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星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Photo Movie で見る 城館をどうぞ( `ー´)ノ

古城巡り 写真館

PhotoMovieにて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・
城エクスポ2019

那須塩原市 城館を巡る ダイジェスト 栃木県

那須塩原市 城館を巡る






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宇都野城



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真木城



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田野城



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塩原城



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小原沢の戦い 塹壕跡

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宇都野城(鳩ヶ森城) 栃木県那須塩原市

宇都野城(鳩ヶ森城)主郭迄






宇都野城(鳩ヶ城)外郭迄







寛治3年(1089)に山本上総介家隆によって築かれた。山本氏は白鳳時代に創建された嶽山箒根神社の別当職を代々務めた家系で、後三年の役の際、源義家に従い軍功をたて、山本上総介家隆と名を改めた。併せて箒川沿岸8か村、伊佐野郷15か村を支配した。
鎌倉時代以後、室町時代にかけて塩谷郡は主に宇都宮城主に従う豪族山本氏・氏家氏・塩谷氏の3氏が支配していた。天文2年(1533)城主山本伊勢守資宗の時代、大田原備前守資清に攻略され、鳩ヶ森城は落城し、28代440年余続いた山本城主の歴史は終焉した。
城郭は南北約220メートル、東西約150メートルの楕円形で、東面は箒川に沿って斜面があり、南西側には深い天然堀、北面には土塁を高く築かれている。城跡の保存状態が良く、当時の城の規模や形状がよく分かる。


雨上がり後の為、長靴を履いてもズボンがずぶ濡れになってしまいました( ゚Д゚)が!!主郭を見終わた直後に地元の方でしょうか?草刈りの方が大勢来ました・・・・。




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宇都野城(鳩ヶ森城)城址入り口 東側



DSC_2153主郭堀切
主郭堀切



DSC_2168宇都野城主郭
宇都野城主郭



DSC_2174主郭北東土塁上の神社
主郭北東土塁上の神社



DSC_2224外郭 北西の土塁残欠
外郭 北西の土塁残欠



完成宇都野城@ヤマシロ
*イメ-ジ図になります



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真木城(野沢城) 栃木県那須塩原市

真木城




*詳細はデジブックをご覧ください。


塩谷氏の居城川崎城(矢板市)の支城で、北辺の守りのため城代大舘弾正義則が寛正2年(1461)に築造したと伝えられ、真木城とも言われている。

天正12年(1584)の薄葉ヶ原の戦いの折り、大田原綱清氏に攻められ落城、滅ぼされた。

その後、宝永5年(1708)、箒川大洪水と真木水害のため金沢字真木に鎮座されていた箒根神社を真木城跡に移した。

城郭は南北約50m、東西約150mで、高さ約20m余りの高所にあり、中央には本丸を置き、2か所の曲輪を設けている。その周囲には土塁、正面には3つの矢倉をつけた大手門を持ち、南の野沢筋の崖を天然の城壁とし、周囲には空堀を設けている。

さらに、城郭の中央に深い空堀を巡らし、木橋で本丸に接続し、本丸と曲輪には馬出しがあり、当時の威勢が偲ばれる。


城址は神社の階段を登れば社殿の有る場所が主郭で、奥に土塁と堀切が残り堀切の奥が曲輪2となる、北側は沢が入り込み天然の空堀で南側には野沢川が流れる。



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真木城(野沢城)


DSC_2249箒根神社 主郭
箒根神社 主郭


DSC_2251 主郭 土塁
主郭 土塁


完成@真木城



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田野城 栃木県那須塩原市

田野城



*詳細はデジブックをご覧ください。


正安年間(1299~1302)、関谷太郎兼光の築城、塩谷氏の支城として永正年間(1504~21)まで存続したと伝わる。
現在はオ-トキャンプ場となり、大夫遺構は改変されていると思われる。
南西の箒川沿いと東側の林の中に堀と土塁が残るが、キャンプ場中央部に関しては遺構は消滅している。



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田野城=オ-トキャンプ場入り口


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南西(入り口正面の突き当りの林)横堀が残る


DSC_2305堀
東側の林の中の堀



完成 田野城@ヤマシロ




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塩原(要害)城 栃木県那須塩原市

塩原(要害)城






平安時代より塩原の地は宇都宮城主の領地で、塩谷氏の一族の塩原氏が地頭であった。保元元年(1156)頃に「八郎ヶ原」舘を構えていたが、治承2年(1178)箒川と善知鳥沢との合流点の高台に塩原(要害)城を築いたと言われている。
鎌倉時代に入り、長沼(小山)宗政の領地となり、塩原氏はその支配下で領地を守ってきたが、その後、宇都宮系の君島信濃守、小山系ともいわれ橘伊勢守の支配を受け、文亀2年(1502)会津芦名氏の傘下であった小山出羽守が一時城主となったが、戦国時代に宇都宮家臣の塩原越前守が大改修を行ない、ほぼ現在の城郭になった。しかし慶長2年(1597)、宇都宮氏の改易と共に、約420年続いた塩原城も廃城となった。
城郭は東西約300メートル、南北約250メートルに及ぶ塩原最大のもので、約40メートルの断崖が自然要害になっている。その中心には約30メートル四方の本丸を置き、虎の門や馬出しを設置、外敵に備え空堀を二重に廻し、大手門にあたる本丸には、南北約100メートル、高さ約5メートルの土塁を築いた強固な城構えとなっている。


塩原城@完成版


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西側の土塁と説明板




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小原沢古戦場(戊辰戦争)

小原沢古戦場



小原沢付近では、幕府と会津藩の連合軍が村民を総動員し自然の地形を利用して要塞化、理想的な陣地を作った。細い上り坂になっている陣地前の道を登ってくる官軍勢を迎え撃った。会津軍の目論見どおり、官軍が大敗した。この地点の攻防は、歴史に残る激戦となり両軍併せて21名が戦死した。
 この地点の戦死者の慰霊碑として、激戦の行われた日と同じ6月26日に建てられた。

 
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小原沢の戦い (受難の碑)


戊辰戦争は、いうまでもなく日本中を舞台にして行われた内戦である。この一部が会津若松への戦いとして、旧藤原町全体を巻き込んで展開された。旧幕軍の旗頭である会津藩の本拠地若松城に通じる街道が通っている地域であるので当然の成り行きであった。
 両軍の戦略目標は、会津軍側では、東北・日光への拠点宇都宮に出てて政府軍に対する優位性を確保することにあった。また政府軍は、降雪期の到来前に若松城を落とすことにあった。
 日光神領の戦火を回避した両軍は、二度に渡る今市大攻防戦の後、藤原周辺の各村落を拠点に4月から8月まで一進一退を繰り返し、膠着状態を続けた。

旧藤原町を舞台にした戦い
・ 4月末   栗原、柄倉で戦い始まる。
・ 5月    高徳、大原の戦いで後退した会津軍は小原沢、滝地区に政府軍を迎え撃ち、逆襲に転じ今市戦の雪辱を果たす。
・ 7月    膠着状態の中、戦線が白河口へ移動。
・ 8月    藤原・上三依・横川で小競り合いを繰り返しながら、月末には山王峠を政府軍が通過し、田島盆地へと転戦。

 この期間、街道沿いの各村落では、退却する会津軍の放火にあって、壊滅的な打撃を受けた。人馬の徴発・戦場の後始末など多大な負担を強いられた。



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現地説明板


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小原沢の塹壕跡




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大洲城~ここにも藤堂高虎の名が!!

大洲城






 肱川の河畔に望む大洲城は、元弘元年(1331年)鎌倉時代末期に守護として国入りした伊予宇都宮氏の宇都宮豊房によって築城されたといわれ、その後、藤堂高虎等によって大規模に修築がなされ、伊予大洲藩の政治と経済の中心地として城下町は繁栄していきました。
 明治維新後は、城内のほとんどの建築物が破却されたものの、地元住民の活動によって本丸の天守・櫓は一部保存されましたが、明治21年(1888年)老朽化により、惜しくも天守は解体されました。
 その後、大洲城を愛する地元住民の城郭への保護活動と、市民による寄付等によって平成16年(2004年)に復元されました。
 四層四階の複連結式天守の復元にあたっては、明治時代の古写真や「天守雛形」と呼ばれる江戸期の木組み模型など豊富な資料を基に当時の姿を正確に復元されました。このように復元に必要な多くの資料が残っていることは大変稀なことで、大洲城の天守の復元は、まさに地元住民の想いと、史料研究の集大成と言えます。
 現在、江戸時代から残る台所櫓・南隅櫓など4棟の櫓は国の重要文化財、城跡一帯が県指定史跡に指定されています。




大洲城 天守1
大洲城 木造復元天守




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宇和島城~藤堂高虎築城

宇和島城








伊達十万石の城下町”と呼ばれ、江戸時代から四国西南地域の中心として発展してきた宇和島市は、日本屈指のリアス式海岸地帯にあります。城はその最深部、現市街地のほぼ中央にあり、慶長元~6年(1596~1601)の藤堂高虎創建時には大半が海に面する地形を巧みに活かした縄張となっていました。石垣や天守、矢倉は、元和元年(1615)に入部した伊達家により修築されていきますが、基本的な城構えは高虎時代のものを引き継いでいます。
現在、堀はすべて埋められ、三之丸をはじめ総郭部分約28万平方メートルは失われてしまいましたが、本丸・二之丸などの郭を含む約10万平方メートルの城山は、国史跡(昭和12年)に、現存12天守の1つに数えられる天守は国重要文化財(昭和9年)、そして南側登城口城門の上り立ち門は市指定文化財(昭和38年)に指定されています。




宇和島城 天守
宇和島城 天守



宇和島城 絵図現地説明板より
宇和島城 絵図現地説明板より





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太宰府~古代日本の「西の都」

大宰(おほ みこともち)とは、地方行政上重要な地域に置かれ、数ヶ国程度の広い地域を統治する役職で、いわば地方行政長官である。大宝律令以前には吉備大宰(天武天皇8年(679年))、周防総令(天武天皇14年(685年))、伊予総領(持統天皇3年(689年))などあったが、大宝令の施行とともに廃止され、大宰の帥のみが残された。
『続日本紀』文武天皇4年(700年)10月の条に「直大壱石上朝臣麻呂を筑紫総領に、直広参小野朝臣毛野を大弐(次官)と為し、直広参波多朝臣牟後閇を周防総領と為し」とあるように「総領」とも呼ばれた。
大宝律令(701年)によって、九州の大宰府は政府機関として確立したが、他の大宰は廃止され、一般的に「大宰府」と言えば九州のそれを指すと考えてよい。また、その想定範囲は、現在の太宰府市および筑紫野市に当たる。遺跡は国の特別史跡。
平城宮木簡には「筑紫大宰」、平城宮・長岡京木簡には「大宰府」と表記されており、歴史的用語としては機関名である「大宰府」という表記を用いる。都市名や菅原道真を祀る神社(太宰府天満宮)では「太宰府」という表記を用いる。「宰府」と略すこともある。
なお地元では、史跡は「都府楼跡」(とふろうあと)あるいは「都督府古址」(ととくふこし)などと呼称されることが多い。



大宰府 正面



太宰府石碑


外交と防衛を主任務とすると共に、西海道9国(筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後、日向、薩摩、大隅)と三島(壱岐、対馬、多禰(現在の大隅諸島。824年に大隅に編入))については、掾(じょう)以下の人事や四度使の監査などの行政・司法を所管した。与えられた権限の大きさから、「遠の朝廷(とおのみかど)」とも呼ばれる。
軍事面としては、その管轄下に防人を統括する防人司、主船司を置き、西辺国境の防備を担っていた。
外交面では、北九州が古来中国の王朝や朝鮮半島などとの交流の玄関的機能を果たしていたという背景もあり、海外使節を接待するための迎賓館である鴻臚館(こうろかん)が那津(現在の博多湾)の沿岸に置かれた。
長官は大宰帥(だざいのそち)といい従三位相当官、大納言・中納言クラスの政府高官が兼ねていたが、平安時代には親王が任命されて実際には赴任しないケースが大半となり、次席である大宰権帥が実際の政務を取り仕切った(ただし、大臣経験者が左遷された場合、実務権限はない)。帥・権帥の任期は5年であった。また、この頃は、唐宋商船との私貿易の中心となった。 北部九州六国から徴発された西海道の仕丁は、太宰府に集結させられた。そのうち400人前後が太宰府官人の事力(じりき)となり、あるいは主船司等に配属された(『延喜式』民部下)。このほか観世音寺の造営のための駆使丁としても使役された(『続日本紀』和銅2年(709年)2月戊子条)。




太宰府2




太宰府4




太宰府5

鴻臚館~古代の迎賓館

鴻臚館(こうろかん)は平安時代に設置された外交および海外交易の施設である。前身として筑紫館や難波館が奈良時代以前から存在した。
その名称は北斉からあった九寺のうちの外交施設「鴻臚寺」に由来し、唐の時代にその名称が日本に導入された。「鴻」は大きな鳥の意から転じて大きいの意。「臚」は腹の意から転じて伝え告げるの意。「鴻臚」という言葉は外交使節の来訪を告げる声を意味していた。



筑紫館 遠景
筑紫館 遠景

この施設は筑紫館(つくしのむろつみ)と呼ばれ、唐・新羅・渤海の使節を迎える迎賓館兼宿泊所として機能し、海外使節はまず鴻臚館に入館して大宰府や都へ上ることとなっていた。筑紫館と大宰府の間は約16キロメートルだが、そこを最大幅10メートルの側溝を完備した直線道路が敷設されていた。ただしこの道路は8世紀内に廃道となる。持統2年(688年)には筑紫館で新羅国使全霜林を饗したと『日本書紀』に記されている。また海外へ派遣される国使や留学僧らのための公的な宿泊所としても用いられた。天平8年(736年)に新羅へ派遣される遣新羅使が筑紫館で詠んだ歌が『万葉集』に収録されている。律令制においては治部省玄蕃寮の管轄であった。筑紫館はまた外国商人らの検問・接待・交易などに用いられた。





ころ館遠景
大宰鴻臚館




こうろ館 内部1
鴻臚館跡展示館 内部で保存されている遺構




こうろ館 内部2
鴻臚館跡展示館 内部で保存されている遺構





当初鴻臚館での通商は官営であった。商船の到着が大宰府に通達され、大宰府から朝廷へ急使が向かう。そして朝廷から唐物使(からものつかい)という役人が派遣され、経巻や仏像仏具、薬品や香料など宮中や貴族から依頼された商品を優先的に買い上げた。残った商品を地方豪族や有力寺社が購入した。商人は到着から通商までの3か月から半年間を鴻臚館内で滞在。宿泊所や食事は鴻臚館側が供出した。その後延喜3年(903年)の太政官符には朝廷による買上前の貿易が厳禁されており、貿易が官営から私営に移行していることが窺える。そして延喜9年(909年)には唐物使に代わって大宰府の役人に交易の実務を当たらせている。
貞観11年(869年)の新羅の入寇の後、警固所として鴻臚中島館を建設し大宰府の兵や武具を移した。また1019年の刀伊の入寇の後、山を背にした地に防備を固めたという記述があり、これも鴻臚館の警固所を指しているとされる。
やがて時代が下って北宋・高麗・遼の商人とも交易を行ったが、11世紀には、聖福寺・承天寺・筥崎宮・住吉神社ら有力寺社や有力貴族による私貿易が盛んになって現在の博多から箱崎の海岸が貿易の中心となり、大宋国商客宿坊と名を変えた鴻臚館での貿易は衰退。永承2年(1047年)には放火される。寛治5年(1091年)に宋商人李居簡が鴻臚館で写経した記述を最後に文献上から消えることとなる




こうろ館 説明板




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