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星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Photo Movie で見る 城館をどうぞ( `ー´)ノ

古城巡り 写真館

PhotoMovieにて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・
城エクスポ2019

埼玉県 城館 花園城 天神山城 鉢形城 ダイジェスト

埼玉 花園城 天神山城 鉢形城 ダイジェスト









ブログタイトル花園概念図





完成 鉢形城@ヤマシロ





完成 天神山城@ヤマシロ
㊟イメ-ジになります♪(o・ω・)ノ))

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唐沢山城 栃木県佐野市

唐沢山城改@ヤマシロ
㊟イメ-ジ図になります(。>ω<。)ノ

天神山城 埼玉県長瀞町

完成 天神山城@ヤマシロ
㊟イメ-ジ図になります(。>ω<。)ノ

鉢形城 埼玉県寄居町

完成 鉢形城@ヤマシロ
㊟イメ-ジ図になります(=゚ω゚)ノ

花園城 埼玉県寄居町

ブログタイトル花園概念図
㊟イメ-ジ図になります♪(o・ω・)ノ))

天神山城 2018改 埼玉県長瀞町

天神山城 2018改











武蔵七党の一つの猪俣党に属していた北武蔵の豪族藤田重利(のちの康邦)が天文年間(1532~1554年)に築城したとされる。1546年(天文15)に河越夜戦で、山内・扇谷両上杉氏と古河公方の連合軍が北条氏康に敗れたことで、北条氏の武蔵支配が確立。藤田氏はそれまで関東管領山内上杉氏に臣従していたが、重利は1549年(天文18)、北条氏に従属した。しかし、1560年(永禄3)、越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)が関東に侵攻すると、これに従ったため、同年、北条氏は天神山城を攻め、これを落城させた。重利は氏康に降伏。氏康四男の氏邦に藤田家の家督を譲り、自らは用土城(大里郡寄居町)に移って用土氏を称した。重利から康邦へ名前を改めたのも、この頃とされている。天神山城に入城した氏邦は1568年(永禄11)から翌年にかけて、鉢形城(大里郡寄居町)に居城を移したが、天神山城はその後も鉢形城の支城として使われた。1590年(天正18)の豊臣秀吉の北条氏攻め(小田原の役)で鉢形城が降伏・開城すると、同城も開城したといわれる。天神山城は天神山の尾根の最北部に主郭があり、堀切をはさんでもっとも広い二の郭が続き、さらにその先に三の郭があった。また、二の郭の東側斜面には、特徴のある出郭がつくられていた。現在、城跡は山林になっており、こうした縄張りを示す遺構が残っているものの荒廃している。なお、本丸跡にあるコンクリート造りの模造天守閣が無残な廃墟として在る。





_DSC8978主郭手前の堀切
主郭手前の堀切




_DSC8980天神山城の模造天守
天神山城の模造天守・・・・・無残な廃墟!!




_DSC9001主郭西側の横堀
主郭西側の横堀




_DSC9007 出郭の主郭部
出郭の主郭部




_DSC9017出郭 東側の堀
出郭 東側の堀




_DSC9026 出郭の堀切を下から見上げる
出郭の堀切を下から見上げる




_DSC9042藤田康邦の墓 法善寺
藤田康邦の墓 法善寺







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花園城 2018改 埼玉県寄居町

花園城 2018改












平安時代末期、武蔵七党の一つの猪俣党の猪俣政家の子政行は藤田郷に住んで、藤田姓を称するようになったが、その居城としていたのが花園城といわれる。その後、戦国時代の天文年間(1532~54)に、藤田重利(のちの康邦)が天神山城(秩父郡長瀞町)を築いて居城を移してからも藤田氏の城(天神山城の支城)として存続した。藤田重利は武蔵支配を確立した北条氏康に降伏し、氏康四男の氏邦を天神山城に迎えて養子とし、その家督を譲った。氏邦は1560年(永禄3)以降、鉢形城(大里郡寄居町)を整備して天神山城から居城を移したが、この時、花園城は注目を集めたと推定される。花園城は鉢形城とは川をはさんで向きあうような位置にあり、敵が川をはさんで鉢形城に対して陣を構えると、花園城がその陣の背後を脅かす位置にあったためである。こうしたことから、鉢形城の支城としての整備が進められた。その後、1590年(天正18)には豊臣秀吉の北条氏攻め(小田原の役)が起こり、花園城は鉢形城や天神山城とともに降伏・開城、あるいは落城したと考えられている。なお、花園城は氏邦に家督を譲った康邦の隠居城になったという別説もある。城跡は藤田氏の菩提寺である藤田善導寺の背後の山中にあり、その主郭(本丸)は標高約200mのところにあった。主郭のあった場所には現在、石碑が建っている。花園城は中世の関東以北の城としては珍しい石積みを多用していた城郭だが、主郭から南側の曲輪にかけて、緑泥片岩を平積みした石組みの遺構が現存している






_DSC8899 腰郭4の石積
腰郭4の石積




_DSC8911腰郭3 下部に残る石積
腰郭3 下部に残る石積




_DSC8937主郭と郭2間の堀切
主郭と郭2間の堀切




_DSC8947主郭西側の堀切5
主郭西側の堀切5




_DSC8946花園城 城址碑
花園城 城址碑





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鉢形城 2018改 埼玉県寄居町

鉢形城 2018改










城の中心部は、荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁の上に築かれていて、天然の要害をなしています。この地は、交通の要所に当たり、上州や信州方面を望む重要な地点でした。
 鉢形城は、文明8年(1476)関東管領であった山内上杉氏の家臣長尾景春が築城したと伝えられています。後に、この地域の豪族藤田泰邦に入婿した、小田原の北条氏康の四男氏邦が整備拡充し、現在の大きさとなりました。関東地方において有数の規模を誇る鉢形城は、北関東支配の拠点として、さらに甲斐・信濃からの侵攻への備えとして重要な役割を担いました。
 天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めの際には、後北条氏の重要な支城として、前田利家・上杉景勝等の北国軍に包囲され、攻防戦を展開しました。1ヶ月余りにおよぶ籠城の後に、北条氏邦は6月14日に至り、城兵の助命を条件に開城しました。
 開城後は、徳川氏の関東入国に伴い、家康配下の成瀬正一・日下部定好が代官となり、この地を統治しました。





_DSC9091鉢形城城址碑
鉢形城城址碑





鉢形城跡では堀や土塁が良く残り、堀や土塁によって区切られた本曲輪や二の曲輪などの空間が現在でも確認することができます。なお、二の曲輪・三の曲輪・笹曲輪は平成9年度から13年度にかけて発掘調査が行われ、その成果をもとに、馬出や堀・土塁の復元整備が進められました。特に、三の曲輪では戦国時代の築城技術を今に伝える石積み土塁や四脚門、池などが復元されています





_DSC9050秩父曲輪の堀
秩父曲輪の堀




_DSC9063馬出郭
馬出郭




_DSC9069御殿下曲輪の土塁と堀
御殿下曲輪の土塁と堀




_DSC9079御殿曲輪(主郭)
御殿曲輪(主郭)





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大谷吉継の供養塔 埼玉県東松山市

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野本氏館跡になる無量寿寺山門の左手側に供養塔が有ります


大谷吉隆(吉継)は 天正18年(1590)に豊臣秀吉が小田原の北条氏攻略の一環として 武州松山城攻めをしたとき「無量寺」に程近い「八幡神社」に布陣したとされています(すっかり忘れ、行っていません( ゚Д゚))



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南無阿弥陀仏と大きな石碑が建っています!!




_DSC8822改




大谷吉隆(吉継)の姓は平で 従五位下に叙せられ形部少輔と称し 大谷平次郎盛冶の子である
豊(秀吉)太閤に仕え 越前州敦賀城主となり五奉行に列せられた慶長五年九月十五日に美濃州関ケ原で戦死
吉継の孫 吉刻が武蔵州比企郡野本(埼玉県東松山市上野本)に来て没した
文政三年(1821) 祖先を祝うために碑を建立した。





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裏面に大谷吉隆と



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そして形部少輔と・・・・・・・





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野本氏館 埼玉県東松山市

野本元員を初代とする野本氏一族の館跡です。野本氏は系図から平安時代の公卿藤原基経(ふじわらの・もとつね、836~891・堀川大臣)の家の警護をしていた片田基親の子息基員が武蔵国野本に移り住んで野本左衛門と名のったのが、野本氏の始まりと言われています。基員は、源頼朝の信頼が厚かった武士で、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』にも登場する人物です。


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館は現在、無量寿寺の境内地




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館跡の標柱




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山門脇の説明板



館は現在、無量寿寺の境内地となっており、本堂の北側で土塁と堀がわずかに確認できるだけとなっていますが、実際は二重の堀と土類を廻した構造の館となっています。外側の土塁と堀は当初からのものではなく、後世の増築によるものと考えられています。江戸時代の武蔵国の様子を書いた『新武蔵国風土記稿』の無量寿寺の項には「寺領の外境内一万四千坪、境の廻り四方に堤を築き、堀の跡残れり」とあり、同書の「将軍塚の図」には土塁や堀の様子が描かれています。

館が造られた時期については、基員が貞観元年(1232)に亡くなっていること、また無量寿寺に残されている建長6年(1254)銘の銅鐘の拓本より、当時無量寿寺が野本寺といわれていたことなどから、遅くても13世紀の初め頃には館が造られていたと考えられます。




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無量寿寺の本堂




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本堂裏手の土塁




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土塁に沿い、堀跡になると思われる






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