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星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Photo Movie で見る 城館をどうぞ( `ー´)ノ

古城巡り 写真館

PhotoMovieにて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・
城エクスポ2019

大蔵館 埼玉県嵐山町

大蔵館




仁平3年(1153)に木曽義仲の父・源義賢が秩父重隆の娘をめとり、移り住んだ館跡とされます。義賢は、源氏の棟梁、源為義の次男として生まれ、近衛天皇が皇太子のときに東宮警護の長官である帯刀先生を務めました。しかし、部下の不始末によって職を追われ、北陸から上野(群馬県)とまわり武蔵(埼玉県)へと来ました。当時武蔵国内で大きな力を持っていた秩父氏と義賢が結んだことによって、関東で義賢の力が増大することを恐れた兄義朝は、自分の息子、義平に館を攻め込ませて義賢を討つという大蔵合戦がありました。このとき駒王丸(後の木曽義仲)は木曽の地へと逃れています。





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館の東側を、通る鎌倉街道






改完成 大蔵館@ヤマシロ
㊟現地説明板を参考にしたイメ-ジ図です♪(/・ω・)/ ♪





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南東隅の土塁と堀跡





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大蔵神社 南西側に土塁と堀が残る





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高見櫓跡




東西220m、南北170mの範囲が館跡となっています。周囲を堀と土塁で覆われていますが、このような現在の姿は戦国時代のもので、義賢がいた時代のものではないことが発掘調査によってわかっています。近年の発掘調査では、堀で囲われた一辺70mほどの小館がみつかり、中からは建物や柵が検出されるなど、現在の姿になる前の状況がわかってきました






[埼玉県比企郡嵐山町大蔵528−1]

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木曽義仲誕生地を巡 

木曽義仲誕生地を巡





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班渓寺山門前に有る、石碑



完成 木曽義仲誕生地@ヤマシロ





 1183(寿永2)年源氏の進攻によって都落ちしていきます。その時の源氏の中心的な武将が木曽義仲でした。義仲は、現在の嵐山町で生まれたと言われ、義仲に関係する伝承や伝承地が町内に多く残されています。平安時代の末期、源義賢が秩父重隆の養君となって上野国(群馬県)多胡から移り住んだと伝えられています。

岩室観音堂 埼玉県吉見町

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弘法大師が岩窟を選んで高さ一尺一寸(36.4㎝)の観音像を彫刻してこの岩窟に納め、その名前を岩室山と号したと伝えられる。松山城主が代々信仰し護持していたと伝えられており、天正18年(1590年)豊臣秀吉が関東に出陣した際に松山城の落城に伴い建物の全てが焼失したといわれている。
 現在のお堂は江戸時代の寛文年間(1661~1673年)に龍性院第三世堯音が近郷の信者の助力を得て再建したものと伝えられている。お堂の造りは懸造り様式で、江戸時代のものとしてはめずらしいものである





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岩室観音は「比企西国三十三所観音札所」の第三番であるが、札所めぐりとしては「西国三十三所」「坂東三十三所」「秩父三十四所」が有名で、「比企西国三十三所」は、それほど知られてはいない。比企西国三十三所は、遠隔地を巡礼できない人々のために享保8年(1723年)に開設されたと言われており、江戸時代にはこうした地域ごとに完結する札所めぐりが数多く創設されたようである。






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ここには88体の石仏が収まっているが、これは四国八十八箇所の霊地に建てられた本尊を模したものである。この弘法大師が修行した四国八十八箇所を巡拝することを「遍路」と呼び、観音霊場を巡る「札所めぐり」とは区別される。






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「胎内くぐりと松山城の竪堀」



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「ハートに見える?胎内くぐり」



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岩室観音堂前を流れる市野川の夕刻





[埼玉県比企郡吉見町北吉見309]


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今日のル-シ-さん!!

(。>ω<。)ノ大人しくソファ-にいるうちに!!
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松山城 比企城館跡群・国史跡指定

松山城





完成 松山城@ヤマシロ
㊟現地説明板を参考にしたイメ-ジ図です♪(/・ω・)/ ♪
*比企城館跡群・国史跡指定の際に郭の名称が変更されていると思います。




本格的な築城は応永6年(1399)と見られる。築城者は大河原安戸城主の上田友直。「松山城風流歌合戦」ののち,武蔵における後北条氏の拠点となり,永禄年間に上杉謙信に攻略され,これを氏康が奪還,さらに小田原合戦で落城,慶長6年(1601)に廃城となった。中世以来の古城にしては城址はよく保存されている。現在丘の頂上に城跡の碑が立ち,土塁・空堀などが残る。平成20年3月に比企城館跡群の一つとして国指定史跡となった。




[埼玉県比企郡吉見町北吉見309]

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小倉城 比企城館跡群・国史跡指定

小倉城





城主は、後北条氏の重臣であった遠山光影とする説と松山城主上田氏とする説がある。
主郭の発掘調査では染付、天目片等が出土、基づく城跡の年代推定は16世紀である。



小倉城 城址碑
小倉城 主郭 城址碑



外秩父の山地と関東平野の境界、槻川が大きく北に屈曲する場所に張り出した丘陵の上に築城されている。
主尾根上に本丸に相当する郭1と二の丸に相当する郭2を並べている。さらに出郭として、郭3を南東側、郭4を南西側に配置する。南東側麓にある大福寺平場付近が居館と目され、空堀跡が残る。
山全体が岩山であったことから、築城時に発生した大量の石材を利用した石塁が随所に築かれている。特に郭3の外周部では高さ5メートル、延長100メートル以上の規模である。





小倉城 南面石積
郭3南面の石積






小倉城 三ノ郭東面
郭3東面の石積




2008年(平成20年)3月28日、すでに国の史跡に指定されていた菅谷館跡(嵐山町)に、松山城跡(吉見町)、杉山城跡(嵐山町)とともに追加指定され、「比企城館跡群」の名称で一括して国の史跡に指定された。




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大堀切からの竪堀へ



改改完成 小倉城@ヤマシロ
㊟イメ-ジ図になります(-ω-)/(主要郭のみとなります)



[埼玉県比企郡ときがわ町田黒608]

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伝木曽殿館 埼玉県嵐山町

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班渓寺後方の竹林が館跡


大蔵館南西1.5kmほどのところに位置する、駒王丸の生まれた場所と伝えられる「班渓寺」裏が駒王丸が住んだとされる館跡。館跡には大きな看板があります(現在は数年前に撤去されています)。鎌形八幡神社には「義仲産湯の清水」が有ります。





改伝木曽殿館
伝木曽殿館跡(以前の古い写真です)





[埼玉県比企郡嵐山町鎌形1907−2]


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源義賢 供養塔 埼玉県嵐山町

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源義賢は木曽義仲の父で、12世紀中ごろに上野国(こうずけのくに)・武蔵国に勢力を張っていました。義賢は上野国多胡(たご)を本拠地としていましたが、秩父(河越)重隆の養君となり、武蔵国大蔵に迎えられたと伝えています。そして、1155(久寿2)年8月、大蔵館の戦いにおいて、兄義朝の子、悪源太義平に討たれます。
 大蔵館跡に近い新藤正則氏宅の庭先には、源義賢の墓と伝えられる五輪塔があり、地元の方々が大切にまつっています。この石塔の造られた時期は不明ですが、安定感のある形態の特徴から少なくとも鎌倉時代までは溯るとされ、埼玉県でも最も古式な五輪塔です。




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大蔵館 埼玉県嵐山町

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館の東側を通る、鎌倉街道




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仁平3年(1153)に木曽義仲の父・源義賢が秩父重隆の娘をめとり、移り住んだ館跡とされます。義賢は、源氏の棟梁、源為義の次男として生まれ、近衛天皇が皇太子のときに東宮警護の長官である帯刀先生を務めました。しかし、部下の不始末によって職を追われ、北陸から上野(群馬県)とまわり武蔵(埼玉県)へと来ました。当時武蔵国内で大きな力を持っていた秩父氏と義賢が結んだことによって、関東で義賢の力が増大することを恐れた兄義朝は、自分の息子、義平に館を攻め込ませて義賢を討つという大蔵合戦がありました。このとき駒王丸(後の木曽義仲)は木曽の地へと逃れています。
 東西220m、南北170mの範囲が館跡となっています。周囲を堀と土塁で覆われていますが、このような現在の姿は戦国時代のもので、義賢がいた時代のものではないことが発掘調査によってわかっています。近年の発掘調査では、堀で囲われた一辺70mほどの小館がみつかり、中からは建物や柵が検出されるなど、現在の姿になる前の状況がわかってきました。





改完成 大蔵館@ヤマシロ
㊟イメ-ジ図になります(。>ω<。)ノ




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大蔵神社




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東側の現存土塁




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現在の館(民家と耕作地となる)





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班渓寺 埼玉県嵐山町

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班渓寺は、平安時代の終わり頃にあった源平の合戦で、源氏の大将の一人として活躍した武将、木曽義仲の妻であった山吹姫によって創建されたと伝わります。
 山吹は「平家物語」にもその名が記されており、巴と共に義仲軍に従軍していたが、体を壊して京都に残ったという記事があります。義仲の息子、義高の母親ともされ、非業の死を遂げた義仲・義高の菩提を弔うために寺を創建したとも言われています。
 寺には山吹のものとされる位牌や、墓とされる五輪塔があり、毎年3月には義仲等を弔う慰霊祭が行われています。






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山吹姫の供養塔





[埼玉県比企郡嵐山町鎌形1907−2]

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