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星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Photo Movie で見る 城館をどうぞ( `ー´)ノ

古城巡り 写真館

PhotoMovieにて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・
城エクスポ2019

福島正則霊廟 岩松院 上高井郡小布施町

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本堂裏の石段を上ったところには、賤ヶ岳七本槍のひとりに数えられ、寛永元年(1624年)に没した福島正則(ふくしままさのり)の霊廟が建立されています。
霊廟には、遺骨が埋葬され、左遷状や太閤葬儀行列張などが納められています。
福島正則は、元和5年(1619年)、台風による水害で破壊された広島城の本丸・二の丸・三の丸の石垣の修築を幕府に無断で行なったとして、安芸・備後50万石は没収、信濃国川中島四郡中の高井郡と越後国魚沼郡の4万5000石(高井野藩)に減転封されていました。
寛永元年(1624年)、高井野(長野県高山村)で死去、岩松院に葬られています





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岩松寺




岩松寺 本堂
岩松院 本堂



福島正則霊廟 標柱




福島正則霊廟
福島正則霊廟



蛙合戦の池の畔には、たった1ヶ月足らずで他界してしまった小林一茶の初児、千太郎への励ましの句でもある「痩せ蛙まけるな一茶これにあり」という句が記された句碑があります。



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「痩せ蛙まけるな一茶これにあり」という句が記された句碑」



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蛙合戦の池





[長野県上高井郡小布施町雁田615]

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榊原康政の墓 善導寺 群馬県館林市

【県史跡指定】

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善導寺は館林駅前に隣接していたことから、館林駅前広場整備計画により現在の地に移転しそれにに伴い、榊原家の墓も移転しました。



榊原康政は、天文17年(1548年)三河国上野(現在の愛知県豊田市)に生まれ、幼名を亀、のちに小平太と名乗り12才で徳川家康の家臣となりました。
初陣は、永禄6年(1563年)上野の合戦で、この時手柄をたて家康から一時を賜り家政と名乗りました。以後、姉川、三方ヶ原、長篠、小牧、長久手などの合戦を戦歴し、徳川幕府の功臣として、後に井伊直政、本多忠勝、酒井忠次とともに徳川四天王の一人に数えられています。
天正18年(1590年)家康の関東入国に際し、10万石を領し館林城主となりました。館林での業績は、城の拡張、城下町の整備、利根川・渡良瀬川の築堤をはじめ、日光脇往還を新設するなど、土木事業において顕著で郷土館林の礎を築きました。
康政は慶長11年(1606年)に没し、法名は養林院殿上誉見向大禅定門。、墓の高さは5.46メートルの宝篋印塔です。墓所には康政を含め榊原家関係者5基の墓石が並んでいます。





善導寺 縁起





善導寺 本堂
善導寺 本堂




榊原家墓所
榊原家墓所




榊原康政墓所
榊原康政の墓 善導寺 県指定史跡(館林市)






[群馬県館林市楠町3692]

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樋口次郎兼光の墓 長野県上伊那郡辰野町

DSC_0021改樋口次郎兼光は、木曽義仲に従い倶利伽羅峠の戦いなどで活躍した平安時代末期の武将。近江国粟津(滋賀県大津市)で、源範頼・義経の追討軍に敗れ、義仲とともに戦死したとも、義仲討死の報に接し、京に戻った後に捕らえられ殺されたなど、その最後をめぐっては諸説伝えられています。
辰野町樋口は、兼光が館を構えていた場所で、兼光死後、家来が遺髪を形見に戻り、真言宗香蓮寺に納め菩提を弔いました。
・・・・・・・・・・兼光の子孫が、直江兼続になる。






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乳母子として義仲と共に育ち、弟の兼平と共に忠臣として仕える。治承・寿永の乱における治承年(1180年)の義仲挙兵に従って各地を転戦した。寿永2年(1183年)の倶利伽羅峠の戦いなどで重要な役割を果たし、平家を都から追い落として7月に義仲と共に入京した。9月に後白河法皇の命により、義仲は水島の戦いで西国へ下るが、京の留守を兼光に命じ、法皇の監視に当たらせている。法皇と義仲が対立した法住寺合戦で法皇を拘束するなど義仲軍の中心人物として活躍した。
元暦元年(1184年)正月、義仲に離反した源行家・源義資を討伐するため、河内国石川へ出陣するが、その間に鎌倉軍が到着し、敗れた義仲は粟津の戦いで討ち死にした。翌日、義仲の死を知った兼光は京へ戻る道中で源義経の軍勢に生け捕られた。26日、義仲らの首と共に検非違使に身柄を引き渡され、2月2日、渋谷高重によって斬首された。
『吾妻鏡』によれば、兼光は武蔵国児玉党の人々と親しい間であったため、彼らは自分達の勲功の賞として兼光の助命を訴え、義経が朝廷に奏聞したが、兼光の罪科は軽くないとして許されなかったという。





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[長野県上伊那郡辰野町樋口570−1]

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常繁寺 (逆井氏菩提寺) 茨城県坂東市

常繁寺
逆井氏菩提寺 常繁寺





逆井城





逆井家は小山義政(藤原秀郷流小山氏の第11代当主・下野祇園城城主)の5男小山尾張守常宗が下総国猿島郡逆井領を与えられ地名から逆井氏を称したのが始まりとされます。常宗は宝徳2年(1450)に逆井城を築き、享徳5年(1456)には星智寺(現在は大宝八幡宮が所有)に梵鐘を寄進するなど一定以上の勢力があったとされ古河公方足利家に与し、対小田原北条家の最前線を担っていました。その後、貫利・常繁(小山右衛門四郎常繁)と跡を継ぎ天文5年(1536)、小田原北条家の重臣である大道寺駿河守(盛昌と推定されています。)の侵攻により逆井城は落城、常繁は討死、正室とされる智御前(又は娘とされる智姫)は逆井家に伝わる釣鐘をかぶって城中の池に入水、自害したと伝えられています。






常繁寺 山門常繁寺 山門





常繁寺 本堂常繁寺 本堂
慈雲山千手院常繁寺は茨城県坂東市逆井に境内を構えている浄土宗の寺院です。常繁寺の創建は不詳ですが、伝承によると逆井城の城主逆井常繁が室町時代後期の天文5年(1536)小田原(後)北条家の家臣である大道寺氏に攻められ逆井城が落城した際討死し、その菩提を弔う為、弟である逆井利光によって開かれたのが始まりと伝えられています。現在でも境内の一角に常繁の墓碑と一族の墓碑が建立されています。




常繁寺 逆井氏一族の墓常繁寺 逆井氏一族の墓





常繁寺 逆井氏一族の墓2









[茨城県坂東市逆井883]

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萩藩主毛利家墓所 香山公園 山口県山口市

この墓所は萩市に所在する旧天樹院、大照院、東光寺毛利家墓所とともに長州藩主(毛利本家)の墓所です。
萩市に所在の場所は五輪問、笠塔婆形であるのに比してこの墓所は土饅頭の全面に墓石を立てる形式になります。
墓所には七基の墓が有り中央の13代敬親公夫婦の墓は高さ約18m、経約5.8mの円形の墓であり「贈従一位大江源臣敬親卿墓」刻してあります。
そのほか、14代元徳公夫婦15代元照公夫婦及び毛利本家歴代諸霊之墓が有ります。




香山墓所 うぐいす張りの石畳み
香山墓所 うぐいす張りの石畳み この参道を歩くと音が反響するため俗に「うぐいす張りの石畳」と言われています・・・しかし、あまり音がしないような??




毛利家墓所 香山公園
毛利家墓所 香山公園




萩藩主毛利家墓所
萩藩主毛利家墓所 香山公園




毛利家墓所1
毛利家墓所




毛利家墓所2
毛利家墓所






[山口県山口市香山町1−14]

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