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星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Photo Movie で見る 城館をどうぞ( `ー´)ノ

古城巡り 写真館

PhotoMovieにて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・
城エクスポ2019

古城巡り-2015 Best Selection

2015best selection

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古城巡り-2015 Best Selectionの完成です


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古城巡り 城館リスト 十五 2015年12

城館リスト 十五 2015年12

三回のショ-ケス作品に当選で、三年連続となりました。
城館リストですので、随時追加していきます。




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古城巡り 栃木県栃木市城館 2014年5月31日

栃木県栃木市城館 2014年5月31日

初夏の栃木県栃木市に残る、謙信公の軌跡を発見・・・・・・・・




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古城巡り 長野県箕輪町城館 2013年7月27日

長野県箕輪町城館 2013年7月27日



長野県箕輪町を夏の強い日差しのもと、訪れた城館です。






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古城巡り 長野県箕輪町城館 2013

城館リスト 15  

城館リスト 十五



デジブックショ-ケ-ス作品です、リストですので随時追加します

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新府城~武田氏最後の城郭

新府城



天正9年(1581)に武田勝頼によって築城されました。城は未完成でしたが、同年の9月頃には友好諸国に築城が報じられ、12月24日に躑躅ケ崎館(武田氏館跡 山梨県甲府市)からの移転が行われました。しかし、天正10年3月3日、勝頼は織田軍侵攻を目前にして自ら城に火を放ち退去し、3月11日に田野(山梨県甲州市大和町)において、夫人と息子信勝ともに自害し、武田氏は滅亡してしまいます。

 その後、同年に徳川氏と北条氏による甲斐国争奪をめぐる天正壬午の戦いがおこり、徳川家康は新府城を本陣として再利用しました。

  新府城が立地する七里岩は、八ヶ岳の山体崩壊にともなう岩屑流が、西と東側を流れる釜無川と塩川の侵食によって形成された台地で、西側の断崖絶壁は韮崎から長野県の蔦木(諏訪郡富士見町)まで約30キロメートル続き、奇観を呈しています。

 台地上には、100を超す「流れ山」と呼ばれる小高い丘・小山があり、新府城は七里岩台地南端の標高約524メートルの「西ノ森」と呼ばれた小山に築かれ、西側は釜無川をのぞむ急崖となっています。

  城は土の切り盛りによって造成が行われ、山頂の本丸を中心に、西に二の丸、南に西三の丸・東三の丸の大きな郭が配され、北から東にかけての山裾には堀と土塁で防御された帯郭がめぐり、南端には大手桝形・丸馬出・三日月堀、北西端には搦手があり、全山にわたって諸施設が配置されています。

 搦手の郭は東西100メートル、南北25メートルの東西方向に細長い長方形をしており、北側には水堀と土塁、東から南側にかけては空堀、西側は比高差90メートル程の七里岩の断崖となっています。

 城の北西隅につくられている乾門は、西側が七里岩の崖、東側が水堀でこの間を土橋でわたる構造で、大手と同様に内側が大きく、外側が小さい土塁によって囲まれたやや変則的な形の桝形虎口で、桝形内部空間は東西約13メートル、南北約12メートルの広さがあり、外側門(一の門)は北西角、内側門(二の門)は南東隅寄りに設けられています


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武田信義館~願成寺・武田氏の祖

武田信義館~願成寺



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 鳳凰山願成寺の創建は宝亀2年(771)、権大僧都心休了愚法印が京都祇園寺の末寺として開かれました。当初は草庵でしたが延長6年(928)、堂宇を建立し地蔵菩薩を安置、寺院として願成寺が成立しています。その後、衰退しましたが平安時代末期、この地の領主となった武田信義(源清光の次男、武田家4代当主)が中興し京都の仏師が製作した木造阿弥陀三尊を奉納、祈願所として庇護しています。周囲には信義の居館や詰城である白山城、崇敬社である武田八幡宮などの史跡が点在しています。武田信義は源平の合戦で活躍するものの源頼朝と不仲となり自刃(又は文治2年:1186年に病没)、戒名「願成寺殿俊照国公大禅定門」、庇護者を失った願成寺も衰退したと思われます。戦国時代に武田信虎の甥が住職となり天台宗から臨済宗に改宗すると再び武田家の庇護の下諸堂が再建され寺運も隆盛し永禄2年(1559)には曽雌定能(武川領主)が木造阿弥陀三尊を寄進しています。天正10年(1582)、織田信長の甲斐侵攻により武田家が滅びるとその兵火により多くの堂宇、寺宝、記録などが焼失、その後再建したものの慶長12年(1607)の火災により再び大きな被害を受けました。宝永15年(1638)、然重応廊和尚が曹洞宗に改宗し上条南割村の大公寺末寺となり、万治元年(1658)に赫山和尚が再興に着手し庫裏(寛永年間:1624~1645年)、本堂(元禄年間:1688~1704年)などを随時再建しています。寺宝である木造阿弥陀如来及び両脇侍像は武田信義が寄進しもので、平安時代末期(12世紀後半)に製作、阿弥陀如来座像:寄木造、像高146.1cm・観音菩薩立像:寄木造、像高169.7cm・勢至菩薩立像:寄木造、像高168.5cmいずれも定朝様の作風が感じられる貴重なものとして昭和14年(1939)に国指定重要文化財に指定されています。又、武田信義の墓と伝わる鎌倉時代初期の塔形を残す「五輪塔」、後白河法皇が命名し、馗安が揮毫したと伝わる願成寺の「山号額」、武田氏歴代の位牌堂の本尊として御霊殿に安置されている「阿弥陀三尊像」が韮崎市指定文化財にそれぞれ指定されています。斐百八霊場第77番札所。宗派:曹洞宗。本尊:阿弥陀如来。

武田八幡宮は、社記によれば、武田王を祀る宮社があったところへ、弘仁13年(822)2月に勅令によって、九州宇佐八幡宮を勧請し合祀したことから、武田八幡宮と称したといわれています。貞観年間(859~877)には京都岩清水八幡宮を勧請しています。

 甲斐源氏、新羅三郎義光のひ孫に当たる信義は本地に居館を置き(市指定文化財「武田信義館跡」)、武田太郎信義を名乗り、当社を氏神としました。韮崎市が甲斐武田氏発祥の地といわれるゆえんでもあります。

 天文10年(1542)には武田晴信(後の信玄)が本殿を再興しました。

甲斐源氏清光の子である源信義は、この地に居館を構えると、武田太郎と号して武田氏の祖となり、甲斐源氏一族を率いて強大な武力を誇った。
1180年(治承4)平家討滅の兵を起こし、信濃・駿河に転戦して武功を立て、駿河守護に補せられたが、やがて源頼朝に退けられ、1186年(文治2)失意の内に世を去った。
館址南東の願成寺境内には武田信義墓所がある。




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白山城(鍋山城)~武田詰城

白山城(鍋山城)~武田詰城



鍋山砦、要害城 と呼ばれており形式は山城である。現在は山林になっており、曲輪、土塁、横堀、堀切、竪堀、説明板などの遺構が残っている。登城口から主郭までは約10分程で到着する。 本丸は約25m四方程の広さがあり、土塁が巡る。この南側にある二の丸との間には横堀が掘られ、西側には堀切が2本見られる。

甲斐源氏の祖源清光の子武田信義が生地逸見から分封して武田庄の庄官となり、武田八幡宮で元服して武田氏を称した。信義は武田に居館を構え、八幡宮の南の山に白山城を築いたという。

信義は甲斐源氏の一族を率いて治承・寿永の内乱において活躍し鎌倉幕府に参画するが、源頼朝の甲斐源氏粛清により遠ざけられ、文治2年(1186年)に死去し、城は武田館と共に荒廃したという。

その後、武田一族の甲斐一条氏、その支族武川衆の青木氏、青木氏から分派した山寺氏が相次いで守った。戦国期の天正10年(1582年)、織田信長のために武田氏が滅亡したが、本能寺の変で信長が死去すると武田遺領を巡り徳川氏と北条氏が争った(天正壬午の乱)。その際、武川衆は徳川氏に従い、北条への備えとして城を修築したと考えられる。江戸初期の寛文年間(1661年-1673年)廃城となった。

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甘利氏館・扇子平山城~武田家を支えた重臣

甘利氏館・扇子平山城



甘利氏は甲斐源氏の始祖武田信義の子で、甲斐国巨麻郡余戸郷に比定されている甘利荘を本貫とした一条忠頼の子行忠を始祖とする。行忠は甘利荘内に館を構えて甘利氏を称したという。館跡は現在の山梨県韮崎市旭町上条北割の大輪寺境内にある。

鎌倉時代の元暦元年(1184年)6月14日、忠頼は鎌倉の源頼朝の刺客により誅殺され、子・行忠も父に連座して常陸国に配流・翌年4月に殺害された。頼朝による甲斐源氏の勢力削減策の一環とみられる。

甘利荘はこの際に接収されており、鎌倉後期には北条得宗領となっている。ただし南北朝期の訴状で、甘利荘が忠頼の子孫に返付されたことが先例にみえ、甘利荘は北条領から甲斐源氏一族に返却されたと考えられているが、甘利氏の下に戻ったのかは不詳。「忠頼の子孫」も、甘利行忠の子・行義を指すとも、行忠の甥で甲斐一条氏(一条忠頼の家)の名跡を継いだ一条信長かともされる。

『続群書類従』の「武田系図」によれば、甘利行忠の子・行義の後は、頼高━頼行━宗信と続いているが[4]。それ以降は不明である。

その後、甘利氏は断片的に史料に登場し、戦国時代には武田氏家臣の譜代家老で「両職」を務めたと言われる甘利虎泰(備前守)、虎泰の子甘利信忠(昌忠)とその子息・信頼、信忠の弟とされる甘利信康(郷左衛門尉)、武田勝頼に仕えた甘利信恒(三郎次郎、信康の子か)ら甘利姓の人物が武田家臣として見える。ただし一族が甘利荘に拠ったかは不明瞭である。

甘利信康は虎泰の次男で、天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いにおいて戦死したという。信康の子・信恒(三郎次郎)は事跡不明であるが、『当代記』によれば天正4年9月に遠江国小山の陣中で殺害されたとしている。

信忠の子・信頼(二郎四郎)は永禄10年(1567年)に信忠が死去すると、幼少であったため『甲陽軍鑑』によれば米倉丹後守が「陣代」を務めたという。さらに甘利信康が名代であったとも考えられている。信頼も長篠の戦いにも従軍し、以後勝頼に仕えて活動している。『甲乱記』によれば、天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡の際には大熊長秀・秋山摂津守とともに離反した人物に「甘利左衛門尉」があり、これが信頼を指しているとも考えられている。その後の動向は不明。
Wikipedia:ウィキペディア

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