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星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Photo Movie で見る 城館をどうぞ( `ー´)ノ

古城巡り 写真館

PhotoMovieにて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・
城エクスポ2019

青森市城館 ② 青森県

油川城 新城 高屋敷館 青森県青森市









w300h300油川城遠景
油川城遠景
青森市外北西の丘陵地に位置し、東西200m、南北350mの規模で平地の中に孤立した城郭となっていた。現在は畑作地となり平坦化されている。
築城年代は不明であるが、諸書により南部氏奥瀬氏の居城とされる。「異聞記」に「油川へは南部奥瀬判九郎下り、外ヶ浜の代官となり、その子善九郎船水讃岐なり」とある。
津軽氏の「津軽一統志」に、天正13年(1585年)3月、大浦為信による油川一帯外ヶ浜攻めに際して一戦も交えず田名部に逃げ去ったとある




w300h300新城城、照法寺が城址
新城城、照法寺が城址
JR奥羽本線「津軽新城駅」の南西1km程の照法寺が城跡で県道247号線沿いに照法寺への案内が出ている
歴史的詳細については不明。





w300h300高屋敷館、復元整備がなされている
高屋敷館、復元整備がなされている(2013年7月)
古代(平安時代)の環壕集落(かんごうしゅうらく)遺跡で、指定面積約30,000平方メートル(南北約500メートル、東西約90メートル)です。遺跡の中心部には、空壕(幅6~8メートル、深さ最大約4メートル)と、壕(ほり)を掘った土を壕の外側に積み上げた土塁(どるい)とに囲まれた集落(南北約110メートル、東西約80メートル)があります。
遺跡のある丘陵地では以前から人が住んでいたようですが、高屋敷館遺跡では10世紀ごろから12世紀ごろまで人々が住み、11世紀には壕と土塁に囲まれた集落として最も栄えたとみられます。集落西側の土塁が途切れた部分から壕をわたり、木柱の門をぬけると、たくさんの建物や、建物をつなぐ通路、柵列がつくられ、鉄に係わる生産活動などが行われていたようです。
集落が途絶えると壕は完全に埋められ、近年まで果樹園などとして利用されていました。



㊟2013年7月に登城

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青森市城館 ➀ 青森県

青森市城館 ➀ 青森県







w300h300浅瀬石城
浅瀬石城
城は北へ突き出た舌状台地の先端にある。城址は、現在リンゴ園となっており、堀跡は、農園内の作道となっている。近くには、浅瀬石川が流れている。城の構造は東方・北方に浅瀬石川が流れているが、西方・南方の城下があった高賀野方面は平地である為、田舎館・大光寺方面との連携が必要である。

仁治元年(1240年)、千徳氏の祖である一戸行重が築城したとされるが、その根拠とされる『黒石星田家文書』の千徳系図は不審な点が多く、詳細は不明である。
戦国時代、城主の千徳政氏が南部氏を裏切って津軽為信と同盟を結んだ。すると、南部信直は激怒して東政勝を攻手として天正13年(1585年)4月、3000の軍勢で浅瀬石城を攻撃してきたものの撃退した(宇杭野の合戦)。しかし、この合戦で為信が援軍を出さなかった事により後の不和の原因となったといわれている。
慶長2年(1597年)2月、千徳政康の代に津軽氏との同盟が破綻し、寝返った重臣木村越後らが本丸を急襲、敵将森岡金吾などの津軽軍2500人の攻撃を受け、2000の城兵は奮戦したが落城、政康は自害したため、廃城となった




w300h300高田城
高田城
建築時期は不明である。戦国時代には土岐則基の居城であった。則基は高田村、荒川村を領して、800石で南部氏に仕え、津軽関門の守備を担っていた。天正6(1578)年、大浦為信が浪岡城を攻略、則基と嫡男の則重が戦死した。次男則忠・三男則吉は南部高信次男政信の娘を奉じ、三戸に逃亡し、則忠は三十石を賜った。それにより、廃城となったと思われる。土岐氏は、慶長年間に政信の娘が、七戸城主七戸直時に嫁ぐと、付き人として、直時に仕えて、二十三石切米五駄を賜った。後に直時の命で「高田」に改姓すると、七戸城番頭筆頭四家の一つとして栄えた。




w300h300横内城
横内城
現在の本丸部分からは横内城は東西80m、南北160mの平城であったと推測される。比高は8mと言われる。円形であったといわれるが、現在はっきりしている範囲では楕円形である。ただし、二の丸、三の丸があったとも言われ、それを含めると東西167mに及び、ほぼ円形になるといわれる。現在は堀はほぼ空堀となっているが、かつては横内川に面した崖になっている東側を除き水堀が存在した。南北の堀は幅10mから15m、深さ7mから8mである。西側の堀は幅8m、深さ2mであるが、これは合子沢川が天然の堀をなしていたため、それほど深い堀は不要と考えられたためであると考えられている。遺跡の発掘がさほど行われていない上、当時の資料にも曖昧な点が多く、今なお不明な点が多い城郭である。現在横内城本丸と呼ばれているのは常福院のある場所であるが、その場所は城代が置かれた後に盛土がされた痕跡があり、戦国時代当時からそうであったのかははっきりしない



w300h300築木館
槻木館・詳細については不明





w300h300蝦夷館
蝦夷館・詳細については不明

黒石市 平川市 田舎館村城館 青森県

黒石市 平川市 田舎館村城館 青森県








w300h300尾崎城・本丸の城址碑
尾崎城・本丸の城址碑


尾崎城は、周辺の城郭同様集落のほぼ全体が城址である。戦国時代には、大光寺城の支城として機能していた。平城ではあるが堅固である為、隣村の新屋城と共に、浅瀬石城、浪岡城など諸城と協力する事によって、本城、大光寺城を守るのに力を発揮する。現在はほとんど宅地化しているが、堀や切岸が比較的良好に残されている。城は本郭(大館)と外郭(小館、尾崎出丸、勘助出丸、木戸口出丸)で構成されている。



w300h300新屋城の支柱
新屋城の標柱


築城年は不明。鎌倉時代に新屋氏によって築城された。新屋氏は清和源氏南部氏流七戸氏の庶流である。

戦国時代の城主は、新屋源次郎であり、千九百石の領主であった。大光寺城南部氏の支配下にあった。隣村である尾崎村尾崎城主の尾崎氏と同盟を結んでいた。藩史によると天正4(1576年)、もしくは天正2年(一統志)、11年(津軽年代記)に尾崎城主尾崎喜蔵と共に大浦為信家臣となった。一説には、大光寺城主滝本重行の攻撃により、新屋城が落城し、浪岡城に逃れた後、津軽家家臣となったという。

新屋城には、落城後も弘前城完成までは代官所が置かれていた。

津軽家家臣となった新屋氏は津軽為信より、百石を与えられ弘前藩士となった。新屋源次郎より十三代目の新屋茂樹は、近衛文麿の秘書を務め、茂樹の死後、新屋家より新屋八幡宮(新屋城址にある)に甲冑、太刀、陣羽織、陣笠などが奉納されている。





w300h300天内館・館東端に祀られている保食神社
天内館・館東端に祀られている保食神社


天内館は台地の北端部に築かれており、三郭で構成されかつては土塁と空堀が残っていたというが、現在は田畑や宅地となっている。 天内館の標柱の建つ畑地の所は、切岸加工のような地形が残り、それとなく館跡の雰囲気は残っている。



w300h300五日市館・周辺は田畑となっている
五日市館・周辺は田畑となっている
大光寺曽我氏滅亡後、延元3年(1338)に藤崎城城主の安東秀光が拠点としていた十三湊が大津波に襲われたため、安東次郎左衛門秀光は大光寺の五日市館に築城し大光寺氏を名乗ったと伝えます。





w300h300堂野前館
堂野前館
堂野前館は浅瀬石川の北岸にある堂野前集落に築かれていた。 本館と東館の二郭で構成されていたという。東館部分は果樹園、本館部分は宅地となっている。
  




w300h300諏訪堂館・東部付近の稲荷神社
諏訪堂館・東部付近の稲荷神社
諏訪堂館の館主・沿革は不明である。恐らくは大光寺城の安東氏の支城であったものと思われる。





w300h300垂柳館・三郭の神明神社
垂柳館
詳細については不明である
「垂柳」とは、浪岡城主である北畠氏四天王の 垂柳(すいやなぎ)氏から来ているとされるが、詳細は不明である。 天正年間(1573? 93)の頃には鹿内但馬守が館主であったと伝えられ、この鹿内氏と垂柳氏は同一と思われる
館は、西から主郭、二郭、三郭と連郭式となっている三郭は垂柳神社から集落在ったとされ二郭は集落西側に小さな郭である
主郭と二郭は現在果樹園となる






w300h300田舎館城本丸の土塁跡
田舎館城
田舎館村役場の東側にポツンと残る「ヤマコ」と呼ばれる林が城跡です。
「ヤマコ」には画像の解説板の他に石碑&標柱があり、「ヤマコ」自体も土塁跡になっています。
また、標柱脇に植えられたサイカチの木は、天正13年(1585年)の落城の際、330余名の城兵を埋葬した時の供養樹とも云われています。





w300h300黒石城・城址碑
黒石城
天和4年の境松村絵図によれば、黒石城は外広市館・内広市館と東西に並び、南の花館とあわせて三郭で構成されていたようである。
現在の境松集落の部分よりやや低地の所に、外広市館・内広市館部分が残っており宅地になっているようである。南にあったとされる花館は残っていない。
解りずらいが、城址碑は橋を渡る手前にある






w300h300黒石陣屋・城址碑
黒石陣屋
陣屋は明暦2年(1656年)交代寄合旗本であった津軽信英により築かれ、8代領主親足の代の文化6年(1809年)加増により1万石を領し、諸侯に列し、黒石藩として立藩した。十一代承叙の代に明治維新を迎えている。明治4年7月の廃藩置県と黒石県の成立、9月の弘前県への吸収合併により、存在意義を失い、廃城となった。
南側には浅瀬石川が流れ、陣屋との間には宇和堰があり、地形的にも自然の要塞を呈していた。大手門近くには、町令所や太鼓櫓があった。さらに、中門、無常門、御制札場などが北側にあった。西側には馬場、南東には津軽信英を祀った御廟があり、南側には蝦夷館(えぞだて)と呼ばれる地が置かれている。御門内に入るためには、大手門か西門を通過しなければならないが、これらは典型的な枡形門となっていた。陣屋の東側には、空堀があったが、明治の初め埋め立てられている。陣屋内には、御殿、台所、御蔵、焔廠蔵が配されていた。浅瀬石川に臨む段丘は比高13mの高さがあり陣屋地では唯一の要害である。
陣屋跡は、明治6年8月28日黒石小学校が建設された(後に現在地に移転)。市民文化会館や中央スポーツ館の敷地などとなり、馬場跡が黒石公園(後に御幸公園)となった。

浪岡城 川原御所 北畠氏累代の墓 青森県青森市

浪岡城 川原御所 北畠氏累代の墓









戦国の豪族北畠氏の居城。浪岡町中心部の東方、浪岡川正平津川合流点右岸段丘面に築かれた平城。築城は15世紀後半の4代顕義のころとされる。北畠氏は建武の新政(1334~36)に活躍した北畠親房の子孫。「御所」の敬称で呼ばれる。京都の公卿の日記にも登場。浪岡へは応永年間(1394~1428)に来住、岩手県閉伊地方に住んでいたのを南部氏が津軽支配にその権威を利用しようとして連れてきたといわれる。
 浪岡城は東側から新館、東館、猿楽館、北館、内館、西館、検校館の7郭と発掘によって発見された無名の館で構成されており、(指定面積は約13万6千m2)城跡は20数年の発掘調査で復原が試みられ、史跡公園を目指している。内館が城主の居住した館で、他の館に武家屋敷の建物があり、堀が各館を分ける。
 出土物4万点の中に陶磁器が1万6千点、その半数以上が中国製で、北畠氏の文化の高さを示す。また北畠氏の特別の権威を示す中国製茶壷もある。浪岡城は天正6年(1578)大浦為信によって落城した。
現在城址は史跡公園として整備がなされている。


浪岡城 看板
浪岡城遠景





北畠氏累代の墓
北畠氏累代の墓、畑の中に淋しく残る!!




川原御所は、浪岡北畠氏の庶流川原御所北畠氏の居館である。北畠顕家の弟顕信の子守親の子孫が浪岡に入部し、川原御所を築いたとされる。川原御所北畠氏は後に絶えた為、浪岡北畠氏6代具永の次男具信が川原に入って川原御所を再興した。1562年、領地争いが原因で、川原御所具信が浪岡城主北畠具運を殺害すると言う「川原御所の乱」が発生し、間もなく具信父子は誅殺されて川原御所北畠氏は滅亡した。以後、浪岡北畠氏は急速に衰退し、後に津軽氏の攻撃によって滅亡した。
現在の御所跡は宅地となり遺構は確認できない。



川原御所
川原御所の碑、民家の軒先に在る

㊟2013年7月に登城

滝山城 東京都八王子市

滝山城 イメ-ジ図@ヤマシロ

㊟イメ-ジ図になります('ω')ノ

川越大師 五百羅漢 干支を巡る

川越大師 五百羅漢 干支を巡る

五百羅漢の中の、干支をご覧ください♪(/・ω・)/ ♪



喜多院の五百羅漢(ごひゃくらかん)の始まりは、これまで天明2年(1782)説がとられてきました。しかし近年、五百羅漢に関する詳細な調査が行われ、その経緯や造立年代などが明瞭になってきました。
それによると、本願主は川越北田島の志誠(しじょう)の他に蔦右衛門がいて、寛永8年(1796)に両名が発願しました。そして喜多院真珠院の協力を得て「五百羅漢建立募縁疏」を上木し広く寄進を募りました。羅漢像は翌年の寛永9年(1797)から文政8年(1825)のおよそ30年にわたって造立され、ほぼ完成したそうです。(寄付募金帳なる古文書が見つかっており、今後の研究が待たれるところです)
喜多院の五百羅漢は中央高座の大仏(おおぼとけ)に釈迦如来、両脇侍(わきじ)に獅子に乗った文殊菩薩と象に乗った普腎菩薩、左の高座に阿弥陀如来、右の高座に地蔵菩薩があり、大小の石仏像すべて合わせると538体です。このうち533体が羅漢像です。







逆井城 初夏??

逆井城 ブログ用



逆井城 初夏

夕刻の浜松城

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浜松城天守2061211改

月山富田城 島根県

完成月山富田城@ヤマシロ

㊟現地説明板を参考に、イメ-ジ図テです('ω')ノ

馬坂城 佐竹寺 茨城県常陸太田市

馬坂城 佐竹寺







佐竹寺
鎌倉時代から江戸時代にかけて常陸国を支配した佐竹氏代々の祈願所。大同2(807)年の開山,あるいは,寛和元(985)年に花山天皇の勅願を受けて元密上人が創建したとも言われています。
創建当初は,鶴ヶ池の北に位置する観音山にあったが,天文12(1543)年に兵火によって焼失,同15(1546)年に佐竹義昭によって再建されました。一時は隆盛を極めたものの,佐竹氏の秋田移封にともない,その寺運はしだいに衰えていきました。
本尊の十一面観音像は,安産や厄除けなどに御利益のあるとされる仏様で,坂東三十三観音二十二番霊所にもあたることから,巡拝者が絶えない古刹としても広く知られています。重厚感あふれる佇まいの本堂は茅葺き寄棟造りで,正面中央には唐破風が設けられており,正面の火頭窓や柱,組物など,あらゆる箇所に桃山時代の建築物の先駆とも言える遺構が残された,常陸太田市の誇る貴重な文化財の一つです。



佐竹寺 茨城県



馬坂城
馬坂城は,平安時代の末期に,新羅三郎義光(源義家の弟)の孫で,佐竹氏の祖とされる昌義が築いた城郭。
約6032平方メートルの敷地に3つの曲輪を設けた平山城で,北を鶴が池,西南を山田川に囲まれた,まさに自然の要塞と言えます。佐竹氏が三代隆義の時代に佐太田城(舞鶴城)に移った後は, 四代秀義の子,義清が稲木氏を名乗って移り住むなど,佐竹氏一族の居住となっていたが,慶長7(1602)年,佐竹氏の秋田移封に伴い廃城となりました。
また,場内には,縄文時代前期の頃と見られる間坂貝塚があります。




馬坂城 城址碑




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