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星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Photo Movie で見る 城館をどうぞ( `ー´)ノ

古城巡り 写真館

PhotoMovieにて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・

賤ケ岳古戦場 滋賀県長浜市

DSCF3197山頂から余湖




本能寺の変で織田信長が倒れた後、明智光秀を討ち実質的な主導権を握っていた豊臣秀吉と、織田家の旧臣中第一の家柄を誇る柴田勝家との間で権力争いが生じ、ついに武力をもって決着を付けようとしました。これが俗にいう「賤ヶ岳の合戦」です。余呉湖を挟んで、両軍は北と南で睨み合っていましたが、天正11(1583)年の4月20日の未明、勝家側が大岩山に奇襲攻撃をかけた時に始まり、秀吉が勝利を手にするまで、わずか2日足らずで終わっています。辺りは、あまたの屍体で埋め尽くされ、余呉湖が血で紅に染まったといいます。斬りこみ一番槍の功をたてた、世に名高い秀吉旗下の「賤ヶ岳の七本槍」の活躍はこのときの武勇伝です。
 賤ヶ岳の山頂広場には、戦跡碑や、戦没者の碑が立てられており、尾根続きの大岩山頂にも、秀吉側の武将中川清秀の墓があります。さらに、北麓には広い範囲にわたって、両軍の戦死者の墓や遺跡が点在し、南麓の山梨子(やまなし)集落には、落人伝説が残されています。





DSCF3180麓の賤ケ岳古戦場説明板





DSCF3198賤ケ岳合戦図





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2013年7月5日




[滋賀県長浜市木之本町大音1027]

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祥室院殿の墓(館林城主榊原忠次の母) 善長寺 群馬県館林市

市指定史跡

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善長寺 群馬県館林市




館林城主榊原忠次の母「祥室院」は、下総国関宿(現在の千葉県野田市(旧東葛飾郡関宿町))城主松平因幡守家元(徳川家康の異父弟)の娘で、榊原康政の長子 遠江国横須賀(現静岡県掛川市)城主の大須賀忠政に嫁ぎ忠次を生みました。
忠政が慶長12年(1607年)に病没すると、徳川家康の命により伊勢国長島(現在の三重県桑名市長島町)城主菅沼定芳に再嫁し、元和9年(1623年)に近江国膳所(現在の滋賀県大津市)で病没しました。この時忠次は館林城主であったため、母の墓から遠く、菅沼家に分骨を請い善長寺に墓石を建立したといいます。
宝篋印塔は高さが4メートル89センチ程あり、宝珠下端から塔身にかけて「祖師西来意」、塔身に「瑞峰窓嘉元和九昭陽大淵歳南呂初九日」(元和九年八月九日)と刻まれています。瑞峰窓嘉は館林城主榊原(松平)忠次の母の法名。




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善長寺鐘楼堂




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館林城主榊原忠次の母 祥室院殿の墓 市指定史跡(館林市)




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[群馬県館林市当郷町1975]

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足袋蔵めぐり 埼玉県行田市

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忍城の城下町行田の裏通りを歩くと、時折ミシンの音が響き、土蔵、石蔵、モルタル蔵など多彩な足袋の倉庫「足袋蔵」が姿を現す。行田足袋の始まりは約 300 年前。武士の妻たちの内職であった行田足袋は、やがて名産品として広く知れ渡り、最盛期には全国の約8割の足袋を生産するまでに発展した。それと共に明治時代後半から足袋蔵が次々と建てられていった。今も日本一の足袋産地として和装文化の足元を支え続ける行田には、多くの足袋蔵等歴史的建造物が残り、趣きある景観を形づくっている。
日本遺産 足袋蔵めぐり




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将門塚 東京都千代田区

_DSC3316改伝承では、将門の首級は平安京まで送られ東の市、都大路で晒されたが、3日目に夜空に舞い上がり故郷に向かって飛んでゆき、数カ所に落ちたとされる。伝承地は数か所あり、いずれも平将門の首塚とされている。
その中でも最も著名なのが、東京都千代田区大手町一丁目2番1号外(地図)三井物産本社ビル傍にある首塚である。かつては盛土と、内部に石室ないし石廓とみられるものがあったので、古墳であったと考えられている。






_DSC3317改江戸時代は酒井雅楽頭の上屋敷の中庭





_DSC3324改この地はかつて武蔵国豊嶋郡芝崎村と呼ばれた。住民は長らく将門の怨霊に苦しめられてきたという。諸国を遊行回国中であった遊行二祖他阿真教が徳治2年(1307年)、将門に「蓮阿弥陀仏」の法名を贈って首塚の上に自らが揮毫した板碑を建立し、かたわらの天台宗寺院日輪寺を時宗(じしゅう)芝崎道場に改宗したという。日輪寺は、将門の「体」が訛って「神田」になったという神田明神の別当として将門信仰を伝えてきた。その後江戸時代になって日輪寺は浅草に移転させられるが、今なお神田明神とともに首塚を護持している。時宗における怨霊済度の好例である。
首塚そのものは関東大震災によって損壊した。その後周辺跡地に大蔵省仮庁舎が建てられることとなり(後述)、石室など首塚の大規模な発掘調査が行われた。昭和2年(1926年)に将門鎮魂碑が建立され、神田明神の宮司が祭主となって盛大な将門鎮魂祭が執り行われる。この将門鎮魂碑には日輪寺にある他阿真教上人の直筆の石版から「南無阿弥陀仏」が拓本された。






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_DSC3323改築土神社や神田神社同様に、古くから江戸の地における霊地として、尊崇と畏怖とが入り混じった崇敬を受け続けてきた。この地に対して不敬な行為に及べば祟りがあるという伝承が出来た。
そのことを最も象徴的に表すのが、関東大震災後の跡地に都市再開発として大蔵省の仮庁舎を建てようとした際、工事関係者や省職員、さらには時の大臣・早速整爾の相次ぐ不審死が起こったことで、将門の祟りが省内で噂されることとなり、省内の動揺を抑えるため仮庁舎を取り壊した事件や、第二次世界大戦後にGHQが丸の内周辺の区画整理にとって障害となるこの地を撤去し造成しようとした時、不審な事故が相次いだため、計画を取り止めたという事件である[2]。
結果、首塚はバブル景気後も残ることとなり、毎日、香華の絶えない程の崇敬ぶりを示している。近隣の企業が参加した「史蹟将門塚保存会」が設立され、維持管理を行っている。





[東京都千代田区大手町1丁目2−4]

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小塚原処刑場 東京都荒川区

小塚原回向院小塚原回向院  小塚原回向院は本所回向院の住職弟誉義観が、行路病死者や刑死者の供養のため、1667年に小塚原刑場の傍らに開いた寺院です。文政5年(1822)津軽藩主津軽寧親を襲撃した南部藩出身の相馬大作を処刑して以降、国事犯の処刑場となったため、橋本左内、頼三樹三郎、吉田松陰や鼠小僧、高橋お伝の墓など多くの供養碑があります。





小塚原処刑場 解体新書の碑明和8年(1771)蘭学者杉田玄白・中川順庵・前野良沢らが、小塚原で刑死者の解剖に立ち合った。後に解体新書を翻訳し、日本医学史上に大きな功績を残したことを記念して、対象11年に観臓記念碑が建立された





小塚原処刑場 回向院 解体新書改





小塚原処刑場 回向院 説明板小塚原処刑場 回向院 説明板





小塚原処刑場 回向院 墓所1小塚原回向院は、寛文七年(1667)、本所回向院の住職弟誉義観が、行路病死者や刑死者の供養のために創建しました。





小塚原処刑場 回向院 吉田松陰墓回向院 吉田松陰墓





小塚原処刑場 回向院 墓所2





小塚原処刑場 延命寺 首切り地蔵小塚原処刑場 延命寺 首切り地蔵





小塚原処刑場 首切り地蔵





[東京都荒川区南千住5丁目33−13]

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