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星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Photo Movie で見る 城館をどうぞ( `ー´)ノ

古城巡り 写真館

PhotoMovieにて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・
城エクスポ2019

伊賀城館を巡る・・・・2017

伊賀城館を巡る・










伊賀上野 天守
伊賀上野城




福地城 城址碑
福地城




柏野城 城址碑
柏野城




百地丹波城 説明板
百地丹波城

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百地丹波城 三重県伊賀市

百地丹波城









伊賀三大上忍の一人とされる百地丹波守の砦跡で、近くに菩提寺である青雲禅寺があります。また、百地伝説にまつわる式部塚があり、縁切り祈願のお参りが今もあります。


百地氏は伊賀流の忍者、百地丹波守が有名ですが、史実としてはほとんどわかっていません。
しかし、天文十三年(1544)の史料に「喰代百地殿」と見えることから、戦国時代には北伊賀地域の有力な土豪うとして知られていたようです。
百地氏城跡に代表される土塁や堀ほりで防御施設を設けた中世城館跡は、市内に二百五十ヶ所余りあります。
その中でも喰代・蓮池地区は、中世城館跡が数多く分布する地域で、周辺には安場氏館跡や奥氏城跡・上山氏館跡など十四ヶ所の中世城館跡が確認されています。
この城跡は丘陵の尾根を利用してつくられたもので、最も山よりの郭から現在の青雲寺まで含めると、長さ 250m 、幅は最も広い所で 60m で、市内でも有数の規模となります。
城跡の構造は、尾根を削平して作った郭を連ねたように配置したもので、四つの郭(左図郭A-D)が段々に形成されています。
この中で郭くるわCは 70×40m と最も大きく、四方に土塁を築いているほか、南側に自然地形を利用した堀、東側には堀切があります。
周囲に郭くるわCを防御するための郭を設けたり、進入路屈曲させるなど防御の工夫を凝らしていることから、百地氏城跡の中心部分(主郭)と考えられます。
主郭しゅかくを巡る土塁は北側・西側・東側の土塁の外側は崩れが著しく、工事により保護されていますが、内側はよく残り、当時の様子をうかがうことができます。
南側の土塁は一部がなく、また他の土塁どるいと比べて低いことから当時は塀があったのかもしれません。
東側の土塁どるいは主郭の中で最も高く、土塁どるいの上が広くなっていることから、かつては見張り台のようなものがあったと考えられます。
また主郭郭内には幅 1m 余りの溝があります。これは、当時郭内を区画した痕跡と考えられます。





改百地丹波城@ヤマシロ完成
㊟現地説明板を参考にしたイメ-ジ図です(-ω-)/





百地丹波 郭3 青雲寺
百地丹波 郭3 青雲寺 百地氏菩提寺






百地丹波 郭2
百地丹波 郭2





百地丹波 主郭堀切
百地丹波 主郭堀切




百地丹波 南虎口
百地丹波 南虎口





百地丹波城 説明板
百地丹波城 主郭 説明板






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柏野城 三重県伊賀市

柏野城(別名・福島城)は、築城年代は定かではないが、福島宗雄によって築かれたといわれています。平成元年4月、市指定史跡に指定。
天正9年(1581)9月27日、丹羽長秀、滝川益一ら12,000余りの織田軍が柘植口から攻め入り、柏野城には伊賀北東部の伊賀衆が立て籠って抗戦しましたが多勢に無勢でたちまちのうちに敗れました。
この他にも、伊賀地区には中世城館跡が500ヵ所以上あり、代表的なものに福地城跡や竹島城跡、壬生野城跡があります。




柏野城 案内板1
柏野城 案内板1




柏野城 案内板2
柏野城 案内板2




柏野城 入り口、ここを入ります
柏野城 入り口、ここを入ります!!




柏野城 主郭
柏野城 主郭 三方に土塁が巡る、単郭で在る




柏野城 城址碑
柏野城 城址碑




柏野城 主郭の土塁
柏野城 主郭の土塁




柏野城 堀切
柏野城 堀切




柏野城 土橋
柏野城 土橋遺構






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福地城 三重県伊賀市

福地城







城主の福地氏は、平清盛の末裔を称した土豪で、柘植の有力な国人「柘植三方(日置氏・北村氏・福地氏)」を構成した氏族。祈願寺は長福寺(現・万寿寺)と推定され、本尊の地蔵菩薩像の内部から発見された南北朝時代の文書に「ふくちの御てら」とある。この文書には「やなき」という女性から「ふくちの御てらの了賢房」へ宛てた書状が含まれるが、了賢房はやなきの子で、いずれも福地氏の一族と推定される。福地氏は正長2年(1429年)に室町幕府から関氏の討伐を命じられており、この頃既に柘植を代表する国人に成長していたことが確認できる。天正9年(1581年)に織田信雄が伊賀国を攻めた天正伊賀の乱では、福地宗隆が織田方に味方して勢力を拡大したが、天正10年6月(1582年6月)に織田信長が没する(本能寺の変)と、伊賀衆の残党に裏切り者として攻められ、国外へ逃亡した。菊岡如幻の著した『伊水温故』は、福地氏の戦国時代の所領を1000石程としている







福地城 城址碑
福地城 城址碑




丘陵頂上の城郭と丘陵の裾の城郭に大きく分けられ、前者は詰城・後者は居館と推定される。大手門は石垣を用い、礎石の遺構から門扉の存在が確認される。大手門の両側には高さ3.5-4.8メートルの土塁があり、櫓の遺構と推測されている。丘陵頂上には11以上の郭が確認され、同心円状に配置されている
現在、城跡は芭蕉公園として整備されており、遺構を堪能する事が出来ます。




福地城 主郭虎口
福地城 主郭虎口 右手側は櫓台でないか・・・・・




福地城 主郭
福地城 主郭





福地城 居館跡
福地城 居館跡 三方を土塁と堀が巡る






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伊賀上野城 三重県伊賀市

伊賀上野城









天正13年(1585)に筒井定次が平楽寺・薬師寺のあった台地に近世城郭としての伊賀上野城を築きました。菊岡如幻の『伊水温故(いすいうんご)』によれば、城は高丘の頂上を本丸とし、東寄りに三層の天守閣を建て、城下町は古くから開けた北側(現在の小田町)を中心としました。
慶長13年(1608)6月、筒井定次は改易となりましたが天守閣は、寛永10年(1633)頃に倒壊したと推定されます。



伊賀上野 筒井氏時代天守跡
伊賀上野 筒井氏時代天守跡




伊賀上野 筒井氏時代の石垣
伊賀上野 筒井氏時代の石垣




伊賀上野 城代屋敷の石垣
伊賀上野 城代屋敷の石垣





慶長13年(1608)8月、徳川家康は、伊予の国(現在の愛媛県)宇和島城主であった藤堂高虎に、伊賀の国10万石・伊勢の内10万石、伊予の内2万石、合わせて22万石を与え国替えさせました。



伊賀上野 天守




高虎が家康の信任が厚く、築城の名手でもあり、大坂・豊臣方との決戦に備えるための築城でした。筒井定次の城が大坂を守る形をとっていたのに対し、高虎は、大坂に対峙するための城として築きました。慶長16年(1611)正月、本丸を西に拡張し、高さ約30メートルの高石垣をめぐらして南を大手としました。
五層の天守閣は、建設中の慶長17年(1612)9月2日、当地を襲った大暴風で倒壊しましたが、外郭には、10棟の櫓(二重櫓二棟、一重櫓八棟)と長さ21間(約40m)という巨大な渡櫓(多聞)をのせた東西の両大手門や御殿などが建設されました。
慶長19年(1614)の大坂冬の陣、その翌年の夏の陣で豊臣方が敗れました。その後、幕府は城普請を禁じたため、伊賀上野城では天守閣が再建されないまま伊賀国の城として認められ、城代家老が藩政をあずかりました。幕末まで国替えなく、この地を収めました。





伊賀上野 内堀
伊賀上野 内堀




伊賀上野 高石垣と内堀
伊賀上野 高石垣と内堀




伊賀上野 城代役所跡
伊賀上野 城代役所跡





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真間の次橋

真間の継橋(ままのつぎはし)は、千葉県市川市にかつて存在した橋で、日本百名橋の番外に選ばれた。 現在は川自体が存在せず、当地には石碑と説明板、橋の欄干を模した記念物が建てられている



_DSC0139つぎはしの石碑





_DSC0140つぎはし





_DSC0137真間のつぎはし説明板





_DSC0138弘法寺への参道



当時、この一帯は「真間の入江」と呼ばれる海岸地帯で、蘆の生い茂った砂洲がひろがっていた。 真間の継橋とは下総の国府があった国府台へ向かうための橋で、砂洲を中継地点として複数の板橋を架け渡してあったことからこの名を得たとされる。
後世、近隣に伝わる手児奈の悲話の伝承とあいまってその名は広く知られ、1696年に鈴木長頼が推定地に「真間の三碑」を建てた。
幕末期、歌川広重は名所絵『名所江戸百景』の中で「真間の紅葉手古那の社つぎ橋」と題する一枚を描いている。 この画題の意味は『真間の紅葉の名所(弘法寺)から「手古那の社」と「継橋」とを望む』ということで、画中をよく見ると遠方に橋が見えるが、これが広重の描いた「真間の継橋」であった。 背後には田んぼがひろがり、すでに新田開発もひととおり進んで、周囲は農村地帯となっていたことがわかる。
現在では周囲は住宅街になっている。 かつての橋を記念して擬宝珠つきの真っ赤な欄干が建てられているが、その下に川はもはや流れていない。





千葉県市川市真間

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国府台城 千葉県市川市

国府台城









享徳の乱の初期に発生した千葉氏の内紛の際に、宗家側の生き残りであった千葉実胤・自胤兄弟が籠城したが、1456年(康正2年)に陥落(市川合戦)、水運にて栄えた市河津を背後に持ち府中として栄えた市川は大きく衰退し、軍事的・経済的な要所は宗家方勢力(武蔵千葉氏)が落ち延びた武蔵国石浜城や江戸城、反宗家勢力(下総千葉氏)の拠点の1つであった小金城に移ることになる。
その後、扇谷上杉家の家臣であった太田道灌が1478年(文明10年)12月に武蔵千葉氏を継承した千葉自胤を援けて下総国境根原(現在の千葉県柏市酒井根付近)での合戦を前に、国府台の地に仮陣を築いたことに始まる。この際に城地として相応しいと見立て、翌年に臼井城にいた下総千葉氏の千葉孝胤を攻めた際、道灌の弟太田資忠らが、この地に城を築いたと記録に残る。
国府台城は要所であるが故に後北条氏、千葉氏、高城氏と里見氏、太田氏、上杉氏らの度重なる勢力争いの舞台となっており、争奪戦が繰り返され城もまた堅固な城郭として整備された。しかし、豊臣秀吉による小田原征伐後、後北条氏に代わって江戸に入府した徳川家康によって廃城にされた。江戸を見下ろす場所にあったからとも言われている





1727年(享保12年)に徳川吉宗によって、関宿からこの地に曹洞宗安国山總寧寺が移され、1885年(明治18年)には陸軍教導団病院が設置された。この病院は後に陸軍衛戍(えいじゅ)病院などを経て、現在は国立国際医療研究センター国府台病院となっている。また、太平洋戦争時に總寧寺と江戸川に挟まれた樹林には、陸軍の手で多くの防空壕が作られた。その後、1958年(昭和33年)9月にこの付近は「里見公園」として整備され、桜の名所となった。そのため、特に病院の跡だった城の南半分は原型を留めていない。残りも多くは住宅街となっているが、堀切や空堀、土塁跡はよく残っており、櫓台の跡も確認できる。
・・・・・・・・・しかし、余り良好な残り方とは言えない




国府台第二次古戦場
国府台第二次古戦場 激戦地




里見公園 この奥に遺構が!!
里見公園 この奥に城址




北東の土塁と虎口
北東の土塁と虎口




郭2 西側の土塁
郭2 西側の土塁 畑の奥に!!




郭5の堀と土塁
郭5の堀と土塁




国府台城から見た江戸川
国府台城から見た江戸川




完成国府台城@ヤマシロ
㊟イメ-ジ図になります(・Д・)ノ



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栃木県鹿沼市下粕尾 城館 ダイジェスト

大塚城 天狗沢城 松崎城









改鹿沼市下粕尾 城館位置
鹿沼市下粕尾 城館位置




大塚城 遠景
大塚城 遠景




天狗沢城 遠景 手前の下の山が城
天狗沢城 遠景





松崎城 遠景
松崎城 遠景

高山城~百間築地・要害山城・天屋城 群馬県藤岡市

高山城~百間築地・要害山城








高山城 百間築地に在る説明板
高山城 百間築地に在る説明板




百閒築地 模擬石垣
百閒築地 模擬石垣




要害山 横堀
要害山 横堀




要害山 横堀2
要害山 横堀




要害山城 主郭の石祠
要害山城 主郭の石祠




高山城~天屋城









天屋城 屈折する竪堀1
天屋城 屈折する竪堀




天屋城 二重堀切
天屋城 二重堀切




天屋城 岩堀切
天屋城 岩堀切





天屋城 主郭1
天屋城 主郭





天屋城 堀切1
天屋城 堀切1






改高山城@ヤマシロ
㊟イメ-ジ図になります♪(o・ω・)ノ))



高山城は、鮎川を挟んで、平井金山城と向かい合うような位置にある。城址周辺は、ツインレイクヒルズカントリークラブの敷地となっています。
高山城は地元豪族であった、児玉党の一族高山氏によって築かれた城であるという。戦国中期までこの地域は関東管領上杉氏によって支配されていたので、高山氏もそれに属し、高山城は、平井城を中心とする城郭に組み込まれていた城であると考えられる。

天狗沢城 栃木県鹿沼市

原紙 天狗沢城 栃木県鹿沼市

㊟イメ-ジ図になります(。>ω<。)ノ