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星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Photo Movie で見る 城館をどうぞ( `ー´)ノ

古城巡り 写真館

PhotoMovieにて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・
城エクスポ2019

佐倉城~日本100名城?

佐倉城



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戦国時代中頃の天文年間(1532年から1552年)に千葉氏の一族である鹿島幹胤(かしまもとたね)が鹿島台に築いたといわれる中世城郭を原型として、江戸時代初期の慶長15年(1610年)に佐倉に封ぜられた土井利勝によって翌慶長16年(1611年)から元和2年(1616年)までの間に築造された平山城です。北に印旛沼、西と南に鹿島川・高崎川が流れる低地に西向きに突き出した、標高30m前後の台地先端に位置します。佐倉城はこうした地勢を巧みに利用し、水堀、空堀、土塁を築いて守りを固め、東につながる台地上に武家屋敷と町屋を配して、城下町としました。以後、江戸の東を守る要として、有力譜代大名が城主となり、歴代城主の多くが老中など幕府の要職に就きました。なかでも、幕末期の藩主・堀田正睦(ほった まさよし)は、日本を開国に導いた開明的な老中として有名です。
 明治維新後には城址に陸軍歩兵第二連隊(後に第五十七連隊=通称・佐倉連隊)が置かれたために櫓や門などはそのほとんどが取り壊され、昭和20年の終戦まで軍隊が置かれていました。
公園の本格的な整備は昭和54年度から始まり、水堀の復元・本丸跡・出丸跡・三逕亭(茶室)などが整備されました。

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松本城~現存天守で国宝

松本城



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松本城は戦国時代の永正年間に造られた深志城が始まりで、現存する五重六階の天守の中で日本最古の国宝の城です。黒と白のコントラストがアルプスの山々に映えて見事な景観です。大天守と、泰平の世になって造られた辰巳附檜・月見檜のまとまりは「複合式天守」と呼び、それぞれの時代を象徴しています。この連結複合式天守は松本城だけに見られる特徴的な構造です

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弘前市城館~青森県

大光寺城 石川城 堀越城 大浦城 三世寺館 古屋敷



大光寺城 
建保5年(1217)、平賀郡岩館に相州曾我氏一族平広忠が地頭代として入部、曾我氏を名乗る。その後曾我氏は大光寺の本家と岩館の分家に分かれた。しかし、大光寺の本家は北朝方、岩館の分家は南朝方につき、同族での争いが始まった。その後、戦国時代には、滝本重行が入った。しかし、弘前城築城の際破却された。又、平川市市内には、高畑城、沖館城をはじめとする出城(砦)の跡が多数ある。なお大光寺城は築城期によって大光寺古館・大光寺新城・大光寺五日市館に分かれる。なお、大光寺城は前文にて上げた3つをまとめて記述した文献が多いため、信憑性にかける部分もある


大光寺(古館)が南部氏の支配下に入ると北信愛が入り、その後滝本重行が城主となった。城下家数90軒、石高1万5,6千石(2万超とする文書もあり)を誇り、田舎館城、浅瀬石城、新屋城、尾崎城、高畑城、沖館城、乳井城、杉館、三ツ目内城を配下に置き津軽三大名の一つであった。その後信愛の子の北光愛が亡くなり、このとき、光愛の子、六郎と七郎は幼少の、重行が後見し大光寺に残った。天正3年夏、大浦(津軽)為信が4000人もの大軍を率いて攻めてきた。第一陣は、乳井建清、一町田信清ら700(館田口)、第二陣は小笠原信清、桜庭信正ら800(大光寺城東側)、森岡信元、兼平綱則ら旗本1000(館田林の本陣)、さらに千徳政氏、葛西治部(浪岡城、新屋城、尾崎城からの援護を遮断)を配置する大軍であった。しかし、城代滝本重行が700の手勢を率いて、本陣に切り込んだ。大浦為信は馬の足を泥田にとられるも、近習(桜田宇兵衛、または天童衛門四郎とも)の機転により辛くも窮地を脱し、堀越城に逃げ帰った。しかし、天正4年(1576年)正月元旦、新年の祝賀中を大浦為信に奇襲され、支城の尾崎城、新屋城などと共に落城し、滝本重行は南部に逐電した。光愛の子、六郎と七郎は比内に去し、天正7年(1579年)7月、滝本重行・北畠顕則らと共に1000人の兵で津軽に侵攻した。乳井茶臼館・乳井城を奪取・沖館城を攻撃したが、城方の反撃で敗れる。その間に大浦為信は兵を集め、六羽川流域で衝突し激戦を繰り広げた。一時は、為信本陣まで突入したが、六郎が討ち取られ、諸将は比内へ逐電した(六羽川合戦)。天正10年(1582年)には、乳井館主乳井建清が城主となる。慶長4年(1599)、津軽為信の娘婿津軽建広が城主となるが、翌年大光寺城を去る。慶長15年(1610年)、弘前城築城のため破壊され、建材が利用された。また、弘前城亀甲門は、大光寺城の追手門を移築したものであり、本丸御殿の欄間は弘前の専光院に使われた。大光寺から弘前に移転した弘前市新町誓願寺の鶴亀門も大光寺城のものを移転したとの伝承が残る(その形式から江戸中期との説が一般的だが、室町時代の手法も見られることからどちらが正しいのかさだかではない)。本丸・二の丸・北の郭・東郭・小館で構成されている。現在は、堀は埋まり、土居は崩され、宅地あるいは畑となっている。

大光寺城は、大光寺古舘、大光寺新城、大光寺五日市館の3つからなるとされる


周辺は宅地となり、遺構のだい部分は消滅をしている。
大光寺

石川城 
別名、大仏ヶ鼻城。周辺の館とあわせて石川十三楯(大仏ヶ鼻城、岡館、猿楽館、月館、坊館、八幡館、寺館、高田館、茂兵衛殿館、寺山館、孫兵衛館、小山館、新館)と呼ばれ、この13の城館の総称として石川城といわれた。

津軽の曽我宗家である平賀の曽我道性により建武元年(1334年)に築城されたと伝わる。曽我氏はその後南部氏に制圧され、天文2年(1533年)石川高信が石川城を居城としていた。だが元亀2年(1571年)5月5日未明、大浦為信(後の津軽為信)の急襲を受けて落城、石川高信は自害した。その後石川城は津軽氏の所有となり、津軽家臣である板垣将兼が守った。慶長16年(1611年)、弘前城築城に際し石川城は廃城となった。

大仏花城

堀越城 
堀越城は、津軽統一を果たした津軽藩藩祖、津軽(大浦)為信の居城でした。
この城は南北朝時代に曽我貞光によって築かれたとされ、16世紀の中頃には大浦氏の居城になったとされています。
為信は津軽統一の始まりとなった、元亀2年(1572)の大仏ヶ鼻城攻めにこの城より出陣し、統一後の文禄3年(1594)には本拠を大浦城より、ここ堀越城に移したとされますが、慶長16年(1611)に弘前城へ移転しました。

堀越

大浦城 
大浦光信が津軽進出の拠点として古館を改修、子の大浦盛信を置いたのが始まりで、その後、元和の一国一城令により廃城となった。現在は、弘前市立津軽中学校の敷地などになっている。

城の規模は、東西500メートル、南北250メートルほど。
文亀2年(1502年)、大浦光信により築かれる。大浦光信の子孫、大浦為則の婿養子である大浦為信の代になり、堀越城に本拠地が移ると、城番が置かれるだけになった。その後元和の一国一城令により廃城となったが、二の丸・本丸・西の丸の土塁は残された。弘前城の詰城としてその後も、西の丸には火薬庫などが建てられた。


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三世寺館 

鎌倉時代末期藤崎城安東氏の所領で別当熊野修験の館という。

三世寺館は標高28.4mの独立丘陵に築かれている。 山上は二段の曲輪があり、山頂には仁王堂が鎮座している。 主郭の南淵と下の曲輪の西から南側の淵には幅広の土壇があり、土塁跡と思われる。

三世時

古屋敷

久元年(1190年)平賀郡岩楯の地頭代となった曾我時広にはじまり、大光寺城の曾我氏の分家の岩楯曾我氏による館跡とみられている。西にある岩館集落の周辺には岩楯跡が確認されてておらず、この古屋敷館をそれとみるむきもある。

古屋敷館は周囲の水田よりわずかに高い長方形の曲輪で、現在畑に利用されている。 西側の一部が墓地になっており、ここに古屋敷の案内板が設置されている。

古屋敷

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小島陣屋  静岡県静岡市

小島陣屋マップ ①



小島陣屋



小島陣屋



興津川右岸の河岸段丘上に立地し(標高約60m)、街道筋(身延道)に広がる小島の町並みを一望できます。
 宝永元年(1704)に松平信治が陣屋を構えたのが小島藩の始まりで、以後明治元年に上総国に移封になるまでの164年間、安倍・有度・庵原の三十カ村を支配する一万石譜代大名として藩政を展開しました。
 中心である御殿の西側から南側にかけて石垣を多用し、三段の郭をもつ小城郭風の縄張りを特徴としています。石垣の高さは2m以下に抑えられていますが大手の一部では4mに達するものも見られます。
 明治になり廃城となった後にしばらく小学校として利用されていましたが、昭和3年に建物が取り壊され、現在では石垣がその名残をとどめています。また、御殿書院建物は移築され小島公会堂として使用されています。
 城郭を思わせる石垣が良好に残っているなど江戸時代中期における大名陣屋の在り方と構造を知る上で貴重であるとして、平成18年7月28日に国指定史跡に指定されました。





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駿府城 丸子城~静岡

駿府城 丸子城



駿府城  静岡県静岡市葵区駿府公園1-1

駿府城


駿府城は徳川家康が大御所となって隠居した際に使われた城です。天下普請によって大修築され、城郭史上最大の天守台が築かれました。天守は家康により3度建てられましたが、城下の火災が延焼して焼失しました。現在、中堀の内側にある旧二の丸と本丸が「駿府城公園」として整備されており、石垣や堀を見ることができます。また巽櫓と東御門、坤櫓が復元されて資料館として公開されています。

丸子城 静岡県静岡市丸子

小丸山城


南北とも最高所の標高は136メートル、比高100メートルであり、城域は東西800メートル、南北350メートルに及ぶ。北城は南から屈折して北東へ伸びる主軸尾根上に、西から東へ一線に一の曲輪・二の曲輪・三の曲輪が段状を成して造られ、各曲輪は土塁で囲まれており、郭間は空堀で仕切られている[1]。南城は主軸尾根の南端に長さ95メートル、幅平均40メートルで、高さ2メートルの土塁を周回させた「千畳敷」と呼ばれる主郭を構え、東西の支尾根上に段上に重ねた曲輪を設けている[1]。南城本丸から北城主郭間の西側斜面には、南北に長大な空堀が設けられている。

北城は応永年間、駿河国守護今川氏の家臣、斎藤安元歴代の居城として築城され、北城の北側山麓には斎藤氏の居館が設けられていたと見られている

今川義忠が、文明8年(1476年)に戦死し、龍王丸(後の今川氏親)と、小鹿範満との間で家督争いが起きた際、龍王丸は一時丸子城で暮らしていた。家督相続した氏親が西進を目指すに当たり、駿河府中の防御を固めるため斎藤氏の居城を接収して、南の三角山方面に城域を拡大したのが南城であるが、氏親以降氏真までの城主や歴史は不明である

永禄11年(1568年)、武田信玄が駿河に侵攻すると、西駿河に残る今川方への押さえとして山県昌景が丸子城に置かれた。永禄13年(1570年)、信玄は駿河全域を制圧して、丸子城は諸賀兵部大輔・関甚五兵衛を在番とし、天正6年(1578年)頃には屋代勝永に替えた[1]。この間、西方面の大規模な増築や各所の改修が行われた

天正9年(1581年)3月の高天神城落城を前に、武田方は徳川方に丸子城を明け渡して退去し、徳川家康は松平備後守を置いたが、天正18年(1590年)の関東移封に伴い廃城となった
Wikipedia:ウィキペディア

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小田城~2015改

小田城 壱 2015.9.26



小田城 弐 2015.9.26



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鎌倉期から戦国期まで小田氏の居城であり、その始まりは小田氏の祖八田知家が文治元年(1185年)に常陸守護に任命されて当地に移って居館を構えたことによると云われる。

その後、南北朝期には、当主小田治久が南朝方に属し、小田城は常陸南部における南朝方の拠点となり、北畠親房や春日顕国なども入城している。

下って戦国時代の弘治・永禄年間、当主小田氏治は佐竹氏・多賀谷氏・真壁氏や越後の上杉謙信、小田原の後北条氏らと抗争を繰り返した。後北条氏と結んだ小田氏治は、永禄7年(1564年)に山王堂の戦いで上杉謙信に敗れるなど苦戦を強いられ、激しい小田城争奪戦が繰り広げられる[1]。天正元年(1573年)(永禄12年説有り[2])の手這坂の戦いに敗れ、小田城は佐竹氏のものとなり、翌元亀元年に太田資正が城主になり、同三年に資正の子の梶原政景が城主になった。のち、佐竹氏の一族小場義宗が城主になったが、慶長七年(1602年)に佐竹氏の秋田移封に伴って廃城になった。

小田城の遺構
小田城は、小田山の麓の交通と水利に恵まれた場所にある。築城当初は、本丸跡を中心に、四方に濠と土塁を廻らした単郭式の館であったといわれる。その後、戦国期になると城域を拡張して約40haになる平城が築かれた。

一の濠と二の濠の間には、小田家一門の屋敷があり、三の濠と四の濠の間には旗本屋敷や米蔵、武器庫などがあった。城の北側に大手門があり、西には旗本屋敷や竜勝寺、長久寺等がある。

小田城は、宝篋山の南西の尾根のふもとに造られている東西約1km、南北約700mの平山城である。 戦国時代は湿地帯であったので、城附近の堀のほとんどが水堀であったと思われるが、現在は多く水田になっている。城の中心部に東西120m、南北140mの方形の主郭があり、土塁と濠に囲まれている。土塁の西・東・南の隅には櫓台が認められる。主郭周辺の郭には、馬出しや帯曲輪跡がある。濠や土塁には、随所に折りや喰違いがあり、虎口には馬出しの他に枡形も多く見られる。

鎌倉時代

源頼朝が平氏を滅亡させて鎌倉幕府を作った時に頼朝とともに戦った八田知家は、有力御家人の一人として常陸国の守護職を得て小田城を築き、小田氏の祖となった。それまでの常陸国南部は、平将門を亡ぼした常陸平氏が支配していたが、小田氏はやがて常陸平氏を従えて常南地方で最大の大名になった。しかしやがて鎌倉幕府の政権が北条氏に移り、常南地方の小田領も北条氏に多くを奪われるとともに守護職も失った。

南北朝時代

後醍醐天皇が中心となって鎌倉幕府が倒されたが、元弘の乱で小田氏は幕府軍に従っており、幕府滅亡後その罪を問われることを恐れて、幕命で常陸国に流罪とされていた万里小路藤房を助けて上洛し新田義貞に味方し赦免を得ることができた。続いて足利尊氏の北朝と後醍醐天皇の南朝に分かれて激しい戦いが続いた南北朝時代になり、小田城は常南地方の南朝の中心になった。南朝勢力の参謀役であった北畠親房は、天皇領の庄園で小田氏の支配下にあった信太荘に海路上陸し、やがて小田城に在城して東国の勢力挽回を図った。北畠親房の著した『神皇正統記』が小田城で執筆されたことは名高い。

室町時代

旧領の回復を願って小田氏は南朝に味方して戦ったが、期待した恩賞が得られず、北朝の足利尊氏勢から小田城が攻撃されることになり、やがて小田氏は足利尊氏に従うことになった。室町幕府は、東国経営を目的に鎌倉府を設置して鎌倉公方(足利氏)を置き、鎌倉府の下に東国武士を支配する関東管領(上杉氏)を置いた。常陸国の守護職には、当初から北朝側にあった佐竹氏が任命された。

やがて鎌倉公方は、室町幕府からの独立経営を望み幕府に従わなくなってきた事から、幕府は関東管領に指示して鎌倉公方との戦いが始まった。(後に鎌倉公方は鎌倉から古河に逃れ、古河公方と呼ばれるようになった。) 

県南地方は、古河公方側と関東管領側に分れて、激しい戦いを繰り広げた。又、上杉氏も同属争いがあり、山内上杉氏と扇谷上杉氏との戦いがあり、県南地方は長期の戦いが続き、小田氏は存続の為の厳しい選択をせまられた。

戦国時代

室町幕府の勢力が弱まり、古河公方は小田原の後北条氏の傀儡になり、上杉氏は関東管領職を長尾景虎(上杉謙信)に譲り渡すことになった。上杉謙信が小田原攻撃を行って、帰路に鎌倉で関東管領職の就任式を行った時、小田氏は上杉勢に加わっていた。

やがて、後北条氏が勢力を拡大して下総国を統合し、常陸国へ進出した頃、小田氏は後北条氏と同盟した。これに怒った上杉謙信は、小田城攻撃を行い、小田氏は敗走することになった。上杉謙信が帰った後、小田氏は小田城を奪還したが、上杉勢の佐竹氏や多賀谷氏に攻められ、手這坂の戦を最後に小田氏は小田城を失うことになった。

保存整備事業

1935年(昭和10年)6月7日、城跡周辺約21.5haが国指定史跡に指定された。

その後、つくば市による保存・整備事業が1983年(昭和59年)の「保存管理計画」を皮切りに始まり、1997年(平成9年)から発掘調査が実施されるようになった。これにより、三重の堀や大小の曲輪が東西500m、南北600mに渡って巡らされていたことが判明した。また2004年(平成16年)から本格的な調査を開始、2014年(平成26年)には中世の小田城の姿を復元した歴史広場として再生される予定である。
Wikipedia:ウィキペディア

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真壁城~2015改

真壁城 主郭~鹿島神社



真壁城 鹿島神社~真壁氏累代墓所



真壁駅跡の東に位置し、加波山系の足尾山西麓にある台地上に築かれた連郭式の平城である。また、古代の真壁郡家が存在したとも言われ、真壁郡の中心地に位置していた。

西に本丸を同心円状に囲む二ノ丸があるほか、二ノ丸の東側に三の郭(中城)・四の郭(外郭)が続き、外郭南東端には鹿島神社が祭られている。

築城は承安2年(1172年)と伝わる。大掾直幹の子・長幹が真壁郡に入って真壁氏を名乗り、郡家の場所に築城した。以来真壁氏の居城として続いた。

文献上で真壁城が初出するのは興国2年(1341年)12月で、北畠親房の「御方城々」として、真壁城がみえ、南朝方の城であった。のち北朝方に立場を変え、真壁氏は地頭職を有している。応永30年(1423年)、真壁慶幹のとき小栗満重の乱に小栗方で参加したため足利持氏軍によって落城したが、その後の混乱の中で慶幹の従兄弟・朝幹が真壁に復権した。

17代久幹のときに次男義幹が柿岡城に分家し、18代氏幹に至って甥の柿岡城主房幹(義幹の子)に家督を譲ったため、真壁城は真壁本家の城ではなくなった。その後、慶長7年(1602年)佐竹氏の秋田転封の際、佐竹氏の家臣団化していた真壁氏も出羽角館へ移住し、真壁城は空城となった。そののち慶長11年(1606年)浅野長政が隠居料として真壁藩5万石を与えられ、同16年(1611年)に長政の跡を継いで真壁城に浅野長重が入城した。 元和8年(1622年)、浅野長重は加増され、真壁は領有し続けるものの常陸笠間城へ移動となり、真壁城は廃城となった。

城門のうち薬医門が各々一棟、楽法寺黒門(旧大和村)・個人宅表門(旧協和町)として移築され現存している。縄張り全体では保存状態は良好だが、本丸跡には旧真壁町立体育館があり、二の丸跡には体育館建設での残土が盛られているなど中枢部の保存状態は良くない。 昭和9年(1934年)以来、本丸の一部が茨城県指定史跡となっていたが、平成6年(1994年)に国の史跡に指定された。
Wikipedia:ウィキペディア

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平将門史跡巡り2015

平将門史跡巡り


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平将門 豊田館


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平将門 騎馬像


石井宿営拠点
島広山・石井営所跡
岩井市街地から結城街道を沓掛方面へ向かうと、国王神社手前に信号があります。その交差点を右折し、延命寺に向かう途中の台地を島広山と称します。ここに将門が関東一円を制覇するときに拠点とした石井営所跡があります。
 明治期に建てられた石碑の周辺を整備し、重さ20トンの筑波石を自然のままに置き、石の表面には「島広山・石井営所跡」と刻まれており、右側の副碑には、将門の事績と営所についての説明文が添えられています。
 石井営所が『将門記』に現れるのは承平7年(937)のことです。将門の雑役夫を務めていた丈部小春丸が平良兼の甘言につられてスパイとなり、すぐに営所内を調べあげて良兼に知らせます。良兼は好機到来とばかり精兵八十余騎で石井営所に夜襲をかけますが、将門方の郎党の急信により大敗します。
 石井営所の周辺には、重臣たちの居館、郎党などの住居などが並び、そのうえ、将門が関八州を攻めたときには2千騎、3千騎が終結しているので、軍勢が集まった時の宿舎や食糧庫並びに馬繋ぎ場などが必要でした。今の上岩井から中根一帯に、これらの施設が設けられていたと考えられています。
 石井営所は、名実ともに将門の政治、経済、軍事の拠点として賑わいましたが、天慶3年(940)、将門は藤原秀郷と平貞盛の連合軍と合戦して破れ、営所の建造物が焼き払われてしまいました。




 平将門伝説は、北は北海道から西は広島県まで分布し、中でも将門の支配下にあった関東地方に多く残っています。
 他にも伝承などを加えると、その多彩さに圧倒されます。
 今から1100年前の東国は、坂東と呼ばれる未開拓の地でした。その荒地の開拓に農民たちと取り組んだのが将門であったと伝えられています。将門は新しい時代を予期した馬牧の経営と製鉄による農具の開発などに取り組み、荒地の開拓を容易にしました。そうした進歩性が一族との争いを生み、その争いが国家権力との争いに発展し、豊かな郷土の実現を間近かにして敗れてしまいました。
坂東市観光協会hpより

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館林城~城下を歩く改2015

館林城@樋口山城守与六
㊟イメ-ジ図になります(・Д・)ノ





館林城 外郭・総構

館林城

館林城城址碑
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鷹匠町武家屋敷
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尾曳(おびき)城ともいう。15世紀に築かれたとされる。徳川四天王の一人榊原康政が石垣や天守を持つ近代的な城に造り変えた。現在、一部の遺構を残しているのみで、跡地に市役所、文化会館、市立図書館、向井千秋記念子ども科学館などが建てられている。

【歴史・沿革】
室町時代
:築城については、江戸時代になって書かれたもののなかに、赤井照光によって築かれたとするものがあり、「狐の尾曳伝説」として知られているが、現在確認されている館林城について書かれた最古の古文書は、文明3年(1471年)に上杉軍が赤井文六、文三の居城である「立林(館林)城」を攻略したという記録である。

:「狐の尾曳伝説」とは、赤井照光が子ぎつねを助けたところお稲荷様の化身の白きつねが現れ、尾を曳いて城の配置を教えてくれたというもの。

戦国時代
:その後、越後の上杉氏や甲斐の武田氏、相模の北条氏による三つ巴の攻防のなかで長尾氏、北条氏などが館林城を支配するようになったが、天正18年(1590年)の徳川家康の関東入封に伴って、徳川四天王の一人榊原康政が10万石で城主となった。

江戸時代
:江戸時代に入ると、館林は利根川を押さえる東北方面への要所として、また、徳川綱吉が五代将軍になってからは将軍を輩出した地として重視され、最後の城主秋元氏まで江戸幕府の重鎮を務めた七家の居城として栄えた。
かつては総構があり、本丸には三層の天守と二重櫓が一基、御厩曲輪(再築後の南曲輪)にも二基の二重櫓があり威容を誇っていたが、天和3年(1683年)に徳川徳松が急死すると廃藩となり廃城となった。
宝永4年(1707年)松平清武が入封すると館林城は規模を縮小して再築され、本丸に天守代用の二重櫓が、南曲輪と三ノ丸にも二重櫓が一基ずつ上げられた。

近現代
:城の建物の大半は明治7年(1874年)に焼失したが、現在でも本丸、三の丸、稲荷郭、城下町などの土塁の一部が残されており、三の丸には土橋門が復元されている。

城沼を城の東側の外堀とし、この沼に突き出す形の低台地に、本丸(子ども科学館南側)、二の丸(現在は市役所)、三の丸(現在は文化会館)、八幡郭(くるわ)、南郭を置き、これらを取り囲むように稲荷郭、外郭、惣郭を構え、さらにその西方に城下町を配置し、それらを土塁と堀によって囲んでいた。

土橋門
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土橋門は、昭和58年(1983年)、城下町・館林のシンボルとして城壁とともに復元された。
この門は、城の中心部に通じる三の丸に設けられ、千貫門(せんがんもん)に対し、通用門として使われた。「土橋門」という名前の由来は、門前の内堀に架けられた「土橋」からきたと言われている。また、防御用に黒色の鉄板が打ち付けられており、地元では「黒門」とも呼んでいる。

千貫門跡
千貫門は三の丸の北面中央にあった、城内にある重要な門の1つ。その形態は渡櫓門で、土橋門が通用口であるのに対して武士の正門とされていた。

左上のレリーフは、館林出身の版画家・藤牧義夫の作品『山岳画集』に収められているもので、尾曳神社に奉納されている館林城絵馬を参考に描いたものともいわれる。

大手門
大手門は、現在の三角公園(大手町)の東北隅にあって、東側の侍屋敷、西側の城下町を隔てていた。ここから東へ約400メートルにわたり通称「大名小路」と呼ばれる大路が伸び、広小路、千貫門へと続いた。現在では、土塁や濠などは姿を消し、大手門跡碑が残されているのみである。









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七日市陣屋 小幡陣屋 麻場城 吉井陣屋

七日市陣屋 小幡陣屋 麻場城 吉井陣屋



七日市陣屋・・・前田利家の五男利孝が初代藩主で、現存建築物有り

w300h3004SNN98ZU七日市陣屋


小幡城(陣屋)・・・織田氏が支配していた、以外に知られていないのでは

w300h300S32XWZ1R小幡陣屋

w300h300US7SOZUJ織田氏墓

麻場城・・・断崖の城、公園化により遺構の状態は良好

w300h3002IWETXTG麻場城・城史公園

吉井陣屋・・・遺構はほぼ消滅

w300h300AC0NPMP3吉井陣屋・陣屋門


長根城・・・丘陵の上に有る城、追加探索要

w300h300565MA8P1長根城・本丸跡


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