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星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Photo Movie で見る 城館をどうぞ( `ー´)ノ

古城巡り 写真館

PhotoMovieにて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・
城エクスポ2019

八王子城~太鼓曲輪

太鼓曲輪



太鼓曲輪には第一~第五まで合計5つの掘り切りがあります。
しかもその殆どが420余年の歳月を経ても土砂に埋もれることもなく当時の削りとられたままの姿を見ることができます。

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浄福寺城~八王子城の出城

浄福寺城



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新城(にいじょう)、案下城(あんげじょう)、松竹城(まつたけじょう)、千手山城(せんじゅさんじょう)など様々な別称で呼ばれていた。城の南側、陣馬街道に沿って、大石氏によって開基された浄福寺がある。この寺は、当時武将が待機する居館との説もある。一帯は八王子市の史跡となっている。八王子市教育委員会の説明板によれば、大石氏は系図(山木伊藤家伝)によれば木曾義仲の後裔が信濃国大石郷に住んでいたが、1356年(延文元年)入間・多摩に十三郷を得て多摩に移住し、二宮(現・あきる野市)から浄福寺城、高月城(長禄2年)、滝山城(大永元年)と次第に大豪族となり城を移したといわれ、大石氏の経緯を知る上でも貴重な城跡であるという。

なお、近年において齋藤慎一が同地域に関する古文書や浄福寺城の遺構に関する分析から、従来の大石氏に関する伝承を否定して、浄福寺城こそが後の「由井領」の由来ともなった大石氏の本拠である由井城(ゆいじょう)であり、大石氏を継承した北条氏照も当初はここを本拠としており、永禄10年(1567年)頃になって初めて滝山城を築いて本城を移したとする説を提示している[1]。


1384年(至徳元年)大石信重によって築城されたと言い伝えられる。一方、『新編武蔵風土記稿』によれば、「大石源左衛門尉入道道俊と云もの当所に居城を構へし」(道俊は大石定久といわれる)との記述もある。

後北条氏の時代になると、八王子城の出城として使用されたとされる。

1590年(天正18年)の豊臣秀吉による八王子城攻め、落城とともに浄福寺城も落城、廃城となった。

『ウィキペディア』より

東京都八王子市下恩方町3259

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古城巡り 埼玉

松山城 腰越城 浄蓮寺を巡る

松山城から安戸城・・・鉢形城を結ぶ、ネットワ-クで多くの城館が存在する。



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腰越城~松山城家老山田伊賀守の居城

腰越城



築城年代は定かではないが治承4年(1180年)頃に山田伊勢守清義によって築かれたと云われる。

天文年間(1532年~1555年)には松山城主上田直朝の重臣山田伊賀守直定が城主であった。

腰越城は北の山塊から南へ張り出した尾根の頂部に築かれており、槻川が大きく城山を迂回し三方を囲む要害となっている。現在は県指定史跡として良く整備されており、堀切や竪堀をうまく活用した遊歩道が付いている。この道順で散策すると大半の遺構を確認することができる。

主郭は山頂にあり南北に長い長方形で西側に土塁を設けている。 北背後は高い切岸で、北尾根には二条の堀切を設けて遮断している。 主郭は南に虎口を開き、帯曲輪を経て南下の二郭へ通じる。

二郭は主郭の南下に位置し、東測面から南尾根方向に広い削平地を持つ。南尾根は堀切を経て三郭へと通じるが、その先は石灰岩の採石によって山が削られている


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松山城~上杉・武田・北条の戦いの舞台!!

松山城 ①



松山城 ②





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埼玉県比企郡吉見町にあった室町時代から戦国時代にかけての平山城(ひらやまじろ)。菅谷館跡(比企郡嵐山町)、杉山城跡(同町)、小倉城跡(比企郡ときがわ町・嵐山町・小川町)とともに「比企城館跡群」として一括で国指定史跡となっている。ふもとを流れる市野川を天然の堀として、丘上に建設された城郭である。高低差をうまく活用した曲輪(くるわ)の配置と城域の面積の50%を占めるといわれる大規模な空堀などから難攻不落の城といわれていた。松山城には小野篁、平信清(淳和天皇の第2皇子)、源経基、源頼信、新田義貞などを築城者とする伝承・伝説があるが、詳細は不明である。室町時代前期の1399年(応永6)に、比企郡一帯を領有していた扇谷上杉氏被官の上田友直により本格的な城として整備され、上野国を拠点とする山内上杉氏や、下総国古河を拠点とする古河公方に対する前線拠点となった。その後、相模国の北条氏の勢力が拡大し、武蔵国への侵攻が激化すると、北条氏に対する備えの城として重視された。こうしたことから、戦国時代には松山城を舞台に激しい攻防や争奪が繰り返された。1537年(天文6)、北条氏綱は扇谷上杉氏が本城としていた川越城(河越城、川越市)を落城させ、その余勢をかって松山城に攻撃を加えた。扇谷上杉氏は難波田弾正憲重らの活躍によりこれを撃退して城を守り、河越城を失った扇谷上杉朝興は松山城に居城を移した。この攻防は、城将の憲重と北条方の攻将の山中主膳の間で和歌問答が交わされたことに由来して「松山城風流合戦」と呼ばれる。その後、朝興から家督を継いだ扇谷上杉朝定は川越城の奪還を試み、関東管領の山内上杉憲政、古河公方の足利晴氏とともに大軍で川越城を囲んだが、1546年(天文15)の河越夜戦で大敗を喫して上杉朝定は戦死、扇谷上杉氏は滅亡した。松山城は、この河越夜戦に勝利した北条勢により奪われたが、上田朝直や太田資正がこれを奪回した。しかし、その後上田朝直が北条氏に寝返ったために、松山城は再び北条方の城になった。1561年(永禄4)、越後の上杉政虎(上杉謙信)は松山城を攻略して岩槻城主の太田資正を城代にしたが、1563年(天文5)には北条氏康と武田信玄の連合軍が攻撃して落城させ、北条方の城となった。その後しばらくして、上田氏も城主として復帰している。1590年(天正18)の豊臣秀吉の北条氏攻め(小田原の役)では、豊臣方の前田利家や上杉景勝、真田昌幸らの大軍に包囲され落城した。徳川家康が関東に入部すると、松山城には松平家広が1万石で入城して、松山藩(のちに3万石)が成立した。しかし、1601年(慶長6)に家広は若くして死去したため異父弟の忠頼が継いだが、忠頼が遠江国浜松城5万石に加増・移封されたことにより松山藩は廃藩となり、松山城も廃城となった。その後、比企地域の旧松山藩領は川越藩領に組み入れられている。1806年(文化3)、川越藩主の松平直克が前橋藩に移封となり、その際、比企6万石は前橋藩の飛び地となり、これを治める陣屋が必要となったが、松山城跡は利用されず、松山城跡の西に松山陣屋(東松山市松葉町)が新設された。城跡は今日、城山と呼ばれているが、城山には空堀の遺構が比較的良好な状態で現存している
『ウィキペディア』より



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