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星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Photo Movie で見る 城館をどうぞ( `ー´)ノ

古城巡り 写真館

PhotoMovieにて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・
城エクスポ2019

松源寺 亀之丞ゆかりの里 長野県高森町

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松源寺(山号:雲竜山 臨済宗妙心寺派)本尊:釈迦牟尼仏
松源寺が創立されたのは、永正8年~10年頃(1511~1513)とされ、開基は松岡城主民甫正哲松岡貞正、開山は貞正の実弟、文叔瑞郁禅師である。(開山は僧籍が必要)
最初の寺は、牛牧村の寺山に建てられた。天正10年(1582)織田軍の兵火により堂塔が焼失した。現在地(松岡城跡5の曲輪内)に移転再建された年代は1600年代と考えられるが確かではない。松岡城廃絶後に、朝日受永の寄進等により再建された。
明治30年(1897)に焼失。現在の本堂は明治33年(1900)に再建されたものである。山門は、江戸時代中ごろ大風で倒壊したが、残った部材を使い、延享3年(1747)に再建された。(町指定文化財)
本堂には開山二百年忌の時に造られたと考えられる文叔瑞郁禅師木像や井伊直親御位牌も残っている。また、墓所には開基民甫正哲、開山文叔瑞郁禅師の墓塔が建てられている。

松源寺は今から約500年前の永正10年(1513)頃、この地を治める松岡家の菩提寺として建てられた禅寺です。
開山の文叔瑞郁禅師から黙宗瑞淵、南渓瑞聞へと続く法縁をきっかけに、亀之丞さんは9歳から約12年間松源寺と松岡氏に匿われる事となりました。
現在の松源寺は松岡城の跡地を守る位置に移転されています。




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松岡城 松源寺本堂





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[長野県下伊那郡高森町下市田4389]

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松岡城 長野県高森町

松岡城@ヤマシロ

鈴岡城 長野県飯田市

鈴岡城@ヤマシロ

南本城 長野県高森町

改1 南本城@ヤマシロ

松尾城 長野県飯田市

松尾城@ヤマシロ

長野県 飯田市・高森町城館

松岡城 南本城城 鈴岡城 松尾城

*松岡城 松岡古城 南本城 鈴岡城 松尾城のダイジェスト版になります(-ω-)/



松岡城@ヤマシロ
松岡城@高森町




改1 南本城@ヤマシロ
南本城@飯田市




鈴岡城@ヤマシロ
鈴岡城@飯田市




松尾城@ヤマシロ
松尾城@飯田市


㊟イメ-ジ図になります(=゚ω゚)ノ

鈴岡城 長野県飯田市

鈴岡城




鈴岡城@ヤマシロ
㊟イメ-ジ図になります(-ω-)/




室町時代中期、小笠原氏の流れをくむ鈴岡小笠原氏が居城としていた城である。北の毛賀沢川、南の伊賀良川にはさまれた標高約490mの河岸段丘上につくられた城で、複数の空堀に囲まれた本丸に二の丸と出丸のほか2つの外郭、西方の高地に遠見原要害を有する城郭である。その城域は東西300m、南北600mという大きな規模を持つ。信濃守護の小笠原氏は、14世紀、府中(現在の松本市)に拠点を置く府中小笠原氏(深志小笠原氏)、伊那郡(現在の飯田市)の松尾城を拠点にした松尾小笠原氏(伊那小笠原氏)、松尾小笠原氏から分家した小笠原宗政が興した鈴岡小笠原氏の3家に分かれ、小笠原一族の惣領職と信濃国守護の座をめぐって抗争を続けた。鈴岡城の築城は、宗政が松尾家から分家して鈴岡家を興したころといわれる。以来、鈴岡城は鈴岡小笠原氏の居城となった。松尾小笠原氏が拠点としていた松尾城は、鈴岡城とは毛賀沢川が流れる深さ約60mの谷をはさんだ北側にあった。15世紀後半には3家の対立は激しさを増し、このころの鈴岡小笠原氏は本家の松尾小笠原氏に代わって伊那郡南部を治めるほど勢力を拡大させていた。そして、1489年(長禄3)には、鈴岡城主で鈴岡小笠原氏当主の政秀は府中小笠原氏(小笠原長朝)を急襲して府中を制圧し守護の座についた。しかし、1493年(明応2)、松尾小笠原氏の小笠原定基(光康の孫)は、対立関係にあった政秀を松尾城に招いて殺害したのち、鈴岡城を攻撃し落城させた。いったん廃城となった鈴岡城はその後再興されている。1554年(天文23)、甲斐の武田晴信(武田信玄)が伊那郡に侵攻した際、松尾小笠原家の小笠原信嶺は武田氏に従った一方、鈴岡小笠原氏の小笠原信定は府中小笠原氏(守護家)の小笠原長時とともに武田氏と戦って敗れ、鈴岡城は落城。鈴岡小笠原氏は断絶した。この結果、鈴岡城は松尾小笠原氏の手に渡り、松尾城の支城となった。武田氏滅亡後、小笠原信嶺(松尾小笠原氏)は徳川家康に仕えたが、1590年(天正18)の家康の関東移封に伴って武蔵本庄に国替えとなり、鈴岡城は松尾城とともに廃城となった。現在、城跡のうち二の丸と出丸などは農耕地となっているが、かつての本丸を含む城域が、対岸の松尾城跡とともに松尾鈴岡公園として整備されている。保存状態は良好で、かつての城の原型をとどめており、中世の南信濃の平山城を知る上で貴重な手がかりとなっている。また、同公園には含まれていないが、かつての二の丸の大規模な空堀の遺構も現存している。なお、毛賀沢川にかかる不動ヶ橋を利用して対岸の松尾城跡に行くことができる




鈴岡城 説明板
鈴岡城 説明板




鈴岡城 外郭の堀
鈴岡城 外郭の堀




鈴岡城 出丸
鈴岡城 出丸




鈴岡城 本丸
鈴岡城 本丸

松尾城 長野県飯田市

松尾城




小笠原氏は鎌倉時代に阿波国守護であったが、小笠原貞宗の代に建武の親政により信濃国守護となった。貞宗は伊那郡伊賀良荘の地頭で松尾出身と伝わり、松尾城は国府である筑摩郡井川館と並んで小笠原氏の重要拠点であったという。

応永7年(1400年)の大塔合戦で失った信濃守護を取り戻し、小笠原氏を再興した小笠原政康が嘉吉2年(1442年)に死去すると、政康の兄の子小笠原持長が家督相続を主張して内乱を起こし、文安3年(1446年)に政康の子小笠原宗康を漆田原の戦いで討ち取って南下し、国府を奪い府中(深志)小笠原氏となった。しかし、宗康は戦死前に伊那郡伊賀良荘松尾城に居た弟の松尾小笠原氏小笠原光康を後継者に定めており、これに対向した。
また、府中から光康の元に逃れた小笠原政秀(宗康の子)も鈴岡小笠原氏を起こし小笠原氏は3家に分裂した。政秀は、寛正2年(1461年)の光康の死により小笠原家の惣領の家督を継承したと見られ、小笠原清宗(持長の子)から府中を奪い返して、文明5年(1473年)には幕府から信濃国守護に任ぜられた。しかし、小笠原家をまとめ上げることはできず、小笠原長朝(清宗の子)を養子に迎え、再び家督を譲っている。
松尾小笠原氏の小笠原家長(光康の子)は政秀と共闘していたが、文明12年(1480年)に政秀と合戦となり戦死した。家長の子小笠原定基は明応2年(1493年)に政秀を暗殺し、鈴岡小笠原氏は滅亡した。

天文3年(1534年)頃、松尾家の小笠原貞忠は府中家の小笠原長棟に敗れて甲斐国に逃れ、武田信玄に臣従したが、天文23年(1554年)武田氏の伊那侵攻で小笠原信貴・小笠原信嶺父子が信濃先方衆として活躍し、松尾城を回復した。
信嶺はその後、織田信長の甲州征伐の時には織田氏に降伏し、本能寺の変の後、徳川氏の家臣となった。徳川家康の関東移封の際、武蔵国本庄城に移り、松尾城は廃城となった。
現在、城跡は松尾鈴岡公園として整備されている。鈴岡小笠原氏の鈴岡城とは毛賀沢川を挟んで向かい側にある。




松尾城 ニノ郭





松尾城 本丸





松尾城 城址碑





松尾城 説明板





松尾城@ヤマシロ
㊟イメ-ジ図になります(-ω-)/

松岡城 長野県高森町

松岡城




松岡城@ヤマシロ
㊟イメ-ジ図です、現地説明板を参考にしました。



築城年代は定かではないが松岡氏によって築かれたと云われる。 松岡氏は平安時代の前九年の役で敗れた安倍貞任の次男仙千代が、乳母に連れられて市田郷の牛牧村へ逃れ、その後郷民に推されて地頭となり、松岡平六郎貞則と名乗り松岡古城に住んだのが始まりと云われる。
鎌倉時代の動向は定かではないが、「吾妻鏡」によって弓始の射手を勤めたことがわかっている。
応永7年(1400年)の大塔合戦では守護小笠原氏に従って松岡次郎が参陣し、永享12年(1440年)の結城合戦にも参陣している。
天文23年(1554年)甲斐武田信玄が伊那へ侵攻し、小笠原氏の鈴岡城や知久氏の神之峯城などが攻められて落城すると、松岡氏は武田氏に降った。天正10年(1582年)織田信長が信濃へ侵攻し、大島城や高遠城が落城し武田氏が滅亡すると、飯田城主となった織田氏の部将毛利秀頼に従った。しかし、同年信長が本能寺の変で倒れると、松岡氏は徳川方の高遠城を攻めた小笠原貞慶に味方し改易となった。





松岡城 松源寺背後の堀
松源寺背後の堀




松岡城 松源寺本堂
松源寺本堂 亀之丞ゆかりの寺




松岡城 郭4 北側の横堀
郭4 北側の横堀




松岡城 城址碑
松岡城 城址碑




松岡城 この東南尾根に畝堀が有るはずだが・・・
この東南尾根に畝堀が有るはずだが・・・見えません

南本城 長野県高森町

南本城




改1 南本城@ヤマシロ
㊟イメ-ジ図になります♪(/・ω・)/ ♪




南本城説明板
城址入り口の説明板(馬出側)



尾根状になった段丘の先端に築かれた高さ約90mの山城で、南北370m、東西340mの範囲に遺構が分布します。
主郭1は西側に大規模な土塁を盛り、周辺に小さな郭を何段も重ねています。主郭から延びる尾根は堀で断っており、特に台地とつながる北側の尾根には、複雑な遺構が残されています。
これだけ立派な山城であるにもかかわらず、古文書に記されておらず、城主来歴ははっきりとしていません。
北隣に巨大な松岡城を構えた松岡氏の城とする考えもありますが、「本城」と地名が残ることから、この地を本拠地とした座光寺氏に関連する城とみられます。
しかし、座光寺氏が単独でこれだけの山城を築いたとは考えられず、戦国大名クラスの大勢力が関与したとみられています。その勢力とは、当時の情勢からすると、武田氏、織田氏、徳川氏、北条氏、豊臣氏が考えられますが、今のところ特定できていません。
何重にも張り巡らされた防御構造に、戦国時代末期の緊張感が伝わってきます。




南本城 折れの有る堀②
屈折する堀




南本城 本丸
南本城 本丸




南本城 南郭
南本城 南郭




南本城 西郭南側の堀
西郭南側の堀