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星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Photo Movie で見る 城館をどうぞ( `ー´)ノ

古城巡り 写真館

PhotoMovieにて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・
城エクスポ2019

甲山城 茨城県土浦市

甲山城







千代田に抜ける県道53号線を千代田方面へ進み、県道199号線を大志戸へと曲がりその先の朝日トンネル南を右に曲がると甲山城の有る低い山が見えます。
登城口は山沿いを走る南側に、三十神社の石階段がピ-ク辺りに有るのでそこから城を登れば10分位で到着します。

城主小神野(おかの)氏は、小田時知の三男時義に始まる。十代越前守経憲の世は戦国時代であった。この城を築いたのは彼であろう。小田氏が佐竹軍のために敗れたとき、小高館・本郷館・永井館などとともに落城した


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南側の三十神社の石階段、階段は直ぐに無くないます




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参道を登り切った場所に有る、三十神社




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東側に有る、土塁か塚か??



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主郭東側の空堀



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主郭西側の堀




甲山城@完成版
㊟イメ-ジ図になります(・Д・)ノ





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小田前山城 茨城県つくば市

小田前山城






位置的には、小田城の直ぐ北側の山が小田前山城となる。国道125号線から右手に入ると直ぐに八幡神社が有ります、ここが城への目印になります。
今回は、八幡神社の鳥居側の空間に駐車しましたが、少し進んだ先の砕石場辺りにも駐車可能です。
八幡神社から道路を進み、右手に砕石場を皆が進みます。すると小田山への登山道の分岐点が出ますので、登山道を進めば
城址到着です。



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目印となる八幡神社、ここが登城口



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東に舟が城展望台??別名??別城??



東西に延びる尾根上にも城の遺構がある。前山山頂の遺構は、独立した山城として完結しており、本来は平地にある小田城中心部の遺構と別個に存在したとみられるが、現状では、小田城の中心部を囲む長大な防御線の一部になっている



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小田前山城 主郭 富岡山頂展望台=土塁




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郭3 西側の堀切



改完成@小田前山城
㊟イメ-ジ図になります(・Д・)ノ





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北条城 茨城県つくば市

北条城は鎌倉時代に北条時家が築いた。時家は八田知家の7男である。後、北条氏は南北朝時代には南朝方として活躍し、戦国時代になると佐竹氏に属し、太田三楽斎などと小田氏の土浦城を攻め落としたりしている。しかし天正10年(1582)、下妻城主である多賀谷政経に攻められると城は落城




北条城 北条小学校
北条城 北条小学校



北条城 城塁
北条城 城塁



北条城 城塁2
北条城 城塁



北条城 多気山城
北条城と多気山城
*北条城は、小学校が建ちほぼ遺構は消滅していると思われるが、西側面は城塁と思える!!

田土部城 茨城県土浦市

戦国時代には、小田政治の次男(庶長子ともいう)信濃守政秀が居館とし、戦争にも絶えうるように整備した。城の中心部の館山が城主の居所、北側の城戸屋敷や東側の宿に家臣団が住んでいたと思われる。南側は登城・登城口と呼ばれるので、大手口に当ろう。「田土部文書」には、政秀の家臣として酒井・桜井・石田・宮本らの執権の外、旗小頭・長柄小頭・諸士・組の者・大工などがおり、諸士の一人中里氏の氏寺が福生院、政秀の妹妙栄の居所跡が比丘尼屋敷といわれる所だった。



田土部城 東
田土部城 東将寺




田土部城 東将寺山門
田土部城 東将寺山門




田土部城 主郭に建つ公民館
田土部城 主郭に建つ公民館




田土部城 古い五輪塔




改田土部城@ヤマシロ
㊟イメ-ジ図になります(・Д・)ノ




田土部城 公民館裏の堀跡
田土部城 公民館裏の堀跡、断片的で有るが遺構が残る




田土部城 公民館裏の土塁
田土部城 公民館裏の土塁



田土部城 登城北側の土塁
田土部城 登城北側の土塁



田土部城 登城北側の土塁と堀
田土部城 登城北側の土塁と堀




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小野小町の墓・・・?????

小野小町は、絶世の美女とうたわれた平安時代の歌人で、言い伝えによると、京都から奥州(東北地方)に旅する途中、清滝観音から北向観音(石岡市小野越(旧八郷町))へ向かいお参りしたあと病に倒れ、この地の村長、小野源兵衛氏宅で親切な介抱を受けたが、元慶7(883)年7月7日69歳でなくなったといわれている。



小野小町墓入り口1
小野小町墓入り口



小野小町の墓入口



小野家では、小町がこの世を去って以来、例年7月7日(旧暦)の命日には、代々供養を続け、昔は近郷からの参詣者がかなりあったようである。
小町の墓には、婦人病に悩む人たちや、参拝すれば美人になれるという話から年頃の娘がよく訪れたらしく、墓前には数多くの「ほうろく」(豆などを炒るときに使う素焼きのフライパン風のもの)が供えられていた。




小野小町の墓
小野小町の墓


小野小町の墓 五輪塔
小野小町の墓 五輪塔


小野小町の物とされる墓も、全国に点在している。このため、どの墓が本物であるかは分かっていない。平安時代位までは貴族も風葬が一般的であり(皇族等は別として)、墓自体がない可能性も示唆される。


秋田県湯沢市小野には二ツ森という深草少将と小野小町の墳墓がある。なお、近隣には、小野小町の母のお墓とされる姥子石など、小野小町ゆかりの史跡が多数存在している。
宮城県大崎市にも小野小町の墓があり、生地の秋田県雄勝郡横堀村に帰る途中、この地で病に倒れ亡くなったと伝えられている。
福島県喜多方市高郷町には、小野小町塚があり、この地で病で亡くなったとされる小野小町の供養塔がある。
栃木県栃木市岩舟町小野寺には、小野小町の墓などがある。
茨城県土浦市と石岡市には、小野小町の墓があり、この地で亡くなったとの伝承がある。この2つの地は、筑波山の峠を挟んでかなり近いところにある。
愛知県あま市新居屋に小町塚があり、背面には「小町東に下るとき此処で死せし」とある。
京都府京丹後市大宮町五十河も小野小町終焉の地と言われ、小町の墓と伝えられる小町塚がある。
京都市左京区静市市原町にある小町寺(補陀洛寺)には、小野小町老衰像と小町供養塔などがある。
滋賀県大津市大谷にある月心寺内には、小野小町百歳像がある。
和歌山県和歌山市湯屋谷にも小町の墓があり、熊野参詣の途中この地で亡くなったとの伝承がある。
鳥取県伯耆町にも同種の言い伝えがあり、小町地区に墓がある。また隣接して小野地区も存在する。
岡山県総社市清音黒田にも、小野小町の墓がある。この地の伝承としては、小町が「四方の峰流れ落ちくる五月雨の黒田の蛭祈りますらん」とよむと、当地の蛭は吸い付かなくなったという蛭封じの歌が伝えられている。
山口県下関市豊浦町川棚中小野にも、小野小町の墓がある。
神奈川県厚木市小野には、嘉永元年に建てられた拝殿の横に、小町塚が存在する。




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春日山林泉寺 上杉家の歴史がここに!!

上杉謙信公 春日山城



泥足毘沙門天像 春日山城
泥足毘沙門天像 春日山城


今をさかのぼること500年以上の昔・・・越後守護代長尾重景と、諸国を行脚していた曇英慧応という室町時代の曹洞宗を代表する高僧が、上越の柿崎の地で運命的な出会いをした。重景は曇英和尚の人柄と、和尚の説く仏の教えに深く感じ入り、越後に留まってもらうために下小野という場所に庵を建て、そこに留まってもらうことにしたという。その庵こそが林泉寺の原点である。
重景が歿した時息子能景は、父の17回忌までには春日山城の麓に曹洞宗の修行道場としてふさわしい林泉寺を新たに建立すると宣言し、落慶式に迎えに行くと約束をして、別れる。

1497年(明応6年)能景自身が土を運び、汗を流して完成させた七堂伽藍落慶のため、齢70をすぎ老境にあった曇英ははるばる群馬から足を運び、旧き友能景との過去の約束を果たしたのであった。

その約40年後、能景の孫でまだ7歳の幼い少年が、林泉寺の門をくぐり、そののち7年間、6代目住職天室光育のもとで薫陶を受け育てられた。その少年こそがのちの上杉謙信、すなはち長尾虎千代であった・・・・・




春日山城城門 春日山林泉寺
春日山城の搦手門の移築と伝わる、総門 



春日山林泉寺 総門
春日山林泉寺 山門




第一義 春日山林泉寺
山門には謙信公直筆の大額「第一義}





春日山林泉寺 庭園
春日山林泉寺 庭園





春日山林泉寺 本堂
春日山林泉寺 本堂




川中島合戦戦没者供養塔
川中島合戦戦没者供養塔




上杉謙信公墓所 春日山林泉寺
上杉謙信公御墓 春日山林泉寺





長尾為景の御墓 長尾能景の御墓
長尾為景(父)の御墓 長尾能景(祖父)の御墓 (謙信公御墓の奥に有ります)

法音寺 上杉家歴代藩主の菩提寺

上杉家藩主 菩提寺
上杉家藩主 菩提寺


八海山縁起によれば、藤原政照卿が、天皇の命を受けて諸国巡視中、越後国、飯盛山の麓で病死、その菩提を弔うため、行基菩薩が、勅命によってその地に法相宗の寺を建立したのが始まりとあります。寺号は政照卿の法名「都正院殿正二位政照法音大居士」に依ったものです。
 その後、越後国、真言宗国分寺兼務を命ぜられ、建久8(1197)年、源頼朝公の祈願寺となり、天正年間には、上杉家の帰依寺となって春日山に移されました。
 そして、慶長6(1601-400年前)年、会津を経て米沢に移られたのに随って、施主、景勝公によって、米沢城二の丸に伽藍が建立されました。景勝公御逝去の際は、法音寺住職能海僧正が葬儀の導師を務め、以後、歴代藩主の葬儀は、すべて法音寺住職が導師を務めることになり、上杉家歴代藩主の菩提寺となりました。米沢城下絵図(寛文の頃)より更に、大御堂に勤仕する真言21ケ寺の二の丸寺院の筆頭役、及び真言宗僧録司となり、藩内150ケ寺の統轄をするようになりました。




春日山城 毘沙門天像春日山城 泥足毘沙門天像

上杉謙信公の居城である越後春日山本丸北側にあった毘沙門堂のご本尊で、謙信公が最も崇拝された御守本尊であった。特に出陣にあたっては、数日篭って読経し祈り続けたといわれ、ある時、夜を徹して祈願をこめて朝になると、護摩壇(ごまだん)の上から外に向って点々と毘沙門天の足跡が残っていたことから、謙信公の戦陣にまで出向かれて加勢されたということで、上杉家では特に「泥足毘沙門天」と尊称して、善光寺如来尊とともに米沢城内本丸に造営された御堂に、謙信公のご尊骸を中央にして左右に祀り、歴代藩主によって深く尊崇された。明治九年当寺に移され奉安された。
出陣の際、謙信公が主だった武将を毘沙門堂に招集して"正義の戦い"であるとの誓いをこめて戦勝を祈願した「武てい式」はあまりに有名である。又、上杉の軍旗「毘」の字はこの毘沙門天信仰によるものである。


上杉謙信公 米沢
上杉謙信公 米沢




上杉家廟所
上杉家廟所



上杉家廟所 参道
上杉家廟所 参道



歴代藩主廟所 右側
歴代藩主廟所 右側




歴代藩主廟所 左側
歴代藩主廟所 左側




上杉家御廟所 不識院殿
上杉家御廟所 不識院殿


上杉謙信が越後国(新潟県)春日山城に没すると、その遺骸は漆を塗り甲冑を着せて埋葬された。後継者の上杉景勝は、後に天下統一を果たした豊臣秀吉の臣下となり五大老に任じられ、会津へ移動。 それに伴い謙信の霊柩も越後から会津に移され仮堂に安置されたと云われている。
慶長6年(1601年)関ヶ原の戦い後、上杉家は米沢に移動を命じられ、謙信の霊柩も再び移動することになる。 景勝は米沢入りを果たすと米沢城本丸に御堂を建立し謙信の霊柩をそこに安置したのである。
現在の上杉家廟所は米沢城址の北西あたりに位置しており、この場所は元々米沢城に一大事があった場合、一時的に謙信の霊柩を避難させる場所として設けられたと云う。
元和9年(1623年)景勝が他界すると現在の廟所に埋葬され、以後十二代藩主までここに埋葬される事になる。 明治政府の「廃城令」に伴い米沢城は解体され、謙信の霊柩も移動する事になり、当地に移る。
尚、現在の廟所は謙信霊廟を中央にして、その左右に歴代藩主の霊廟(墓所)が厳かに立ち並んでいる。二代景勝から八代重定までは、火葬での埋葬が行われ、御堂は入母屋造りの建造物である。さらに九代治憲から十二代斉定までは土葬となり御堂も宝形造りとなっている。治憲の倹約令により、構造も簡略化され材質も落とされている。 藩主ではないが、治憲の実子で十代治広の養嗣子であった顕孝も共に祀られている。また、明治以後に死去した十三代斉憲からは東京に墓所があるが、十四代茂憲は沖縄県令としての功績をたたえられ、沖縄県民有志により歴代藩主廟に並んで記念碑が建てられている。
地元では御霊屋(おたまや)とも呼ばれている

正定寺 土井家歴代の菩提寺

江戸時代の寛永10年(1633年)、幕府大老を務めた古河城主・土井利勝が開基、当誉玄哲(とうよ げんてつ)が開山にあたり、土井家歴代の菩提寺となった。古河城観音寺曲輪の堀を挟んだ北側に隣接し、追手門に近い武家地に立地していた。
『古河志』に引用されている当寺の略縁起によれば、開山にあたった玄哲は江戸(東京・芝)の増上寺十三世・廓山上人の弟子で、大和国(奈良県)出身。古河市下大野にある同名の「正定寺」41世だったが、利勝の招きに応じて城下にこの寺を開山。両寺ともに土井家の菩提寺として保護された。
土井家墓所は東京・浅草の誓願寺にあったが、関東大震災の復興工事に伴って立ち退きが必要となり、昭和2年(1927年)、正定寺に移転・改葬。平成2年(1990年)には、増上寺内の安蓮社にあった利勝の墓碑も移されている。



土井家墓所 正定寺
土井家歴代の菩提寺 正定寺



土井利勝座像
土井利勝座像




土井利勝に関する石碑
侍従樅碑~土井利勝公御代記   徳川家康居城の浜松城にて誕生し、家康の御子と刻まれている。




本堂は 2 回焼失しており、現在の本堂は1832年(天保3年)4月21日、11代古河城主である土井利位によって再興された。本堂の他に、赤門・黒門・鐘楼堂の他、春日局が徳川家光より拝領し、堀田正俊が譲り受けたと伝わる開運弁女天などを収めた弁天堂、稲荷堂、芭蕉塚、徳川家綱の生母・お楽の方の墓もある。赤門は、8代土井利里が1775年(安永4年)に建立。黒門は、東京の土井邸から1933年(昭和8年)に移築されたものである。


土井家屋敷門
旧土井家江戸屋敷表門(黒門): 東京・本郷にあった旧古河藩主土井家の下屋敷表門が、昭和8年(1933年)に移築・寄進された。上層武士の家の門として用いられることの多い薬医門構造。高さ470cm、幅621cm、瓦葺。古河市指定文化財



お楽の方供養塔
お楽の方供養塔 四代将軍家綱の母、お楽の方の供養塔があり、お楽の方が安産を祈願した岩舟地蔵が残る



土井家墓所
土井家墓所 墓地の奥の方、塀に囲まれた一画が土井家墓所です。浅草の誓願寺から震災により移転したとある。
中央が土井利勝夫妻の宝篋印塔、右側に土井家歴代当主の宝篋印塔。






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隆岩寺 小笠原秀政が正室の父 松平信康を弔うために開基

安土桃山時代の文禄4年(1595年)、古河城主・小笠原秀政が正室の父・松平信康を弔うために開基した。開山は岌道上人による。松平信康は徳川家康の長男だったが、武田勝頼との内通を疑われ、織田信長の命により自害・非業の死を遂げていた


隆岩寺 茨城県古河市
隆岩寺 茨城県古河市


岡崎三郎供養塔
松平信康供養塔



小笠原氏墓所
小笠原貞慶の供養塔


小笠原貞慶は古河城主・小笠原秀政の父。文禄4年(1595年)に古河で亡くなったが、その墓の所在はしばらく不明になっていた。しかし寛政5年(1793年)、町内の石町北裏四つ谷・正麟寺山という所の土中から、墓石が発見されたため、隆岩寺の住職と小倉藩主となっていた小笠原氏の子孫により移され、石龕の中に納められたものである。古河市指定文化財(史跡)




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お万の方ゆかりのお寺 妙光寺

法興山妙光寺境内に徳川家康の側室で後の徳川御三家のうち紀伊徳川家の始祖頼宣(1602〜1671)と水戸徳川家の始祖となる頼房(1603〜1661)をもうけたお万の方の石塔があります。


お万の方 ゆかりの寺お万の方 ゆかりの寺



妙高寺
法興山妙光寺


「将軍徳川家康の側室で、紀伊徳川家の祖頼宣、水戸徳川家の祖頼房の生母。

天正5年(1577)上総勝浦城の正木左近大夫邦時の娘として生れる。
後、影山長門守利広の養女になったと伝えられ、幼少より法華経に結縁していた。

文禄2年(1592)17歳、縁あって徳川家康に仕え、晩年の家康に最も寵愛された女性となった。

お万の方は、33歳の若さで身延山久遠寺に晋山した心性院日蓮上人に師事して、法華信仰の道に入った。

お万の方は、息子の紀州大納言頼宣と水戸中納言頼房に命じて大野に大伽藍を寄進させた。これが今の本遠寺である。
以後お万の方の本宗外護の丹誠は厚く、日蓮大聖人の霊蹟復興に尽力した。

元和2年(1616)家康が亡くなると養珠院と号した。

寛永17年(1640)にはそれまで女人禁制であった身延の七面山に、「女人成仏の法華経守護の七面天女の御山に法華経を信ずる女人が登れぬはずはない」と白糸の滝で7日間の水こりをとって、初めて女人として山頂を極めた。
七面山女人踏み分けの祖とされる由縁である。

承応2年(1653)8月21日江戸紀州邸にて77歳の生涯を閉じた。(遺言により本遠寺に葬られた)

お万の方は、日光東照宮参拝の折り、妙光寺に、度々立ち寄られている。
即本尊並びに諸尊像はお万の方の御建立である。大野山本遠寺との縁あってお万の方の遺骨を分骨して埋葬された。現在、「養珠院殿妙詔日心大姉]と云う法名が一般的であるが、当山に於いては「養珠院妙詔日心大姉」と云う
「殿」のない戒名になっている。
この事はお万の方がお亡くなりになられてからすぐに分骨されてお墓が建てられたと云う事実を示している。

平成20年6月、当山歴代の墓地にあったものを、350有余年を過ぎて風化著しいため、現在地に整備し永遠に後世に伝えるものである。」
(現地説明石碑より)



お万の方墓所
お万の方供養塔


お万の方 石碑
お万の方 石碑





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