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ようこそ!!古城巡り写真館へ(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・城館及キャンプ・・・花手水も熱い!!Photをどうぞ!!

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古城巡り写真館へ、ようこそ!!
北関東を中心に、城館をPhotoMovieにて紹介します
近年(又は現在)の城館を紹介して行きます・・・・・そしてキャンプ覚醒へ!!

古城巡り 写真館

鎌倉史跡碑巡る

鎌倉史跡碑巡る ①鎌倉史跡碑巡る ②「中世の鎌倉」史蹟保存の運動は、古都鎌倉を深く愛する有志の結晶であります。88箇所の各々の石碑にはその情熱の高さが 伺えます 。今回の石碑巡りは未だ途中ですが、鎌倉と云う町には寺院などの限られた場所以外には遺構と思える物は・・・・・・・・・・・・・見る事が出来ませんが石碑の形で、この場所に中世の歴史が息ずいていた証と思えます。 住みやすい土地は、代々の祖先たちが日々...

比企能員邸跡

比企能員は、源頼朝の乳母であった比企禅尼の養子であり、禅尼と共にこの場所に住んでいました。この土地の名前が、比企ヶ谷というのもこのためです。 能員の娘は頼家の妻になり、 若狭局(わかさのつぼね)とよばれて、一幡という子供を生みました。1203年頼家が病で倒れると、母親でもあり、頼朝の妻でもある政子が頼家の権力を2分して、頼家の弟千幡に渡そうとしました。このことに能員が怒り、 ひそかに北条氏を滅ぼそうと計画し...

北条時房邸

若宮大路をはさんで反対側は、4代将軍の時から幕府が置かれた所で、この辺り一帯は、有力御家人の邸が並んでいたと言うことです。その一人、北条時房は、二代目執権北條義時の弟でいくつかの戦で活躍した豪傑だったようです政治家としても、執権の補佐の連署を務め、幕府公文書に執権と並んで認可の署名をしています。幕府ナンバー2という所でしょう余談ですが、この北条時房邸で二代将軍源頼家の娘で4代将軍夫人だった、美子(...

若宮大路幕府

鎌倉時代の1236年から1333年にかけて98年間、鎌倉幕府の将軍(鎌倉殿)の御所(幕府)が置かれた場所である。若宮大路御所とも言う。その以前は宇都宮辻子に幕府があったが、北条泰時により移された。場所は宇都宮辻子幕府の敷地内の北側もしくは、泰時の邸宅の一部に移されたという説、場所は同じだが、入口が若宮大路側に面しているなど、諸説あって詳細は分かっていない。移転の理由としては4代将軍九条頼経の病気が原因だとい...

北条執権邸

北条氏の小町亭がありました。北条義時以後代々の執権はたいていここに住みました。あの北条高時が、朝に夕に宴会をして、ときには田楽法師に対して、列席している重臣と共に、 ひたたれや袴(はかま)を投げ与えて褒美の山を築いたというのもこの場所であります。1333年に新田義貞が鎌倉に攻め入った時、戦火で焼けて灰になってしまいました。現在の宝戒寺は、 1335年に足利尊氏(たかうじ)が建てたものです。この寺は高時一族の恨み...

畠山重保邸

若宮大路を由比ガ浜の方向に行くと一の鳥居の近くに畠山重保邸跡の碑と畠山重保主従四人の墓と伝えられる宝篋印塔がある。碑には「畠山重保は重忠の長子であるが、かつて北条時政の婿平賀朝雅と争った。朝雅その恨みから重保父子を時政に讒訴(ざんそ)した。時政はもともと重忠が頼朝の死後その遺言によって頼家を保護するのを見て、何か事があればこれを討とうと思っていた。よって実朝の命令によって兵を遣わして重保の邸宅を囲...

畠山重忠邸

 『吾妻鏡』の建久10年(1199年)の条には、「畠山次郎重忠の南御門宅」とある。 畠山重忠は、源頼朝に仕えた武将。 頼朝の挙兵時には大庭景親に従ったが、間もなく頼朝に従い、頼朝の鎌倉入りでは先陣を勤めた。 宇治川の合戦では、おぼれかけた大串重親を岸にほうり投げたといい、一ノ谷の合戦のひよどり越えでは、愛馬を背負っておりたという伝説が残る。 段葛の造営や佐助稲荷神社の建設に力を尽くしたが、頼朝死後...

千葉氏屋敷

鎌倉江の島七福神の一つで「寿老人」を祀る。旧本山は、中山法華経寺。達師法縁。鍋かむりで知られる日親ゆかりの寺として知られ、御家人千葉常胤の子孫千葉胤貞の別邸「千葉屋敷」跡に建つ。...

土佐防昌俊邸

土佐坊昌利は、堀川の館にいる源義経を夜におそいましたが、逆に殺されてしまいました。吾妻鑑によると、この事が次のように書かれています。義経を討つ者を募っているとき、みんな辞退したい気持ちであったところに、 この土佐昌俊が進んで引き受ける旨申し上げると、頼朝は、大層喜びました。そして、出発の間際に頼朝の前に参り、自分には年老いた母や幼い子供たちがおり、下野の国に残して行きますので、 もしもの事があれば情...

源義朝屋敷

現在の寿福寺のある付近は、奥州に向かう源頼義が勝利を祈願したといわれる源氏山を背にした、亀ヶ谷と呼ばれる源氏家父祖伝来の地であり、頼朝の父・源義朝の旧邸もこの地にあった。1180年(治承4年)初めて鎌倉入りした頼朝は、ここに館(幕府)を構えようとしたが、すでに岡崎義実が堂宇を建て義朝の菩提を弔っていたことや、土地が狭かったため、当初の計画を変更したといういきさつがある。寿福寺 山門寿福寺 本堂...

扇谷上杉管領邸

藤原高藤より数えて、十三代の子孫に藤原重房という人がおり、鎌倉6代将軍となった宗尊親王に従って、鎌倉に行きました。そして、京都の上杉に領地をもらったので、名前を上杉としました。その3代後の上杉憲顕は、将軍基氏の高官となり、一族の勢力は関東に広がりました。さらに重房から5代後の顕定は、扇谷家を起こしました。文明(1469‐1487)頃、扇谷家の6代目の定正は、太田道灌を用いて勢力を拡大しました。世間の人々は、山内...

太田道灌邸

英勝寺の総門の近くに太田道灌邸旧蹟の碑がたっている。石碑には「この地は武略と文藻を兼ね備え、かたじけなくも『武蔵野は萱原の野と聞きしかとかかる言葉の花もあるかな』と詠んで天皇の御感心にも預かった太田道灌(太田持資)が江戸城を築城する前の邸宅の跡である。寛永11年(1634)に今の英勝寺となった。その創立者である水戸藩の祖(徳川)頼房の准母(養母)英勝尼は道灌の嫡流太田康資の娘であったことにより、晩...

大蔵幕府(大蔵御所)

鎌倉時代に相模国鎌倉大倉郷(現神奈川県鎌倉市二階堂・西御門・雪ノ下3丁目一帯)の地にあった源頼朝の邸宅。大蔵御所、大倉幕府とも。治承4年(1180年)から、承久元年(1219年)まで39年間、鎌倉幕府の将軍(鎌倉殿)の御所であった。大蔵幕府(大蔵御所)跡は小学校と住宅地となっている源頼朝は治承4年(1180年)8月に挙兵し、10月に鎌倉入りして拠点を大倉に定め、大庭景義を担当として新たな館の建設が行われた。当初は父源...

杉本城

鎌倉時代に鎌倉城の防御度を高めるべく、近く朝比奈切通を破った敵を撃滅する目的で築城された。建武四年(1337)後醍醐天皇側の軍勢が鎌倉に攻め入った際、杉本城には斯波三郎家長が守っていたが、一日で落城し、家長は討ち死にしたという。杉山寺は情緒のある古刹であるが、ここが城址であるとの表示はなく、又山も私有地の為探索は不可。麓の杉本寺杉本寺 本堂杉本城遠景...

大江広元邸

明王院の山門から金沢街道(県道二〇四号線)に出て金沢方面へ進むと「明石橋」という交差点に出る。この交差点のほど近くの住宅地のなかに大江広元邸址の史跡碑が立っている。碑には「大江氏は代々学問の家として知られていた。かつて(大江)匡房は源義家に兵法を教えた。広元はその匡房のひ孫で頼朝に招かれ、鎌倉に来てからは常に(政治の)中枢にあり、機密な事柄に参画した。幕府の創設の功績は広元の力によるものが大きい。...