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星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Photo Movie で見る 城館をどうぞ( `ー´)ノ

古城巡り 写真館

PhotoMovieにて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・

実相寺 西方氏・西方藩主墓所 栃木県栃木市

実相寺 遠景
西暦1600年(慶長5年)2月の創建、開基は結城城主結城晴朝、開山国大佑和尚と伝えられています。




六地蔵と山門
六地蔵と山門




実相寺 本堂
実相寺 本堂




案内板
西方氏墓・西方藩主墓 案内板




藤田(小野)康邦(右衛門佐、泰邦)の次男といわれているが、康邦は天文24年(1555年)8月13日、つまり信吉が生まれる4年前に死去しており計算が合わない。このため、康邦の孫または甥ではないかと思われる。また、藤田泰邦の一族である用土業国(新三郎、新左衛門尉)の子息とする説もある。
兄の用土重連が藤田氏邦(康邦の養子)に謀殺されたことによりその跡を継いだ信吉は、はじめ用土氏・小野氏を名乗っていたが、天正8年(1580年)8月、旧知の間柄であったという武田家臣・真田昌幸の調略を受入れ北条氏から離反し、武田氏に沼田城を引き渡した。その後、上州攻略で武功を挙げ、沼須城主となり、武田勝頼から5700貫の所領を拝領する。さらに藤田氏に復して勝頼から武田氏の通字「信」字を与えられ藤田能登守信吉と名乗り、海野信親の娘を娶った。
天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡後、他の上州国人と同様に織田氏の重臣・滝川一益に仕える。同年6月の本能寺の変の後、上杉方の長尾伊賀守に通じ、5千の兵で滝川益重麾下4千の兵の守る沼田城を攻めたて水曲輪の一つを乗っ取るも、一益が小幡、安中、和田、倉賀野、由良、長尾(館林)、内藤を従え2万の兵で北上した為、信吉は沼田城攻略を諦め、6月13日夜、泣く泣く越後に落ちていったという。
上杉景勝から越後長島城を与えられた信吉は、以降上杉家中で数々の武功を挙げていく。特に新発田重家討伐戦では、新潟城・沼垂城を調略によって降し、赤谷城救援に駆けつけた金上盛備率いる蘆名軍を撃破し、さらには五十公野城を攻略するなど、その功績は抜群であった。天正17年(1589年)佐渡国の本間氏討伐にも従軍し、天正18年(1590年)の小田原征伐では上杉軍の先鋒を務め、上野・武蔵の北条方の諸城を次々と攻略した。慶長3年(1598年)に上杉氏が会津に移封されると、景勝から越後津川城代として1万5,000石の所領を与えられた。
慶長5年(1600年)、信吉は景勝の代理として新年の祝賀のために上洛する。この際、徳川家康は信吉に銀子や青江直次の刀等を贈るなどして好意的に接している。しかし景勝の後に越後に入封した堀秀治が、上杉に叛意有りと訴えたことで上杉と徳川の間で緊張が高まった。上洛して申し開きをせよと迫る家康に対し、上杉家の権臣・直江兼続は露骨に家康に敵対する姿勢を見せた(そもそも堀と上杉の対立は、上杉が越後から会津に転封された際に、新領主の為に残して置くべき分の年貢を兼続が全て持ち去ったことに起因する)。
信吉は景勝に安易に挑発に乗らぬよう諫言するとともに、自らは大坂に赴いて家康に対して懸命に弁明して避戦に努めた。ところが、兼続が信吉は家康に買収されて内通していると讒言したため、信吉や大森城代の栗田国時ら避戦派は上杉家からの出奔を余儀なくされ、江戸の徳川秀忠の許に逃れた(国時は兼続の追っ手により殺害された)。その後、信吉は京都の大徳寺に入って剃髪し、源心と号した。関ヶ原の戦いの後、信吉は家康に下野国西方に1万5,000石の所領を与えられたため、還俗して諱を重信と改めた。
慶長7年(1602年)、佐竹義宣が常陸国水戸から出羽国秋田へ減移封されたとき、水戸城の接収を担当している。大坂の陣にも従軍したが、慶長20年(1615年)の夏の陣後に改易された。理由は榊原康勝軍の軍監を務めていたときの失態、戦功に対する不満からの失言など諸々の理由を挙げられている。
元和2年(1616年)7月14日、信濃国奈良井宿で死去した。享年58。死因は病死説もあるが、近年では自殺説が有力となっている。
末裔として、黒前村議藤田源七、同藤田源次などがいる。



藤田信吉の墓 実相寺
藤田信吉墓所 実相寺





西方藩主墓 説明板
西方藩主(藤田信吉)墓所 説明板





西方遠江守景泰(とおとおみかげやす)は、永仁元年(1293)に宇都宮氏から分家して城を築き初代西方城主となった。爾来、足利氏旗下として、宗泰(むねやす)、綱泰(つなやす)、綱貞(つなさだ)、綱朝(つなとも)と続き6代目から西方太郎左衛門尉(さえもんのじょう)を名乗るようになった。6代目西方太郎左衛門尉綱定は、佐野唐沢城主や皆川山城主広照と数回激しい戦いを交えた。その一方、永禄年間に当山那智山実相寺を興した。7代目西方太郎左衛門尉綱吉(つなよし)は織田信長に仕えたが、その生害後は上杉景勝についたため、天正15年(1587)に落城の憂目(うきめ)を見る。ここに初代以来、290余年を以って城主の座を追われた。8代目西方太郎左衛門尉綱清(つなきよ)と養子の9代目西方太郎左衛門景英(かげひで)は、これまでの由緒を以て扶助される。10代目西方太郎左衛門尉景高(かげたか)の母は8代綱清の娘で、父は輝定の家臣遠藤六郎左衛門で、その次男としてうまれ綱清の養子となる。綱清の死以前に高崎城を出て牢人となり、西方の当寺に住むが正徳元年(1771)武芸修行のため江戸に出て野沢新助と改名する。しかし、修行半ば20才の正徳4年(1774)に西方郷阿久津勝右衛門の必死の看病も空しく江戸で病死してしまう。勝右衛門が当時に石塔、墓を建立したものである。10代目以降子孫、係累なく断絶となるは是非なきものである。
出典「西方記」 西方町教育委員会




西方氏の墓
西方氏後裔の墓




西方代四郎高之墓
西方氏後裔 西方代四郎景高之墓




西方代四郎景高の墓
西方代四郎景高の墓所




西方藩主後裔の墓 説明板
西方氏後裔の墓 説明板




[栃木県栃木市西方町元1739] 2020.01.20

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福島正則霊廟 岩松院 上高井郡小布施町

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本堂裏の石段を上ったところには、賤ヶ岳七本槍のひとりに数えられ、寛永元年(1624年)に没した福島正則(ふくしままさのり)の霊廟が建立されています。
霊廟には、遺骨が埋葬され、左遷状や太閤葬儀行列張などが納められています。
福島正則は、元和5年(1619年)、台風による水害で破壊された広島城の本丸・二の丸・三の丸の石垣の修築を幕府に無断で行なったとして、安芸・備後50万石は没収、信濃国川中島四郡中の高井郡と越後国魚沼郡の4万5000石(高井野藩)に減転封されていました。
寛永元年(1624年)、高井野(長野県高山村)で死去、岩松院に葬られています





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岩松寺




岩松寺 本堂
岩松院 本堂



福島正則霊廟 標柱




福島正則霊廟
福島正則霊廟



蛙合戦の池の畔には、たった1ヶ月足らずで他界してしまった小林一茶の初児、千太郎への励ましの句でもある「痩せ蛙まけるな一茶これにあり」という句が記された句碑があります。



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「痩せ蛙まけるな一茶これにあり」という句が記された句碑」



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蛙合戦の池





[長野県上高井郡小布施町雁田615]

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榊原康政の墓 善導寺 群馬県館林市

【県史跡指定】

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善導寺は館林駅前に隣接していたことから、館林駅前広場整備計画により現在の地に移転しそれにに伴い、榊原家の墓も移転しました。



榊原康政は、天文17年(1548年)三河国上野(現在の愛知県豊田市)に生まれ、幼名を亀、のちに小平太と名乗り12才で徳川家康の家臣となりました。
初陣は、永禄6年(1563年)上野の合戦で、この時手柄をたて家康から一時を賜り家政と名乗りました。以後、姉川、三方ヶ原、長篠、小牧、長久手などの合戦を戦歴し、徳川幕府の功臣として、後に井伊直政、本多忠勝、酒井忠次とともに徳川四天王の一人に数えられています。
天正18年(1590年)家康の関東入国に際し、10万石を領し館林城主となりました。館林での業績は、城の拡張、城下町の整備、利根川・渡良瀬川の築堤をはじめ、日光脇往還を新設するなど、土木事業において顕著で郷土館林の礎を築きました。
康政は慶長11年(1606年)に没し、法名は養林院殿上誉見向大禅定門。、墓の高さは5.46メートルの宝篋印塔です。墓所には康政を含め榊原家関係者5基の墓石が並んでいます。





善導寺 縁起





善導寺 本堂
善導寺 本堂




榊原家墓所
榊原家墓所




榊原康政墓所
榊原康政の墓 善導寺 県指定史跡(館林市)






[群馬県館林市楠町3692]

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樋口次郎兼光の墓 長野県上伊那郡辰野町

DSC_0021改樋口次郎兼光は、木曽義仲に従い倶利伽羅峠の戦いなどで活躍した平安時代末期の武将。近江国粟津(滋賀県大津市)で、源範頼・義経の追討軍に敗れ、義仲とともに戦死したとも、義仲討死の報に接し、京に戻った後に捕らえられ殺されたなど、その最後をめぐっては諸説伝えられています。
辰野町樋口は、兼光が館を構えていた場所で、兼光死後、家来が遺髪を形見に戻り、真言宗香蓮寺に納め菩提を弔いました。
・・・・・・・・・・兼光の子孫が、直江兼続になる。






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乳母子として義仲と共に育ち、弟の兼平と共に忠臣として仕える。治承・寿永の乱における治承年(1180年)の義仲挙兵に従って各地を転戦した。寿永2年(1183年)の倶利伽羅峠の戦いなどで重要な役割を果たし、平家を都から追い落として7月に義仲と共に入京した。9月に後白河法皇の命により、義仲は水島の戦いで西国へ下るが、京の留守を兼光に命じ、法皇の監視に当たらせている。法皇と義仲が対立した法住寺合戦で法皇を拘束するなど義仲軍の中心人物として活躍した。
元暦元年(1184年)正月、義仲に離反した源行家・源義資を討伐するため、河内国石川へ出陣するが、その間に鎌倉軍が到着し、敗れた義仲は粟津の戦いで討ち死にした。翌日、義仲の死を知った兼光は京へ戻る道中で源義経の軍勢に生け捕られた。26日、義仲らの首と共に検非違使に身柄を引き渡され、2月2日、渋谷高重によって斬首された。
『吾妻鏡』によれば、兼光は武蔵国児玉党の人々と親しい間であったため、彼らは自分達の勲功の賞として兼光の助命を訴え、義経が朝廷に奏聞したが、兼光の罪科は軽くないとして許されなかったという。





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[長野県上伊那郡辰野町樋口570−1]

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常繁寺 (逆井氏菩提寺) 茨城県坂東市

常繁寺
逆井氏菩提寺 常繁寺





逆井城





逆井家は小山義政(藤原秀郷流小山氏の第11代当主・下野祇園城城主)の5男小山尾張守常宗が下総国猿島郡逆井領を与えられ地名から逆井氏を称したのが始まりとされます。常宗は宝徳2年(1450)に逆井城を築き、享徳5年(1456)には星智寺(現在は大宝八幡宮が所有)に梵鐘を寄進するなど一定以上の勢力があったとされ古河公方足利家に与し、対小田原北条家の最前線を担っていました。その後、貫利・常繁(小山右衛門四郎常繁)と跡を継ぎ天文5年(1536)、小田原北条家の重臣である大道寺駿河守(盛昌と推定されています。)の侵攻により逆井城は落城、常繁は討死、正室とされる智御前(又は娘とされる智姫)は逆井家に伝わる釣鐘をかぶって城中の池に入水、自害したと伝えられています。






常繁寺 山門常繁寺 山門





常繁寺 本堂常繁寺 本堂
慈雲山千手院常繁寺は茨城県坂東市逆井に境内を構えている浄土宗の寺院です。常繁寺の創建は不詳ですが、伝承によると逆井城の城主逆井常繁が室町時代後期の天文5年(1536)小田原(後)北条家の家臣である大道寺氏に攻められ逆井城が落城した際討死し、その菩提を弔う為、弟である逆井利光によって開かれたのが始まりと伝えられています。現在でも境内の一角に常繁の墓碑と一族の墓碑が建立されています。




常繁寺 逆井氏一族の墓常繁寺 逆井氏一族の墓





常繁寺 逆井氏一族の墓2









[茨城県坂東市逆井883]

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