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星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Photo Movie で見る 城館をどうぞ( `ー´)ノ

古城巡り 写真館

PhotoMovieにて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・
城エクスポ2019

古城巡り 茨城県水戸市 城館 ・祝 国史跡指定~西山御殿(西山荘)

水戸市・祝 国史跡指定~西山御殿(西山荘)

今年初の計5回目のショ-ケス作品に選ばれました。五年連続です!(^^)!

今回は、水戸市の城館と西山御殿(西山荘)を梅雨の時期の雨の止んだ合間にて撮影しました

日々精進し、今週のピカイチ作品を狙います!!





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長者山城~義家に滅ぼされた一盛長者

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一盛長者屋敷伝




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ニノ郭の土塁



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主郭前の堀、土塁


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突き当り奥が主郭



八幡太郎の通称で知られる源義家が、後三年の役(一〇八三〜一〇八七年)のとき、十万余の大軍を率いて奥州に向かう途中に、その長者屋敷に立ち寄りました。

長者は、すぐさま山のようなごちそうと酒を用意して義家一行を手厚くもてなし、その酒宴は三日三晩も続きました。

義家が奥州を平定しての帰り道、再び一盛長者の屋敷に立ち寄ると、前にもまして豪華なもてなしを受けたのです。

そこで義家は、『このようなおそろしいほどの大金持ちをこのままにしておいては後々災いのもととなる。謀反*5などをくわだてぬよう今のうちに滅ぼしてしまおう。』と考え、長者の屋敷に火を放ち、一族を全滅させてしまったのです。

この時、長者は秘密の抜け穴に逃れ、身をひそめておりました。しかし、抜け穴も義家の家来に見つかり、長者は出口まで追いつめられてしまいました。

出口のすぐ下は那珂川です。もう逃れられないとさとった長者は、家宝にしていた黄金の鶏を抱いたまま川に身を投げてしまったということです。

長者屋敷跡は、水戸市の北西に広がる標高三十二メートルの渡里町台地の北東部先端にあり、崖下には那珂川や田野川などの流域の低地・水田地帯が広がっています。

現在も土塁や空堀が残されており、古代末期から近世初期にかけて、しばしば豪族の館や城が築かれた所といわれています。

また、水戸市大工町の雷神様(別雷皇太神)の秋の例祭に奉納される「向井町のささら」で使われる三体の獅子頭は、一盛長者の財宝のひとつで、このとき家来によって運び出されたものだとの言い伝えもあります

現在の遺構は、中世戦国時代を通し使用された物だと思われます。
2016.6.25




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加倉井氏館~民家裏手の見事な土塁、堀

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妙徳寺山門脇に館碑がある




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妙徳寺本堂裏手から民家の裏手に残る土塁、堀




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館跡とされる、妙徳寺全景



加倉井山妙徳寺の境内から東に広がる、東西220m、南北110mのやや不規則な長方形をなしています。現在の遺構から、二重の土塁と一本の空堀に囲まれた、戦国時代後期の様式の館式平城(かんしきひらじろ)と考えられます。現在、妙徳寺の山門の前にある溝は館址の南限の空堀または水濠の名残です。
 妙徳寺は、鎌倉時代の永仁元年(1293)、加倉井の領主であった波木井実氏(はきい《さねうじ》)が、日蓮門下の日高を開山として、母の妙徳尼の菩提のために建立した寺です。波木井(「はきり」「はぎり」などとも読む)氏は鎌倉の有力御家人の一で、山梨の波木井(現在の身延(みのぶ))を領して氏としたのですが、一族みな日蓮の熱心な外護(げご)者(在俗の精神的・物質的な仏寺の援助者)として著名です。実氏は波木井実長《さねなが》の子で、この妙徳寺は、水戸地方における日蓮宗の最初の寺となりました。
水戸の波木井氏は南北朝期に加倉井(かくらい)を称して江戸氏の有力武将となり、代々外護につとめたので、妙徳寺は退転することなく存続し、現在も子孫の方がこの館址に住んでおられます。日蓮は旅の途中武蔵池上で入寂しましたが、その旅は実氏を頼っての、常陸の湯(水戸ゴルフ北―八幡太郎義家の伝説がある)での湯治を目指したものとも伝えられています。




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加倉井忠光館~綺麗な土塁が残る

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表門には桝形が残る



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成沢の交差点から見た館内




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県道51号線側の土塁


加倉井当主代13世”加倉井忠光源三郎淡路守”が、享禄3年(1531年)に江戸忠通より成沢の館を賜ったのが最初と云われる。その後、天文17年(1549年)に起こった”大部平の戦”に将として加わったそうである。天正12年没。
そして天正18年の、佐竹さんによる水戸城攻略にて加倉井氏は撃退されたが、その後徳川に仕官して成沢を安堵され、庄屋として存続したらしい。また、内原地区で勢力を張った”外岡氏”が加倉井氏以前に住んでいたとも云われるが、詳細については不明。

遺構は、方形に土塁が残り表門には桝形が残るが・・・・県道51号線側の土塁は道路工事に伴い付け直している。
2016.6.25登城


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西山御殿(西山荘)~祝・国史跡指定

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西山御殿跡(西山荘)は、水戸藩2代藩主徳川光圀(みつくに)が隠居した後に居住した邸宅跡で、関東平野最北の谷津の最深部付近に位置しています。

 光圀は寛文元年(1661)に藩主となり、『大日本史』の編纂を始めたことで知られています。元禄3年(1690)に隠居を許され、その後この地に移り住み,茅葺に土壁の簡素な建物に居住しました。郷の入口に架けた橋を自ら「桃源橋」(とうげんきょう)と名付けたことからも、光圀がここを理想郷と考えていたことがうかがえます。光圀は御殿の周辺の山に鹿を、田に鶴を放ち、薬効のある草木を多数植えました。御殿での光圀は「西山隠士」(せいざんいんし)などと称し、領内の巡検や、文化事業に取り組む一方、『大日本史』の校閲などの作業を行いました。

 光圀の死後建物は解体されましたが、享保元年(1716)に再建されました。この建物は文化14年(1817)に焼失したものの、文政2年(1819)に光圀居住時の三分の一の規模で忠実に再現されて残っており、敷地全体は現在「西山荘」と呼ばれています。御殿の周囲には2つの池、滝、遙拝石(ようはいせき)、突上御門(つきあげごもん)などを備えた庭園があり、また紀伊徳川家より贈られたという熊野杉の木立がそびえています。




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久米城~佐竹氏拡張した城 2016.6.25 初登城

久米城 ①





久米城 ②







現地説明板(駐車場完備)
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東城~本城の堀切
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東城のニノ郭
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東城の本城(主郭)
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麓から見た久米城
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鎌倉時代に大掾氏が館を設け居住したと伝えられている。後に小野崎氏が築城して久米氏を名のり代々居城としていたが、3代目の通室に子がなく,小貫頼重の子定春を養子に迎え通治と称した。第15代佐竹義治は山入城の山人氏の反乱に備えて,小野崎系の久米氏を部垂城へ移し、義治の子義武を城主として久米氏を名のらせ防備を強化した。文明10年(1478)11月、山人義知は下野の那須氏の援軍を得て久米城を襲撃し、城主の義武や小田野義安が討死し落城する。しかし同年12月、佐竹義治は岩城氏の支援を受けて,山入義知を討ち取り久米城を奪還した。久米城には義武の弟義信を城主とし山入氏に備えさせた。この家系が佐竹北家として代々続き、佐竹本家の当主の補佐役や代理として、佐竹氏の領国経営の維持、拡大に重要な役割を果たした。慶長7年佐竹国替えにより秋田に移り以後廃城になった。

久米城は山田川東岸に位置し、久米の集落の北側,鹿島神社のある付近を中心として、集落を囲むような北および東の山に築かれている。城の規模は南北約700メートル東西約300メートル程で、本しろのある鹿嶋神社付近一帯を中心とする「東の城」、谷を挟んで北西にあたるTV中継所の付近一帯を中心とする「西の城」、その北側に「北の出城」、東の城の南側、尾根続きの「南の出城」など、四区画から構成されている。

東の城は、鹿島神社後方最高所に本城(郭)がある。その周辺には、二っの虎口や土塁、堀切、帯曲輪などが普請されている。また本城(郭)の北東約80メートルのところには久米城最大の堀切がある。東の城よりこの堀切を渡つて東の方角へ向かう道がある。この道は本城の虎口等の遺構とかみ合っており、また東の城の中心部分の側面を添うように配置されていることから、久米城が使われていたころからの道で、太田城と連絡する道筋であった可能性が高い。鹿島神社の西側、一段低い曲輪のⅤ字谷に接する尾根には,侵入を妨げる四つの段切りが普請されている。この段切りから南方へ、参道をまたいで鹿島神社の南斜面にかけ、小字名「古屋」の曲輪群が展開する。


茨城県常陸太田市久米町2035

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菖蒲&紫陽花2016

菖蒲&紫陽花2016





久喜市の菖蒲城址あやめ公園と加須市の玉敷公園の紫陽花の散策に行ってまいりました。

菖蒲城址あやめ公園
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玉敷公園
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満勝寺・・・・遺構消滅((+_+))!!

北新波砦のすぐ南側に満勝寺が在り、北新波砦同様に土塁と堀で防御されていました。
歴史的詳細は不明ですが、北新波砦との関係が深いと思われます。

問題は、その満勝寺裏手に土塁、堀跡が本堂建て替えの為石碑共に消滅していました。
北新波砦南側の群馬県、高崎市教育委員会設置の説明板にも満勝寺の存在を示しています。
恐らくは史跡指定までは、されていなかったのではと思います、しかし残念でした((+_+))

2011年3月撮影 満勝寺裏手の遺構と石碑
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2016年6月12日撮影  満勝寺(若干向きは違いますが、遺構は無)
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4・北新波砦となりに5満勝寺が記されています。
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古城巡り 長野氏 城館&墓所 2016.6.12

長野氏 城館&墓所







原城 高崎市上室田町3024


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土着の豪族長壁氏が斉藤道山の子孫斉藤半兵衛竜政と築いた城とされる、巨大な堀に細長い郭で東側には中屋敷の地名が残るが詳細については不明な部分がある。
又向かいの西側には雨堤の砦が有り、中屋敷からこちらの砦に動いたとされるが詳細は不明!


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斉藤氏の砦跡とされるが詳細は不明



長年寺 高崎市下室田町

鷹留城主長野氏の菩提寺
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下室田町の長年寺は、鷹留城主長野氏の菩提寺として知られています。現在、ここには初代鷹留城主の長野業尚をはじめ箕輪城主である長野業政など長野氏累代7人の五輪塔の墓があります


長純寺 群馬県高崎市箕郷町富岡852

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長純寺は金富山実相院と号し、長野信業が開基した長野氏の菩提寺で、曹洞宗。業政は信業の子で、木像は開基堂に安置されています。高さ約35センチメートル、豊頬円満な容貌は古勇将を偲ばせます。
本堂裏手を進むと梅樹の中に長野業政の供養塔があります。


北新波砦 高崎市北新波町208


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北新波砦跡は、早瀬川と関端川に挟まれた高崎市北新波町字古城に位置し、 15世紀後半から16世紀中頃に築かれたと推定される砦跡です。75メートル四方のほぼ正方形をしており、その周囲を堀と土塁で囲んでいます。南側には出枡状の突出が設けられています。

昭和59・60年に行われた発掘調査では、幅5メートル、深さ1.5メートルの堀や、建物の跡、井戸、そして土鍋、常滑焼(とこなめやき)の壺、こね鉢、茶臼(ちゃうす)など多くの遺物が発見されました。

後に箕輪城主となる長野氏は、長野郷(高崎市浜川町周辺)を基盤として発展しており、北新波砦跡も長野氏に関係する武士が居住していたと想像できます。なお、永禄元年 (1558)の長野家の家臣録には給人として新波新右衛門の名が見えます



來迎寺 高崎市浜川981



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来迎寺にある長野氏累代の墓は、長野氏滅亡後、まわりの濠の中に崩れ落ちて埋められていたものもありましたが、大正12年ごろ、長野氏の子孫の人たちが発掘し、現在地に整理して安置したものです。石塔の組み方に寄せ集めのものがあるのは、そのためです。

墓地には五輪塔(ごりんとう)8基、宝篋印塔(ほうきょういんとう)6基が整然と並べられていて、墓地に立つと、長野氏往時の盛んな様を偲ぶことができます。年号を読み取れるものもいくつかあり、至徳元(1384)年、応永9(1402)年、永享11(1439)年、寛正4(1463)年、応仁3(1469)年、明応9(1500)年、文亀3(1503)年、享禄元(1528)年などです。14世紀後半から16世紀前半の所産といえます。



長野業盛の墓 高崎市浜川町



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長野氏は箕輪城を拠点に西群馬の武士団を統括した戦国武将です。上杉氏側に組したため、武田信玄から度々攻撃を受けました。永禄9(1566)年落城し、城主長野業盛(なりもり)は自害し、長野氏は滅びました。

自害した業盛を哀れんだ僧が遺体をもらいうけ、井出の地に葬ったとされています(箕輪軍記)。



浜川の砦 高崎市浜川町1205



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箕輪築城以前の居城である。箕輪城は、永正九年(1512)に長野業尚によって築かれたとも、大永六年(1526)に長野信業によって築かれたともいわれる。長野氏といえば、武田信玄の侵攻を撃退しつづけた長野業正が有名であるが、業正以前の長野氏の系譜や事跡には不明な点が多いため、詳しいことは分からない。
遺構は、北側の堀跡と南側も土塁、堀跡が明確に残り、北側の來迎寺には長野氏累代の墓が在る。


保渡田城 高崎市保渡田町1330


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保渡田北部公会堂付近一帯が城址。
箕輪城を落とした武田信玄は、城主に内藤昌豊を置くが、その後昌豊はこの保渡田城を築き西上州を支配した。昌豊が長篠の合戦で討死すると、子である大和守昌月が城主になった。
遺構は、主郭の南側の櫓台と北城(ニノ郭)の北側民家裏手に土塁と堀が残る又周辺の道路はおそらく堀跡と思われる。



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鷹留城~旧長野氏の本城 2016.6.12改

鷹留城






群馬県高崎市下室田町にある中規模な日本の城(山城跡)の典型で、箕輪城の西方5キロにある箕輪城の支城の一つ。各種遺構が原形に近く残っている点で、群馬県内でも稀な史跡である。高崎市指定史跡に指定されている。

鷹留城は、 明応年間(1500年頃)、当地を支配する長野尚業によって築かれた山城である。長野尚業の子、憲業が本拠を1512年(永正9年)に築かれた箕輪城に移すまでの間、長野氏の本拠であった。その後も1566年(永禄9年)に落城までの間、箕輪城の有力支城の一つである。(日本城郭大系には 「箕輪城と相助ける別城一廓の関係にある」 と記されている。) 城の規模は、南北430メートル、東西300メートル、本丸の高さは東側の谷から70メートルといい、群馬県内でも有数な中規模な山城である。現在にのこる遺構として、本丸以下の曲輪、虎口、大手口、搦手口、井戸、掘切の跡が認められる。 また、元城下に長野氏の菩提寺の室田山長年寺があり、「長野氏累代の墓」(長野業尚、業正、憲業、業氏、業固、業茂、業続の7基の五輪塔)がある。


武田軍の総攻撃の度に鷹留城は濃霧に覆われ、総攻撃は度々延期された。困り果てた武田信玄は榛名神社に祈願したところ「射よ」との託宣を受け、配下の強者に濃霧に向けて矢を射させたところ、忽ち霧は晴れ上がり、烏川の川べりに一匹の白キツネが死んでいたといい、白キツネは稲荷神の神使だったと伝承されている。武田信玄は榛名神社に弓矢を奉納し、矢立杉(国の天然記念物)の由来となったという。後年、城跡に稲荷大明神の祠が立てられている。

Wikipediaより


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