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星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Photo Movie で見る 城館をどうぞ( `ー´)ノ

古城巡り 写真館

PhotoMovieにて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・
城エクスポ2019

岩槻城~大構を持つ大城郭

岩槻城





従来、扇谷上杉氏重臣の太田道真・太田道灌父子が1457年(長禄1)、古河公方足利成氏を牽制するため江戸城(東京都千代田区)、川越城(河越城、川越市)とともに築城したといわれてきたが、近年、古河公方方の忍城(行田市)の城主成田顕泰の父成田自耕斎正等(じこうさいしょうとう)が、1478年(文明10)に築城したとする史料が見つかった。戦国時代の1522年(大永2)、太田資頼が岩槻城を奪取し、岩槻太田氏の居城となり、太田資正(三楽斎)の時代には、武蔵における北条氏の勢力が増す中で、岩槻城は孤立しながらも反北条方の城として存続した。しかし、1564年(永禄7)に北条氏方に与した嫡子太田氏資が資正を追放し、北条方の城となり、1567年(永禄10)の氏資の戦死にともない、北条氏直轄の城となった(北条氏の一族が太田氏の名跡を継いで城主となった)。1590年(天正18)の豊臣秀吉の北条氏攻め(小田原の役)の際、浅野長吉ら豊臣方2万の兵に攻められ、数日後降伏・落城した。その後、徳川家康が関東に入ると、岩槻城には徳川家譜代の高力清長が2万石で入城。以後、青山氏、阿部氏、板倉氏、戸田氏、松平氏、小笠原氏、永井氏ら譜代大名の居城となったが、江戸時代の中期に大岡忠光が入城。以後、大岡氏が代々城主をつとめ、明治の廃藩置県後に廃城となった。岩槻城は荒川(現在の元荒川)の台地上にあり、総曲輪(そうぐるわ)型城郭という珍しい縄張りでつくられていた。江戸時代の岩槻城本丸には天守はなく、代わりに2層の瓦櫓(かわらやぐら)や1層の櫛形櫓があった。現在、城跡は岩槻城址公園(御林(おはやし)公園)となっており、堀跡や大構、城門などの遺構が残っている。また、「岩槻に過ぎたるもの」といわれた時の鐘や、岩槻藩の藩校、遷喬館(せんきょうかん)(県指定史跡)もある。東武野田線岩槻駅から徒歩約30分(約1.8km)。◇かつては岩付城と記された。白鶴城、浮城とも呼ばれる。


住宅地内に在る、大手門跡
岩槻大手門跡



岩槻城址公園内の城門(現存移築)
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岩槻城城址碑(鍛冶屋曲輪)
岩槻城城址碑




本丸の碑(スタンド内の植木の中)
岩槻城本丸の碑




岩槻城の大構え遺構
岩槻城大構遺構




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長井坂城~真下に関越自動車道が通る城

長井坂城




長井坂城から見える関越道
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長井坂城碑と説明板
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三ノ丸標柱
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群馬県渋川市(旧赤城村)にあった戦国時代の山城(やまじろ)。利根川沿い比高約200mの断崖絶壁の山上にあった。永禄年間(1558~70)に長尾景虎(のちの上杉謙信)により築城されたといわれる。景虎は1560年(永禄3)に最初の関東出陣を行い、沼田顕泰(あきやす)が城主をつとめていた北条方の沼田城を攻め、顕泰を降伏させたが、その際、この長井坂城のあった場所に陣を置いた。その後、13回とも15回ともいわれる謙信の関東出陣が行われたが、沼田城と厩橋城の中間地点にある長井坂城は、中継地点として整備された。1580年(天正8)、沼田・吾妻を攻略した武田勝頼の武将真田昌幸が同城を占領し城兵を配置したが、1582年(天正10)、北条氏邦ら北条勢に攻め取られ、北条方の城となった。同城は北条方の白井長尾氏により修築され、氏邦の部将の猪俣邦憲が入城し、沼田城の攻略拠点とした。同城は武田勝頼に攻められて落城した後に廃城になったとも、1590年(天正18)の北条氏の滅亡とともに廃城になったともいわれる。現在、城跡は山上城跡公園となっており、曲輪(くるわ)跡や空堀、櫓(やぐら)台、土塁などの遺構が比較的良好な状態で残っている。JR上越線岩本駅から車で約20分。関越自動車道の長井坂トンネルの上に位置する。



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信州上田~真田の郷を巡る

真田の郷を巡る







信州上田城
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大河ドラマ「真田丸」に併せて、上田は真田の郷を巡りました、ご覧ください


真田氏発祥の郷
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上田藩主屋敷の八重櫻
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真田丸 大河ドラマ館(上田城 武者溜)
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長谷寺
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信綱寺
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真田本城~まさかの登城者の数((+_+))

真田氏本城・真田氏館




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真田氏本城
この城は真田山城、松尾新城、住連寺城、十林寺の城山などといわれるが、真田氏の本城にふさわしい規模の城であることから、真田町指定文化財史跡名では真田氏本城としており、旧菅平有料道路を、十林字から熊久保へ通ずる道路が横切った北側の、尾根の突端にある。

特徴的なこととして、真田町内の他の城跡に比べ、広大な規模をもっていること。眼下に、小県と北上州を結ぶ上州道を一望におさめることができること。山城に必要な水の手が、熊久保集落の上方の山地から、本城に続く尾根づたいに水を引いてきて、本郭の近くまで引き込んでいることなどがあげられる。


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真田氏館
地元では御屋敷とよび、小字も御屋敷となっている。

館跡は四周に土塁を廻らしており、東西150mから160m、南北およそ130mのやや台形の敷地で、東が高く、西に緩やかな傾斜をしている。周囲の土塁は東側が特に高く、現在4mから5mあり、東南の隅を欠いている。南側には大手があり、枡形も残る。北西の隅は低地になっていて、これを厩屋(うまや)跡とよんでいる。

真田氏の居館は、角間・甲石等にもあったとされるが、遺構の現存しているものはこのお屋敷以外になく、中世豪族の館跡として貴重である。


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上田城~二度も徳川を撃退した城郭

上田城 2016.4.23





上田盆地の北部に位置し、千曲川の分流である尼ヶ淵に面していたので、築城当初は「尼ヶ淵城」と呼ばれることもあった。北に太郎山、南に千曲川があり、築城前は土豪小泉氏の古い城館が存在した(現在、二の丸より西側の小泉曲輪と呼ばれている場所)と伝えられる。城の南側は千曲川に接し、北側と西側に矢出沢川を引き込み総構えとし、唯一の攻め口である東側にも蛭沢川や湿地帯などがある。

上田城は、信濃国小県の真田本城主の真田昌幸が当主であった真田氏により、1583年(天正11年)に築城された平城である。天正11年、天正13年、天正18年と何度かの過程を経て築城をされたものである[1]。1585年、1600年と二度にわたる真田氏と徳川軍との上田合戦で知られる。しかし、昌幸が属した西軍が関ヶ原の戦いで敗れ、昌幸が九度山に配流となると、1601年に上田城は徳川軍に破却され、堀も埋められた。

江戸時代には上田藩の藩庁が置かれていた。関ヶ原以降に同地を領した真田信之は、上田城が破却されていたため元々の居城である上野国沼田城を本城とし、上田城三の丸跡地に屋敷を構えて統治を行った。この頃、城下町の整備が行われた。真田信之は徳川氏の幕府に対し、元和7年(1621年)に城の再整備・拡張を申請するが却下され、元和8年(1622年)9月には信濃国松代へ転封された。後は小諸藩より仙石氏が移封された。仙石忠政[2]は破却されたままの上田城の再建を申請し、寛永3年(1626年)から現在の上田城が普請されることとなった。真田氏時代の縄張りをも利用していると推測されているが、徹底破却ののちに近世城郭として新たに築城された。本丸には櫓7棟、櫓門2棟、それらを繋ぐ塀が普請された。現在ある本丸の3棟の櫓(南櫓、北櫓、西櫓)など建物の外壁は煤と柿渋で防水した板を用いた下見板張の黒い外観である。二の丸にも櫓や櫓門を再建するため、櫓台なども構築されたが、寛永5年(1628年)4月20日仙石忠政の死により工事は中断され、これ以上の増築は行われないまま、仙石氏の転封および松平氏(藤井松平家)に藩主家が交代し、幕末を迎えた。

明治以降は、破却や城外への移築が行われて城内には石垣と櫓(西櫓)が1棟残るのみであったが、昭和期に、移築されていた本丸の櫓2棟が元の位置に復元され、平成期には櫓門や塀などが木造復元されている。

現在は旧二の丸内が上田城跡公園になっており、毎年花見の季節になると、多くの市民や観光客で賑わう。また、敷地内には野球場、市立博物館、招魂社などが置かれている。本丸跡には真田神社がある。境内には古井戸があり、「城外への抜け穴になっていた」との伝説がある。三の丸の藩主居館跡には、松平氏時代の屋敷門と堀が残されている。同地は現在上田高校の敷地として利用され、門は学校の正門として使用されている。


本丸を南側に置き、二の丸が本丸の北・東・西を囲み、二の丸と東の大手門の間に三の丸を置く、梯郭式といわれる縄張りとなっている。これは千曲川に接する断崖となっていた南側が最も天然の防御力が強。当初は北条氏による上州方面、上杉氏による越後方面からの攻撃に対するものであったが、翌1584年に真田氏が徳川氏と断交したため、当初は越後方面に予定していた大手(防御正面)を対徳川を想定して東側に変更した。

通常は本丸や二の丸など城の中心に置かれる政務用の建物が、三の丸に置かれているのが特徴である。これは、真田信幸が上田領を継承した際に、上田城は破却されており、城下町に近い三の丸跡地に居館を建てたことに始まる。その後、上田城は仙石氏により再建されたが、不完全なまま終わっている。真田昌幸時代の上田城について正確な構造は、わかっていない。なお、堀底の発掘調査により、真田氏時代と想定される金箔瓦や、菊花文軒丸瓦、金箔鯱の破片などが出土している。

上田城に天守があったのかを確認できる資料はない。起工から2年後の第一次上田合戦当時の資料(山鹿素行の「武家事紀」)には、「天守も無き小城」との記述が見られ[要出典]、後に仙石氏により再建された上田城にも天守はない。ただ第一次上田合戦当時の上田城は未完成とされていることや、寛永年間の作成という絵図には上田城本丸に「御天守跡」と記入されていること、金箔瓦や菊花文軒丸瓦、金箔鯱の破片が出土していること、同時期の近隣諸城(小諸城や松本城・高島城)や嫡男真田信幸の沼田城に天守があることなど、いくつかの傍証から真田昌幸時代に天守が存在した可能性はある(第一次上田合戦から第二次上田合戦後に破壊される間の資料が残されていないため、直接的な証拠はない)。

本丸は東西に伸びた長方形だが、その北東の角のみ鬼門を避けるため欠いた構造をしている。


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信州上田~真田氏の礎

真田氏の墓所





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信州上田の、真田幸隆から始まる上田は真田の郷を去る迄の礎となった真田家の墓所を巡りました


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上州小幡氏を巡る!!

先週の日曜日に、城仲間と群馬は小幡氏関連の城巡りをしてきました。

富岡の神成城、宮崎城は今回初の登城で、神成城のハイキングコ-スに入る場所の中学校が宮崎城で遺構は・・・・・・・・・・???発掘調査では確認されているそうですが(グランド部分)校舎側は建物が建ちもう確認のしようがないでしょう。
校舎の裏手に、かろうじて土塁と堀が残りここに城が在った事を示しています。

この土塁と堀の側にハイキングコ-スが通り、歩きながら遺構を見る事が出来さらに進むと1本目の堀切が現れます(^.^)
この堀切を進めば、主要な郭は10分もしないで到着することができますが二つ在る物見の西側はそれなりの高低差が有りが上に上がってしまえば最高のロケ-ションで心地よい風が吹いてました。
又主郭から南側の物見からは宮崎城(中学校)が良く見えます。

物見から見た宮崎城
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そして、今回のメインは国峰城ですやはり御殿平迄の林道はエクストレイルでも無理で林道に入りすぐに諦め、徒歩にて御殿平迄移動しました・・・・案の定、随所に倒木が有り、道幅も狭く車がガリガリ君になるところでした(新車ですから、無理しません)



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遺構は見事で、主郭から四方に延びる尾根に堀切がこれでもかと有り尾根の往復だけで筋肉痛になってしましました。
ただ行くだけの価値は有ります!!



何度か行っている、小幡陣屋に織田家墓所、麻場城は何度となく行っているので・・・・・・・・
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粟原城2016改 鷲宮神社の神主が城主

粟原城





当時は、戦国時代の真っただ中にあり、相模国(さがみのくに)(神奈川県)の北条氏康(うじやす)・氏政(うじまさ)、甲斐国(かいのくに)(山梨県)の武田(たけだ)信玄(しんげん)、越後国(えちごのくに)(新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん)ら戦国大名が激しい抗争を繰り広げていました。元亀2年(1571)には、武田信玄が北条氏領国へ侵攻し、久喜周辺にも行軍しています。また、元亀3年(1572)から翌年にかけては、北条氏政が上杉側の羽生城(羽生市)、関宿城(千葉県野田市)等の拠点を攻撃し、救援のため出兵した上杉謙信と対峙しました。目沼郷や久喜市周辺地域は、これらの戦国大名が入り乱れて争う最前線だったのです。

「鷲宮町史 ふるさとガイド」(鷲宮町企画財政課 平成2年3月より

 鷲宮神社に残る古河公方(足利晴氏)の書状の中に、神主「細谷光朝(ほそがやみつとも)この時より古河公方左馬頭晴氏公の先陣と成る」との記録がみられ、鷲宮神社の神主は武将をかねた神官であったといえる。このころから粟原城はあったのだろうか。
    
 謙信による小田原攻めにあたって鷲宮神主細萱光仲(ほそがやみつなか)は、家臣八〇余名をひきいて小田原に籠城しており、上杉勢が城の包囲をといての帰りに、その家臣の木戸宮内少輔(きどくないしょうゆう)が一000余人をひきい、八月十八日に鷲宮の粟原城を焼きはらい、鷲宮に属する花崎城を攻めおとしたという。このとき、鷲宮「社領長」の針谷氏は、光仲の子泰秀(やすひで)や御局(おつぼね)をかくまい、光仲の叔父にあたる大乗院秀全にあずけたという。

 古河公方亡きあとも、鷲宮神主は、小田原の北条氏直と親密な関係で、年始祝いの贈答品のやりとりをつづけていた。このとき、鷲宮の粟原城には北条軍が駐留し、軍需物資を輸送する拠点とされていたようである。すなわち、北条氏は、鷲宮神主ならびに城の駐留軍に対し、「社中の木一本たりとも虎の印判(北条氏の許可)なくして刈りとるべからず、かりそめにも刈りとった者がいたときは、城中の奉行を罪科に処す」であろうと命令を発している。
 また、天正十三年八月の神主への書状には、「鷲宮に集めた荷物は、相違なく陣中に通すこと」との内容が記されている。したがって、鷲宮は、当時北条氏の軍需物資の集散拠点になっていたのは確かであろう。

 秀吉の小田原征伐にあたり、神主泰秀は、北条家より兵糧をあたえられ小田原に籠城したが、途中で鷲宮にもどったといわれる。

遺構を確認するには、かなり困難であると言って良いだろう・・・・明確な遺構は・・・・・。


主郭と言われる祠
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西側から見た粟原城、奥の林が鷲宮神社で手前の住宅地が粟原城
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花崎城改2016 粟原城の支城

花崎城改2016 





花崎城(はなさきじょう)は今日の久喜市の粟原城の支城として築城されたと考えられている。長尾景虎(上杉謙信)の小田原攻めの時に、家臣の木戸宮内少輔に花崎城を攻めさせたことが記録にある。このとき、城主の細萱民部少輔は小田原城に参陣していたので、幼少の細萱泰秀が守っていたが花崎城、粟原城とも落城した。


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現在の花崎城






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公園化される以前の花崎城(説明板より)






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鷲城 祇園城と共に国史跡指定

鷲城





鷲城も小山城と同じように築城時期や築城者は明らかではありませんが、応安5年(1372年)年に小山義政は武蔵国太田荘の鷲宮を修築しており、この神を本城に勧進して鷲城と名づけたということですから、この頃鷲城が成立したものと考えられています。


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鷲城跡(国史跡)は、小山市街地の南西に位置し、長い参道を歩いていくと鷲神社があります。
神社を中心とした緑地帯などが鷲城跡の見どころとなっています。
城の北と西側は自然の断崖をうまく利用していて、広さは東西約280メートル×南北約450メートルの規模で中城と西城からなっています。
この二つを分けている空堀と土塁が現在もよく残されています。
中城のやや西寄りにある鷲神社の西の高まりが、本丸跡と推定されています。




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