西は利根川に臨む急崖(きゅうがい)上にあり、東西約300メートル、南北約130メートルの並郭式(へいかくしき)の崖端城(がけばたじょう)で、北西隅に本丸、その南に二の丸、東に三の丸、外郭(そとぐるわ)と続く縄張りの要害でした。
築城年代は不明ですが、古文書や城郭図から永禄元年から永禄11年(1558から1568)頃と考えられます。
赤城地区の狩野氏は伊豆狩野氏の末流といわれ、戦国時代末期には狩野大学助が一族や付近の地侍を統合し、津久田衆と呼ばれる軍団を組織し、この城を居城としていたようです。
天正6年(1578)以降、北条・真田両氏の接点となった長井坂城の後詰(ごづめ)の城として、津久田城はしばしば戦火にさらされます。その意味で歴史的に重要な城だったと言えます。
昭和42年に農業構造改善事業のために削平され、主要部分は跡形もありませんが、又現在説明板の有った場所に家が建ち説明板も消滅し腰郭と土塁が僅かに在るとされるが行く事が困難となり確認ができません。






津久田城 遠景
赤城北中学校からの展望




津久田城 2
北西隅に有った説明板は有りません又遺構も確認できません




[群馬県渋川市赤城町津久田290−11]

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猫城 群馬県渋川市

猫城





完成 猫城@ヤマシロ

㊟イメ-ジ図になります





赤城町敷島、赤城郵便局の南東600mほどの山が猫城である。
南は諏訪沢、北は持久保の深い谷に挟まれた丘陵で、東西約100m、南北10数mの小さい城である。「加沢記」によれば、城主の牧和守は北条方で、上杉方の真田軍と大いに奮戦している。
現地標柱より

猫の由来は根古、根小屋。山城の麓に建てた小屋。
中世山城脚下の武士居住地根小屋に由来する。敷島駅前の民家敷地から縄文時代の住居跡が、字久々土からは鉄道敷設工事の際に須恵器が発見されている。字城山には利根川対岸の白井城の支城猫城があった。また東廻十騎と称される白井長尾氏家臣団の豪族が居住したことが「加沢記」などに記されている







猫城 西郭
猫城 東郭




猫城 標柱
猫城 主郭の標柱




主郭 西の堀切
主郭 東の堀切




主郭 東の堀切
主郭 西の堀切




[群馬県渋川市赤城町敷島643]

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棚下の砦(棚下南雲御殿砦) 群馬県渋川市

棚下の砦(棚下南雲御殿砦)






改 棚下の砦
㊟イメ-ジ図になります。



「奈良原文書」によると、築城年代は永禄年間(1558~1570)で、上杉輝虎(謙信)によって築かれたといわれます。長井坂城と津久田城との間にあり、交通の要衝をおさえるための、長井坂城の砦であったようです。
 利根川右岸の台地の西端に築かれ、棚下不動の上に位置します。東西160m、南北65mの間に収まる小規模ながら、本郭、二の郭、三日月堀などの遺構が良く残っています。




棚下の砦 郭2
棚下の砦 郭2




棚下御殿砦 三日月堀
三日月堀(半円形の堀)




棚下 笹郭からの展望
笹郭からの展望




棚下の御殿砦 標柱
棚下の御殿砦 標柱






[群馬県渋川市赤城町長井小川田2165]

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群馬県富岡市城館 ダイジェスト

群馬県富岡市城館 ダイジェスト




*群馬県富岡市城館、内匠城、大山城、宇田城のダイジェスト版になります(-ω-)/






完成 内匠城@ヤマシロ





大山城@ヤマシロ





完成 宇田城@ヤマシロ
㊟イメ-ジ図になります(-ω-)/