栃木県大田原市城館 2018.1.28
栃木県大田原市城館2018年1月28日に訪れた大田原市の城館ダイジェスト版です♪(o・ω・)ノ))一週間前の雪が残り幻想的な城址でした。青木要害 イメ-ジ図になります岩谷要害 イメ-ジ図になります尻高田要害 イメ-ジ図になります金丸氏要害 イメ-ジ図になります...
尻高田要害 栃木県大田原市
尻高田要害天正年間(1573~92)、伊王野氏が築いたといわれる。東方から侵略の手を伸ばして来ていた佐竹氏に備えたものであるというが、当時伊王野氏はこの辺りまでをその勢力範囲としていたものであろうか。塩畑のバス停から向にそびえる左手のピ-クが城址となり、小川に架かる橋もどきを渡ると幾つもの作業道が在るので目標のピ-クに向かい最後は尾根を目指して直登りとなる。尾根にでて遺構周辺になると、あちこちピンクテ-...
岩谷要害 栃木県大田原市
岩谷要害岩谷要害の城主は角田氏であるという。伝承によると、角田氏は三浦氏の一族で、源頼朝が那須で狩を行った時に、この地に三浦氏がここを居館として利用したというが、本当かどうかは明らかではない。角田氏の城館としては他に奥沢館、八幡館などもある。角田氏は後には大関氏に仕えた。後に奥沢館を築いて移り、奥沢氏を名乗るようになったという。道幅の狭い参道を上ると、江戸時代にタイムスリップしたかのような観音堂が...
青木要害 栃木県大田原市
青木要害青木要害の城主は青木三河守という者であったと言われる。この人物は戦国期の人らしいのだが、詳しいことはよく分からない。地元の土豪であったのではないかと思われるのだが、大関氏に属していたのであろうか。 南麓の龍念寺は青木氏の菩提寺であり、その阿弥陀堂には天正銘の鰐口が残されているという。麓の龍念寺公民館のこの場所から郭4方面へ郭4北側の堀郭4 北側の堀切郭4郭3 西側の堀切山頂の石祠大きい地図・ル...
亀山城 栃木県大田原市
那須資隆の八男、堅田(片田)義隆築城と伝わる。上那須氏終焉につながる抗争の中心地!!築城年代は定かではないが鎌倉時代初期に片田八郎義隆(堅田とも)によって築かれたと伝えられる。義隆は那須資隆の八男で仁治年間(1240年~1243年)に片平城を築いて移り、片平氏の祖となった。片田小学校側の交差点からの遠景城址麓の採石場採石場の右端のこの場所から取り付く北側の土塁、単郭で土塁が巻くように残る西側の土塁北西虎口北西...
川田館 栃木県大田原市
鎌倉時代、川田六郎資成が構築し、以降近世まで居住したと思われる。周辺は田畑となり遺構は確認できない・・・・・・・・・・・・・大きい地図・ルート検索 ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )...
八幡館 栃木県大田原市
天正年間(1573年~1592年)に大関増雄が黒羽に進出したことから、天正4年(1576年)角田氏は奥沢館を築いて移り奥沢氏を称したという。久寿2年(1155年)に須藤権守貞信、千葉介常胤、三浦介義明、上総介広常等が勅を受けて那須野の九尾の狐を退治したとき、弓矢の神、八幡宮をこの地に勧請して祀ったという。これを狩野の八幡宮と称した。天正4年(1576年)大関高増が黒羽城を築くにあたり、筑紫の宇佐八幡宮並びに山城の男山八幡宮...
矢組館 栃木県大田原市
詳細については不明だが、矢組五郎の居館と言われる道路から見ても、土塁で在ることは解るが堀は消滅していると思える。矢組舘遠景館碑舘に残る土塁大きい地図・ルート検索 ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )...
米澤藩上杉藩邸跡 鱗屋敷 東京都
桜田門のすぐそばにあった米沢藩上杉家。霞ヶ関界隈で一際目立つ建物である法務省旧館赤レンガ、ここに米沢藩上杉家の江戸屋敷があった。米沢藩上杉家跡地を示す記念碑がある。 警視庁の目の前に位置し、幕末には有名な「桜田門外の変」がすぐ目の前で起こっている。逼迫する藩財政を倹約と特産品振興策などを行い、立て直し、名君と世界的にも名高い上杉鷹山、その藩財政改革の第一歩もここで案を練ったとされる。また、近くには...