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星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Photo Movie で見る 城館をどうぞ( `ー´)ノ

古城巡り 写真館

PhotoMovieにて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・
城エクスポ2019

八王子城&滝山城 ダイジェスト

八王子城&滝山城






八王子城城址碑 管理棟前


滝山城 本丸の城址碑


㊟今回八王子城は、太鼓曲輪と御主殿は行っていません又滝山城の山の神曲輪も行っていません

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滝山城 東京都八王子市

滝山城 大手から本丸背後迄







滝山城 小宮曲輪南側の堀
滝山城 小宮曲輪南側の堀



滝山城 三ノ丸南側の堀
滝山城 三ノ丸南側の堀



滝山城 本丸から馬出






滝山城 本丸の城址碑
滝山城 本丸の城址碑



滝山城 本丸にかかる曳橋(復元)
滝山城 本丸にかかる曳橋(復元)



滝山城 本丸で奥が霞神社、金毘羅神社(櫓台)
滝山城 本丸で奥が霞神社、金毘羅神社(櫓台)




滝山城 中丸からの展望、ここに武田軍が展開していたのか!!
滝山城 中丸からの展望、ここに武田軍が展開していたのか!!



滝山城 東馬出、この城の絶対的防業体制!!
滝山城 東馬出、この城の絶対的防業体制!!



滝山城 角馬出、ここまで馬出が連結されている!!
滝山城 角馬出、ここまで馬出が連結されている



二ノ丸城塁
二ノ丸城塁


1521年(永正18年)山内上杉氏の重臣で、武蔵国の守護代大石定重が築城し、高月城から移ったという。1546年(天文15年)、北条氏康が河越の夜戦(河越城の戦い)で扇谷上杉氏を滅ぼし、山内上杉氏の勢力を武蔵から排除すると、大石定久は北条氏康の三男・氏照を娘婿に迎え、事実上、大石氏は北条氏の軍門に下った。1558年(永禄元年)頃、北条氏照は城の大改修を実施した。
1569年(永禄12年)、小田原攻撃に向かう武田信玄軍2万が滝山城の北側の拝島に陣を敷き、別働隊の小山田信茂隊1千が小仏峠から進入、これに対し北条方は廿里で迎撃したが一蹴され(廿里古戦場)、滝山城三の丸まで攻め込まれ落城寸前にまで追い込まれたが、2千の寡兵で凌いだ。しかしこの戦いは、滝山城の防御体制が不十分であることを痛感させ、八王子城を築城し移転するきっかけとなったといわれている。

2017年(平成29年)、続日本100名城(123番)に選定された。

多摩川と秋川の合流点にある加住丘陵の複雑な地形を巧みに利用した天然の要害で、関東随一の規模を誇ったという。
現在、遺構として本丸・中の丸・千畳敷跡空堀などが残っており、国の史跡に指定されている(1951年(昭和26年)6月9日指定)。大部分が東京都立公園「滝山自然公園」となり桜の名所である。



滝山城 イメ-ジ図@ヤマシロ
㊟イメ-ジ図になります(・Д・)ノ





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八王子城 東京都八王子市 2017改

八王子城


八王子城城址碑 管理棟前
八王子城城址碑 管理棟前






八王子城は北条氏の本城である小田原城の支城であり、関東の西に位置する軍事上の拠点であった。標高445m(比高約240m)の深沢山(現在の城山)に築城された中世山城である。深沢山は華厳菩薩妙行が延喜13年(913年)に山頂で修行した山で、修行中に牛頭天王と8人の王子が現れたとして延喜16年(916年)に八王子権現を祀ったことから、八王子城と名付けられた。


金子曲輪 馬蹄段
金子曲輪 馬蹄段



柵門跡手前、側面石垣の現状
柵門跡手前、側面石垣の現状



八王子城本丸跡
八王子城本丸跡



八王子城 詰城手前の石塁
八王子城 詰城手前の石塁



八王子城 駒冷し(馬令し)これは堀切!!
八王子城 駒冷し(馬令し)これは堀切



八王子城大天守
八王子城大天守 詰城エリア



八王子城 富士見台
八王子城 富士見台



縄張りは北浅川と南浅川に囲まれた東西約3km、南北約2-3kmの範囲に及び、山の尾根や谷など複雑な地形を利用していくつかの地区に分けられ、山頂に置かれた本丸、松木曲輪や小宮曲輪など何段もの曲輪を配置した要害地区、城山川沿いの山腹に御主殿と呼ぶ館を構えてその東側にアシダ曲輪で防衛している居館地区、城山川に沿った麓に城下町を形成した根小屋地区、などで構成されていた。要害地区にはいくつもの砦を配し、それらを結ぶ連絡道の要所には深い堀切や竪堀、兵舎を建てるための曲輪などが造成されていた。特に、居館地区の南側尾根にある太鼓曲輪は5つの深い堀切で区切られ、南側を石垣で固めるなど、容易に尾根を越えられない構造となっていた。城下町には、武家屋敷のある中宿、刀剣鍛冶職人の居住区である鍛冶屋村に加え、滝山城下から移転した商業地区の八日市、横山、八幡といった3つの宿場があった。また出城には、搦手の防衛線を形成する浄福寺城(案下城)、小田野城の他、初沢城などがあった。


八王子市文化財課が管理する現在の「八王子城跡」としての範囲には太鼓曲輪尾根の南斜面などの区域が含まれておらず、16世紀当時より狭い範囲に限定されている。史跡に含まれていない区域は霊園や私有地が入り組んでいるため、住宅地の中にも多くの遺構を確認することができる。




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福島の城館を巡る 天栄村 白河市

福島の城館を巡る 天栄村 白河市




福島県天栄村、白河市の城館のまとめです

馬入峠堡塁 西側
馬入峠堡塁 西側


大里牛ヶ城 R294側の入り口
大里牛ヶ城 R294側の入り口


羽黒館 遠景
羽黒館 遠景


革籠原防塁 駐車入り口
革籠原防塁 駐車入り口


三森館 東側の横堀
三森館 東側の横堀


天王館 大手?虎口?
天王館 大手?虎口


天王館 天王館から見える堀之内館
天王館 天王館から見える堀之内館


新地山館 遠景
新地山館 遠景

堀之内館 福島県白河市

堀之内館
直ぐ側に、天王館位置し詳細については不明で在る
 阿武隈川の支流社川の北岸に独立丘陵に所在し構造はシンプルに二つの曲輪に堀切が2本のみで在る。


堀之内館 麓から見上げる
堀之内館 麓から見上げる、墓地の左手側の斜面より直登へ・・・・


堀之内館 曲輪2南東下段の曲輪
堀之内館 曲輪2南東下段の曲輪


堀之内館 曲輪2
堀之内館 曲輪2


堀之内館 曲輪2北側の腰曲輪
堀之内館 曲輪2北側の腰曲輪


堀之内館 1本目の堀切
堀之内館 1本目の堀切


堀之内館 曲輪1の祠
堀之内館 曲輪1の祠


堀之内館 曲輪1南側の腰曲輪
堀之内館 曲輪1南側の腰曲輪


堀之内館 祠背後の土塁
堀之内館 祠背後の土塁


堀之内館 曲輪1背後の堀切
堀之内館 曲輪1背後の堀切




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天王館 福島県白河市

表郷地域の河東田地区に存在する城館跡である。天王寺館・河東田城の別名がある。
標高337mの独立した丘陵上にあり、各方位を見渡せる要衝の地であった。丘陵頂部に東西約40m、南北約50mの主郭があり、その南方は緩やかな斜面となっている。また主郭を取り巻くように空堀、数段の腰曲輪が配置されており、山麓から頂上まで高低差があまりない点を配慮したものと思われる。

天王館 大手?虎口?
天王館 大手?虎口

天王館 現地説明板
天王館 現地説明板


城主は白河結城氏の一門河東田氏で、結城顕朝の次男朝重の子孫にあたる重継が河東田を領有し、館を築いたと伝えられる。
天正年間(1573~1592)の頃、領主は河東田上総守(清重)で、天正3年(1575)、常陸の佐竹義重は白河領の棚倉赤舘を攻略した。翌年、白河勢はそれを奪回するため最前線となるこの天王館に集結し、赤舘に夜討ちをかけてこれを奪取したという。
しかし天正7年(1579)5月、佐竹は大軍で赤舘、天王館をはじめ近隣の諸域を攻略し、さらには白川城も攻略した。天正18年(1590)には豊臣秀吉により白河領は没収され、清重は結城義親に従って伊達家の家臣となり、天王館は廃城となった。
現在、この場所には白幡神社、奥に八坂神社(河東田牛頭天王祭を実施)が置かれており、参道西側が虎口、参道側が大手、北側が搦手であったと思われる。


天王館 大手口 参道
天王館 大手口 参道


天王館 西側斜面
天王館 西側斜面


天王館 南斜面
天王館 南斜面


天王館 参道添いの土塁?
天王館 白旗神社の参道


天王館 白旗神社
天王館 白旗神社


天王館 神社裏手側
天王館 神社裏手側


天王館 天王館から見える堀之内館
天王館 天王館から見える堀之内館




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三森館 福島県白河市

完成三森館@ヤマシロ
㊟イメ-ジ図になります(*ノωノ)



三森館






天正年間、三森安芸守の居城であったという。
天正17年、伊達政宗によって二階堂氏が滅ぼされ、石川・白河結城氏らが伊達に寝返った後、佐竹義重は、前線の守備のため、多くの支城に配下の武将を駐屯させている。このうち「三森には大膳亮」とある。


三森館 城址入り口
三森館 城址入り口、この入り口が解ればすぐに城址


三森館 城址への登城道
三森館 城址への登城道


三森館 東側の横堀
三森館 東側の横堀、曲輪1の馬出手前の堀


三森館 北面の帯曲輪
三森館 北面の帯曲輪、北面に東西に延びる曲輪




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新地山館 福島県白河市

完成 新地山館@ヤマシロ
㊟イメ-ジ図になります(-ω-)/



新地山館





新地山館がいつごろ築かれたのかは不明ですしかしこの地に城を構えた目的は白川結城氏が阿武隈川下流から攻め寄せる敵に対しる備えと考えられます。
実際に天正7年(1579)5月5日に佐竹氏の大軍が攻め寄せます、城を守るは結城家臣の大越信濃、鈴木若狭でした
結城氏の夜襲により一時は佐竹勢を釜子方面へ兵を引きます、その後佐竹氏は赤館にて増援をむかえ巻き返しをはかり
結城氏は敗北します。
山頂の羽黒神社を主郭として南が大手で堀切や巨大な横堀が設けられています。



新地山館 遠景
新地山館 遠景


新地山館 松平定信歌碑
新地山館 松平定信歌碑


新地山館 横堀
新地山館 横堀


新地山館 羽黒神社 主郭だろうか?
新地山館 羽黒神社 主郭だろうか


新地山館 北の巨大横堀
新地山館 北の巨大横堀



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革籠原防塁 福島県白河市

革籠原防塁







大河ドラマ「天地人」において、直江兼続が主君上杉景勝とともに、東征してくる徳川軍を、迎え撃つための「決戦の場」と定め慶長5年(1600)に防塁を築いた場所と言われています。

この地に徳川軍をおびき寄せ、常陸の佐竹義宣とともに側面から攻撃し、徳川家康を討ち取るという用意周到な作戦でした。しかし、家康は栃木県小山より引き返し石田三成との関ヶ原の戦い臨んだため、革籠原は「幻の白河決戦」の地となりました。

この防塁跡は、中世の館跡の土塁の一部とも考えられていますが、会津の向羽黒山城と同様、上杉家の土塁の特徴である二重土塁構造で、堀幅についても上杉家が築いたものと合致するなど似かよる点が多いと考えられています。

現存しているのは約370メートルですが、江戸時代の軍記物には数キロメートルにもわたって築かれたと記されています。




皮籠原防塁 駐車入り口
革籠原防塁 駐車入り口


皮籠原防塁 西側の遺構
革籠原防塁 西側の遺構



皮籠原防塁 北側の遺構
革籠原防塁 北側の遺構


皮籠原防塁 最東端の遺構
革籠原防塁 最東端の遺構




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羽黒館 福島県天栄村

羽黒館






大里牛ヶ城の南側に位置し、入り口は羽黒山磨崖仏の有る墓地からのい直登となる(-ω-)/

山頂部の曲輪1には羽黒山権現社の礎石が残り、周りを土塁で囲まれている、そして腰曲輪が三段構築されている。
歴史的には、天正18年(1590)6月25日、矢田野安房守の城代桑名因幡が居城した城で、高さ50m、周囲900mの要害で在るが、大里牛ヶ城の戦いの際には、出城として最初に攻撃されて落城している。
伊達政宗の家臣片倉小十郎が入城し牛ヶ城の攻撃拠点とした。
西麓にある手洗い池は用水して襄平が使用したと伝えている。



羽黒館 入り口 羽黒山磨崖仏
羽黒館 入り口 羽黒山磨崖仏・・・いざ直登(*ノωノ)


羽黒山磨崖仏
羽黒山磨崖仏


羽黒館 曲輪1 羽黒山権現社跡
羽黒館 曲輪1 羽黒山権現社・・・・現在は礎石のみが残る、鳥居は崩壊( ゚Д゚)


羽黒館 遠景
羽黒館 遠景


道端の石碑
道端の石碑




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