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星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Photo Movie で見る 城館をどうぞ( `ー´)ノ

古城巡り 写真館

PhotoMovieにて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・
城エクスポ2019

忍城 2019.3.31

忍城 20190325  

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丸山古墳 2019.3.31

20190331丸墓山古墳 ・・・・・・・ちょい早かった、丸墓山古墳の桜

丸墓山古墳の桜 2019

・・・・・・・・・少し早かった、丸墓山古墳の桜・・・・・・・
丸墓山古墳の桜 





直径105メートル、高さ18.9メートル。
遺骸を納めた石室など埋葬施設の主体部は未調査だが、墳丘表面を覆っていた葺石や、円筒埴輪、人物埴輪などの埴輪類やが出土しており、これらの出土遺物の型式から築造年代は6世紀の前半と考えられている。
1985年(昭和60年)から1987年(昭和62年)にかけて墳頂部と墳丘東側を中心に整備が行われた。また、周濠の一部が復元されている。
1590年(天正18年)、小田原征伐に際して、忍城攻略の命を受けた石田三成が丸墓山古墳の頂上に陣を張った。三成は忍城を水攻めするため、丸墓山を含む半円形の石田堤を28kmほど築いた。丸墓山から南にまっすぐ伸びている道路は、この堤の名残である。
『新編武蔵風土記稿』に麿墓山(まろはかやま)として記載があるほか、様々な書物に多くの伝説を残している。






丸墓山古墳 遠景





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丸墓山古墳の西側の桜





改_DSC0970





[埼玉県行田市埼玉5203]

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喜多院・仙波東照宮・中院・・・・桜? 埼玉県川越市

喜多院・仙波東照宮・中院






改DSC0888慈覚大師が830年(天長7)に創建した天台宗の名刹で、正式には星野山無量寿寺喜多院という。
江戸時代初期、名僧天海大僧正が住職をつとめた寺として、また江戸城から移築された三代将軍徳川家光・春日局ゆかりの建物をはじめとする、多くの文化財を所蔵している喜多院の名は川越をというより、埼玉県を代表する寺院として全国的にも有名である。
徳川家康の信任を得ていた天海僧正が第27世住職になると、幕府からの厚い庇護を受け、江戸城から豪華な壁画や墨絵で装飾された「客殿」と呼ばれる家光誕生の間や、3代将軍家光の乳母として知られる春日局が使用していた「書院」と呼ばれる春日局化粧の間などが移築された。江戸城ゆかりの建造物に加え、山門・鐘楼門・慈眼堂などが重要文化財に指定されており、また隣接して、駿府で没した徳川家康公の遺骸を日光山へ運ぶ途中で法要が行われたことから建設された日本三大東照宮の一つである仙波東照宮もあり、江戸時代の香りを色濃く残す徳川家とゆかりの深い寺である。 また、日本三大羅漢の一つに数えられるこちらの五百羅漢は、人間の喜怒哀楽をよくとらえた様々な表情の石仏群でおよそ540体が境内に並び、観光客の人気を集めている。






改_DSC0904川越は日本三大東照宮の一つで、仙波東照宮といい、喜多院の南側に隣接している。
元和2年(1616)駿府で徳川家康公が没し、その遺骸を静岡から日光山へ移葬する途中、天海僧正によって喜多院で四日間の法要が営まれたことから、寛永10年(1633)建立された。
それから5年後の寛永15年(1638)、「寛永の大火」と呼ばれる大火事でよって、喜多院山門を残し、焼け落ちたが、徳川家光より喜多院復興の命令がが下ると、まず東照宮の再建が行われ寛永17年(1640)に完成した。
漆塗りの極彩色の飾りが鮮やかな本殿・唐門・瑞垣・拝殿・幣殿・随身門(写真左上)・石鳥居と全てが重要文化財に指定されており、社殿の柱には東照宮の名に相応しく立派な彫刻が施されている。本殿内部には家康公の像が祀られ、所蔵の文化財としては拝殿内欄間に徳川家光が奉納した岩佐又兵衛勝以筆「三十六歌仙絵額」、弊殿には県指定文化財である岩槻城主阿部対馬守重次が奉納した12面の鷹絵額がある。
立派な三つ葉葵の御紋(写真右下)がかけられた拝殿前の入口扉や、歴代の江戸幕府の重臣であった川越城主の銘が刻まれた石灯籠が歴史の重みを感じさせてくれる。






改_DSC0918喜多院の直ぐ南方にあり、正式には天台宗別格本山中院といい、閑静な佇まいが趣のある寺院。
古くは星野山無量寿寺仏地院と呼ばれ、鎌倉時代の終わり頃、無量寿寺から分かれたとされる天台宗の寺で、喜多院に天海僧正が来往するまではこの地の中心的な寺院であったといわれている。
中院は島崎藤村ゆかりの寺院として知られており、境内には川越市の文化財に指定された島崎藤村ゆかりの茶室・不染亭があり、現在は茶道を楽しむ人々に利用され、保存伝承されている。
また、境内には藤村の義母加藤みきの墓があり、藤村も度々足を運び墓石の「蓮月不染之墓」という戒名は、藤村が自ら筆をとり記したものだといわれる。 また桜の名所としても名高く、本堂前の枝垂桜は特に有名である。緑豊かな境内は春だけでなく、夏・秋・冬とそれぞれに色を変え、四季折々の表情で人々を楽しませてくれる。さらに、ここ中院は川越茶・狭山茶の発祥の地としても有名。開山の際、円仁が京より茶の実を携え、境内に薬用として栽培したのが始まりで、30年ほど前までは境内にも茶畑があったという。境内にはその旨を記した石碑が建てられている。





[埼玉県川越市小仙波町1丁目20−1]

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前玉神社 埼玉県行田市

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前玉神社の鳥居



前玉神社





_DSC0990改槙(まき)   行田市指定文化財 1964年1月指定 
入り口に植えられている大木は「イヌマキ」と称される常緑の高木の雄木。
御嶽山進行の奉納植樹のご神木。推定樹齢600年、樹高20m、目通り幹周4m、根回り5.5m現存する槙としては埼玉県内最大の木です





前玉神社は「延喜式」(927年)に載る古社で、幸魂(さいわいのみたま)神社ともいいます。700年代の古代において当神社よりつけられた【前玉郡】は後に【埼玉郡】へと漢字が変化し、現在の埼玉県へとつながります。前玉神社は、埼玉県名の発祥となった神社であると言われています。
武蔵国前玉郡(むさしのくにさきたまのこおり)は、726年(神亀3年)正倉院文書戸籍帳に見える地名だと言われており、1978(昭和53)年に解読された稲荷山古墳出土の鉄剣の銘文から、471年には大和朝廷の支配する東国領域が、北武蔵国に及んでいたのは確実であると言われています。
北武蔵国の地元豪族が眠ると思われるさきたま古墳群の真上に建てられています。





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_DSC1014改前玉神社本社に登る階段をはさむように、元禄10年(1697年)10月15日、当神社の氏子たちが所願成就を記念して奉納した2つの燈籠があります。高さは180センチメートル。
この地を詠んだ万葉集の歌、「小崎沼」と「埼玉の津」が刻まれています。






_DSC1019改前玉神社の御祭神は、『古事記』所載の出雲系の神である、前玉比売神(サキタマヒメノミコト)と前玉彦命(サキタマヒコノミコト)の二柱です。天之甕主神(アマノミカヌシノカミ)の子で、甕主日子神(ミカヌシヒコノカミ)の母です。
女神と男神が一緒に祀られていることから、恋愛成就や夫婦円満を祈願する参拝者の方が多く見られます。最近では縁結びの神様として参拝に来られる方も増えてきてます。





_DSC0998改前玉神社の桜





[埼玉県行田市埼玉5450]

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忍城 櫻はまだ・・・・・ 2019.3.25

・・・・・・忍城の桜は、まだでしたが暖かく良い天気、週末には咲くかな?
そうそう、先日のTV「お城総選挙2019」では忍城が27位!!基本天守が有り(復元・模擬も含む)一般的な知名度が有るですかね?・・・・途中で爆睡でした(゚Д゚≡゚д゚)エッ!?

武蔵武士の中から、現在の熊谷市上之を本拠地とする成田氏が台頭し、忍城を築城しました。
文明11年(1479)の古河公方足利成氏(あしかがしげうじ)の書状に「忍城」、「成田」とでてくることから、このころには築城されていたと考えられます。
当時の城主は成田顕泰(なりたあきやす)といい、以後親泰、長泰、氏長と四代にわたり、天正18年(1590)まで、約百年のあいだ成田氏が忍城主でした。
永正6年(1509)、忍城を訪れた連歌師の宗長は、城の四方は沼にかこまれていて、霜で枯れた葦が幾重にもかさなり、水鳥が多く見え、まことに水郷である、と日記に書いています。
忍城の築かれた場所は、北は利根川、南は荒川にはさまれた扇状地で、小さな川が乱流するとともに、伏流水が寄り集まって広大な沼地となっていました。そこに残る島や自然堤防をたくみに利用して、忍城が築かれました。






忍城 三階櫓

忍城 三階櫓 模擬(本来在った場所とは違います)




忍城 三階櫓 模擬





忍城 三階櫓3





忍城 大手門




2





忍城 城址碑
忍城 城址碑




忍城 説明板
忍城 説明板


天正18年(1590)年3月、豊臣秀吉は関東平定のため、そのころ関東を支配していた北条氏の拠点である小田原へ出陣しました。忍城主の成田氏は北条氏に属していたため、秀吉方の武将、石田三成によって攻められることになりました。
6月5日、三成は地形や季節を考えて水攻めを計画し、約1週間で延長28キロにもおよぶ堤を築き、利根川と荒川の水を引き入れるという大作戦をおこないました。
しかし、城が沈まなかったため、これを見た人々は城が沈まないのは浮くからだと考え、忍城は「浮き城」として、その名を轟かせました。現実には、忍城の地形がまわりよりも少し高かったため、沈まなかったと考えられます。
その後堤は切れてしまい、水攻めは失敗に終わりました。忍城の戦いは小田原城が7月6日に開城した後も続きましたが、最終的には開城して7月14日に豊臣軍に引き渡されました。





忍城の鐘 1
忍城の鐘




忍城の鐘 2





忍城の白壁





本丸土塁 1





本丸土塁 2





本丸土塁 説明板




天正18年(1590)徳川家康が関東に入ると、家康の四男松平忠吉が十万石で忍城に入城します。
以後江戸時代をつうじて、忍城には徳川の譜代や親藩の大名が城主として入りました。
寛永16年(1639)に幕府の老中であった阿部忠秋が五万石で城主となると、忍城と城下町の整備がはじめられました。
元禄7年(1694)、孫の阿部正武のときに十万石となり、元禄15年(1702)には御三階櫓が完成し、名実ともに忍藩十万石の城としてのかたちが整いました。
文政6年(1823)に阿部氏が福島県の白河へ移ると、忍城には三重県の桑名から松平忠堯(奥平松平氏)が入り、以後明治維新まで松平氏が城主でした。
現在の御三階櫓は昭和63年(1988)に再建されたものですが、江戸時代の忍城ゆかりの遺品として、時鐘があります。この鐘は、享保2年(1717)伊勢桑名藩主松平忠雅によって鋳造され、文政6年(1823)に松平氏が桑名から忍へ移封されるのにともなって、忍城へ移されたものです。もともとはお城の二ノ丸にあって、時の鐘として時刻を知らせていました。





蓋神





進修館 表門1
伝進修館 表門




進修館 表門説明板





進修館 表門2




忍城 本丸跡
忍城 本丸跡




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忍城の石垣の石






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関山満願寺 福島県白河市

不動明王の水て
不動明王と金名水・・・ここまでくれば、満願寺はもうチョイです!!


関山満願寺 山門跡
関山満願寺 山門跡




白河市の南東にある標高619mの関山山頂に満願寺があります。天平2年(730年・奈良時代)聖武天皇より勅願を賜った高僧・行基によって開山されました。本尊として、天皇の持仏である聖観音像が納められていたと伝わっています。幾度も起こる山火事のたびに再建が繰り返されており、現在は「聖武天皇御願所」と書かれた額と銅鐘が残るのみです。この銅鐘は、寛文4年(1664・江戸時代)白河城三代目城主・本多忠平公が寄進したもので、国指定の重要美術品になっています。那須や阿武隈の山並みが一望でき、古くは源義経、松尾芭蕉などが詣でたそうです。




下馬碑
下馬碑




古木と石像
古木と石像





関山満願寺の鐘
関山満願寺の胴鐘




満願寺参道
満願寺参道




神馬堂跡
神馬堂跡




関山 満願寺本堂2
関山満願寺 本堂




関山満願寺 本堂
関山満願寺 本堂




松平定信歌碑
松平定信公歌碑





関山山頂からの展望
関山山頂からの展望(本堂裏手)



[福島県白河市関辺関山1]

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㊟山頂近く迄、林道は有りますが麓の二枚橋登山口の登山用駐車場に車を止めて歩くのが良いでしょう(約40分)

福島県白河市城館 ダイジェスト

白川城 白河関/関ノ森城 関山城





完成 白川城 御本城山@ヤマシロ





完成 関ノ森城@ヤマシロ






完成 関山城@ヤマシロ
 ㊟イメ-ジ図になります(-ω-)/

白河関/関ノ森城 福島県白河市

白河関/関ノ森城




完成 関ノ森城@ヤマシロ㊟イメ-ジ図になります(-ω-)/





設置時期は明らかでない。『類聚三代格』承和2年(835年)太政官符では、白河・菊多(勿来)の関を設置して以来400余年と見え、承和2年当時には5世紀前半の設置と認識されていた。
六国史における白河の初出は718年(養老2年)5月2日 (旧暦)に陸奥国から「白河」など5郡を分割して石背国を設置するという記事で、その後728年(神亀5年)4月11日 (旧暦)には白河軍団の新設を許可、そして神護景雲3年(769年)3月13日には陸奥国大国造道嶋宿祢嶋足の申請によって何らかの功績を果たしたらしい者への賜姓付与が行われ、白河郡では丈部某と大伴部某がそれぞれ阿部陸奥臣および阿部会津臣を授かっている。また宝亀11年(780年)12月22日には陸奥鎮守府副将軍の百済王俊哲が賊に囲まれ危機に瀕したが「白河」の神など11神に祈ったところこれを突破できたとして弊社に加えることを許可している。承和2年(835年)12月3日の太政官符(『類聚三代格』)では、俘囚の出入りや不正商品の通過の検問を長門国関(赤間関)と同様に取り締まることが許されている。
こうしたことから、ヤマトの軍事的要衝としての白河関の機能は平安中期には解消したものと考えられている。源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼす奥州合戦の際に、頼朝が白河に達した時に、梶原景季に歌を詠むよう命じると、「秋風に草木の露をば払わせて、君が越ゆれば関守も無し」と詠んだ。 関の廃止の後、その遺構は長く失われて、その具体的な位置も分からなくなっていた。1800年(寛政12年)、白河藩主松平定信は文献による考証を行い、その結果、白河神社の建つ場所をもって、白河の関跡であると論じた。
1960年代の発掘調査の結果、土塁や空堀を設け、それに柵木(さくぼく)をめぐらせた古代の防禦施設を検出、1966年(昭和41年)9月12日に「白河関跡」(しらかわのせきあと)として国の史跡に指定された。
なお、白河関にちなみ東北地方および北海道をまとめて「白河以北」と称する場合がある。宮城県の地方紙「河北新報」の名は、これに由来する。

この南側の遺構が全て白河関の遺構とは思えない・・・「関ヶ原の戦い」の際に上杉家の改修がなされて当然と思える!!





白河関跡





土橋から虎口へ土橋から虎口へ





北側の空堀北側の空堀





東側の張り出し東側の張り出し





張り出しから見た郭内張り出しから見た郭





[福島県白河市旗宿関ノ森84]

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白川城改 福島県白河市






完成 白川城 御本城山@ヤマシロ
㊟現地説明板を参考にしました♪(o・ω・)ノ))
白川城は、東北本線白河駅より東へ約3Kmの藤沢山にあり、通称「搦目(からめ)城」ともいわれている。阿武隈川と社川の支流である藤野川に挟まれた、標高約400m級の丘陵地を利用し築かれた、中世の山城である。史跡の面積366,597.43平方メートル。
文治5年(1189)源頼朝の奥州征伐に参加し,功名をたてた結城朝光は、その恩賞として白河庄の地頭職(じとうしき)を与えられた。その後、朝光の孫の祐広(すけひろ)が正応2年(1289)頃、下総結城より移住して、この白川城を本拠としたと伝えられている。
祐広の嫡子の宗広は、後醍醐天皇の命により新田義貞らと共に鎌倉幕府を倒し、建武の中興(1334)を実現させた。その後、南北朝時代には義良親王(のりながしんのう)・(後村上天皇)を奉じて、北畠顕家と共に、北朝方の足利尊氏と戦った奥州南朝派の中心人物である。
白川城の存在した時期については、明らかではないが、南北朝時代の文書にその名が見られることや、「山城」という城の形態から、築城年代は南北朝時代と考えられる。また、永正年間(1504~1520)には、白川結城氏の本城は小峰城に移ったものと推定される。
現在、白川城は御本城山と呼ばれる主郭、その北側藤沢山には二之郭、主郭の東側には鐘撞堂とされる平場がある。これらの郭の周囲には、幾段かの帯曲輪が構築されている。また、郭と郭の間には土塁や空堀などの遺構が確認されている。
なお、近年の踏査により指定区域の南西部の丘陵にも遺構の存在が明らかとなり、城域がさらに拡大するものと考えられる。






白川城 本丸入り口





本丸手前 堀切主郭手前の堀切





白川城 本丸白川城 主郭





藤沢山北部の巨大な土塁藤沢山北部の土塁





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結城宗廣公供養塔





[福島県白河市藤沢山7−6]

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