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ようこそ!!古城巡り写真館へ(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Photoで見る 城館をどうぞ!!

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古城巡り写真館へ、ようこそ!!
北関東を中心に、城館をPhotoMovieにて紹介します
近年(又は現在)の城館を紹介して行きます。

古城巡り 写真館

大蔵館 埼玉県嵐山町

大蔵館仁平3年(1153)に木曽義仲の父・源義賢が秩父重隆の娘をめとり、移り住んだ館跡とされます。義賢は、源氏の棟梁、源為義の次男として生まれ、近衛天皇が皇太子のときに東宮警護の長官である帯刀先生を務めました。しかし、部下の不始末によって職を追われ、北陸から上野(群馬県)とまわり武蔵(埼玉県)へと来ました。当時武蔵国内で大きな力を持っていた秩父氏と義賢が結んだことによって、関東で義賢の力が増大すること...

木曽義仲誕生地を巡 

木曽義仲誕生地を巡班渓寺山門前に有る、石碑 1183(寿永2)年源氏の進攻によって都落ちしていきます。その時の源氏の中心的な武将が木曽義仲でした。義仲は、現在の嵐山町で生まれたと言われ、義仲に関係する伝承や伝承地が町内に多く残されています。平安時代の末期、源義賢が秩父重隆の養君となって上野国(群馬県)多胡から移り住んだと伝えられています。...

岩室観音堂 埼玉県吉見町

弘法大師が岩窟を選んで高さ一尺一寸(36.4㎝)の観音像を彫刻してこの岩窟に納め、その名前を岩室山と号したと伝えられる。松山城主が代々信仰し護持していたと伝えられており、天正18年(1590年)豊臣秀吉が関東に出陣した際に松山城の落城に伴い建物の全てが焼失したといわれている。 現在のお堂は江戸時代の寛文年間(1661~1673年)に龍性院第三世堯音が近郷の信者の助力を得て再建したものと伝えられている。お堂の造りは懸...

今日のル-シ-さん!!

(。>ω<。)ノ大人しくソファ-にいるうちに!!...

松山城 比企城館跡群・国史跡指定

松山城㊟現地説明板を参考にしたイメ-ジ図です♪(/・ω・)/ ♪*比企城館跡群・国史跡指定の際に郭の名称が変更されていると思います。本格的な築城は応永6年(1399)と見られる。築城者は大河原安戸城主の上田友直。「松山城風流歌合戦」ののち,武蔵における後北条氏の拠点となり,永禄年間に上杉謙信に攻略され,これを氏康が奪還,さらに小田原合戦で落城,慶長6年(1601)に廃城となった。中世以来の古城にしては城址はよく保存...

小倉城 比企城館跡群・国史跡指定

小倉城城主は、後北条氏の重臣であった遠山光影とする説と松山城主上田氏とする説がある。主郭の発掘調査では染付、天目片等が出土、基づく城跡の年代推定は16世紀である。小倉城 主郭 城址碑外秩父の山地と関東平野の境界、槻川が大きく北に屈曲する場所に張り出した丘陵の上に築城されている。主尾根上に本丸に相当する郭1と二の丸に相当する郭2を並べている。さらに出郭として、郭3を南東側、郭4を南西側に配置する。南東...

伝木曽殿館 埼玉県嵐山町

班渓寺後方の竹林が館跡大蔵館南西1.5kmほどのところに位置する、駒王丸の生まれた場所と伝えられる「班渓寺」裏が駒王丸が住んだとされる館跡。館跡には大きな看板があります(現在は数年前に撤去されています)。鎌形八幡神社には「義仲産湯の清水」が有ります。伝木曽殿館跡(以前の古い写真です)[埼玉県比企郡嵐山町鎌形1907−2]大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )...

源義賢 供養塔 埼玉県嵐山町

源義賢は木曽義仲の父で、12世紀中ごろに上野国(こうずけのくに)・武蔵国に勢力を張っていました。義賢は上野国多胡(たご)を本拠地としていましたが、秩父(河越)重隆の養君となり、武蔵国大蔵に迎えられたと伝えています。そして、1155(久寿2)年8月、大蔵館の戦いにおいて、兄義朝の子、悪源太義平に討たれます。 大蔵館跡に近い新藤正則氏宅の庭先には、源義賢の墓と伝えられる五輪塔があり、地元の方々が大切にまつっていま...

大蔵館 埼玉県嵐山町

館の東側を通る、鎌倉街道仁平3年(1153)に木曽義仲の父・源義賢が秩父重隆の娘をめとり、移り住んだ館跡とされます。義賢は、源氏の棟梁、源為義の次男として生まれ、近衛天皇が皇太子のときに東宮警護の長官である帯刀先生を務めました。しかし、部下の不始末によって職を追われ、北陸から上野(群馬県)とまわり武蔵(埼玉県)へと来ました。当時武蔵国内で大きな力を持っていた秩父氏と義賢が結んだことによって、関東で義賢...

班渓寺 埼玉県嵐山町

班渓寺は、平安時代の終わり頃にあった源平の合戦で、源氏の大将の一人として活躍した武将、木曽義仲の妻であった山吹姫によって創建されたと伝わります。 山吹は「平家物語」にもその名が記されており、巴と共に義仲軍に従軍していたが、体を壊して京都に残ったという記事があります。義仲の息子、義高の母親ともされ、非業の死を遂げた義仲・義高の菩提を弔うために寺を創建したとも言われています。 寺には山吹のものとされる...